外山(とび)城

外山城
正倉院展へ行く前に大和桜井に寄ってきました。
桜井駅から20分ほど歩いたところに鳥見山があり、麓に等彌(とみ)神社があります。一の鳥居が内宮の鳥居で、古い鳥居を式年遷宮でもらったそうです。
等彌神社の奥から山道があり1kmほど歩いて霊畤を目指します。山道なんでスーツ姿では難しいですねえ。(笑)霊畤(れいじ)とは天皇が即位して最初に行う新嘗祭を行う場所をいいます。大嘗祭といいますが、神武天皇が日本で初めて行った大嘗祭が鳥見山で、行った場所が鳥見山山頂といわれています。
ずっと山道を登ると白庭と書かれた碑がありますが、ここが外山城の曲輪の1つです。外山城がつくられたのは南北朝時代で、たびたび合戦の舞台となりました。戦国時代には筒井方が守っていた外山城を松永久秀方が攻めて落城させています。
曲輪跡は4つあり、一番奥の曲輪が霊畤の碑があるところ。曲輪の虎口はちゃんと横矢がかかるよう作られていました。山道をつけるのに改変されていますが、曲輪跡はしっかり残っていました。ただ一番、端の曲輪はヤブだらけで、さすがに中に入るのをあきらめました。

平野氏陣屋跡

田原本
近鉄・田原本駅の東側は城下町になっていて小さな通りが碁盤の目のように走っています。
駅から少し行った田原本町役場あたりにあったのが平野氏陣屋跡。陣屋の遺構は残っていません。戦国時代、田原本をおさめたのが平野長泰という人物。賤ヶ岳の七本槍で有名です。七本槍というと福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元の5人は真田丸にも登場して有名なんですが、糟屋武則と平野長泰はあまり知られていません。
実は真田丸に平野長泰は登場していて、母衣衆になった信繁の上司です。信繫に「おまえはいいなあ」と言ったり、胡散臭さい人物として描かれています。
もともと尾張津島の住人で平野村をおさめていたことから平野氏という名前にしています。織田信長は祖父の時代から津島の経済をおさえたことでビッグになりましたので、津島は賑やかな町だったでしょう。
若き平野長泰は秀吉に仕え、軍功をあげていきます。そして与えられたのが田原本です。関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従っていたので、上田城攻めにも加わっていたでしょう。大坂の陣では一転、大坂方につこうとしますが、家康に止められます。戦国時代の武将としては珍しく天寿を全うしました。

保津の環濠集落

保津の環濠集落
台風が近づくなか、午後から専門家派遣のお仕事。ということで午前中に田原本駅で途中下車して保津の環濠集落へ。
大阪ですと堺や平野の環濠集落が有名ですが、堀などは姿を消してしまいました。奈良には環濠集落がいくつか、そのまま残っています。村や町を守るために堀(環濠)が巡らされ、これで土塁があれば城です。実際、環濠集落は戦いの舞台ともなりました。
保津の環濠集落は一部が暗渠になっていますが見事に環濠が残っています。鏡作伊多神社というのが近くに2ヶ所あり、南側の鏡作伊多神社のあるところはちょうど張り出したところにあります。横矢がかかる郭だとピッタリですので中世は館があったかもしれません。

松永久秀が散った信貴山城

信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。

住宅街に残る菜畑城

菜畑城
「近畿の城郭3」を読んでいたら住宅街にある城を発見。さっそく行ってきました。
大阪から生駒トンネルを抜けると生駒駅、ここで生駒線に乗り越えて一駅目が菜畑駅。少し歩くと往馬大社で、この近くに城があるはずなんですが、なかなか見つかりません。
けっこう迷っていると住宅地図の看板を発見。城山という字名があったので、たどりつくとピンポン、城跡でした。といっても住宅地なので丘の上に家が並んでいるだけで土塁などは残っていませんが、堀切(曲輪と曲輪の間を断ち切った堀)などが狭い公道で残っていました。
■住宅地に残る菜畑城
曲輪がそのまま住宅地として残っていて見事ですね。住宅地開発では城は壊されたり津の渋見砦公園のように何もなくなって、単なる公園になるケースがほとんどですが、曲輪だけですが見事に城跡が残っていました。
城の横は小川が流れていて、これが堀代わりだったのでしょう。この堀から切岸(侵入できないような崖)になっていました。誰が領主だったのか記録にもまったく出てこない城ですが、けっこう大きな城です。近畿大学のグラウンドと緑ヶ丘中学校のちょうど間ぐらいにあります。

大和三山に山城があった

耳成山
大阪から三重へ行く時に、よく大和八木駅で乗換しています。大和八木駅の横に見えるのが耳成山。大和三山の1つです。
先日、6,480円の大枚を払って買ってきた「近畿の城郭3」を読んでいたら、天神山城という山城が出てきました。場所をよく見ると耳成山頂上!耳成山に山城があったんだあ!
■天神山城へ
ということで雨が降る前の午前中に大和八木まで出かけてきました。耳成山の頂上近くに耳成山口神社があり、かっては天神社と呼ばれ、耳成山も天神山と呼ばれていたそうです。それで天神山城なんですなあ。この神社の裏手が城跡です。
明治天皇が陸軍の演習見学で頂上へ登った時に少し改変していますが、割と城跡が残っていました。郭もたくさんあり、帯郭もあって、けっこう大きな城です。
城を造ったのは赤澤朝経(ともつね)という人物で室町幕府方。大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもっており、赤澤朝経は山城を本陣にして連日、合戦にむかっていたと記録に残っているそうです。香具山にも城跡があるそうなんで、これは行かねば!

高山右近がキリシタンになった沢城(宇陀)

沢城
宇陀松山城(秋山城)の後、レンターサイクルで沢城へ行ってきました。
沢山の頂上に造られた山城で、自転車を置いてずっと山道を登っていきます。途中で分岐して上に登る道があり、”沢城への道はてっきりこれだ”と思って登ったのが運のツキ。途中で山道がなくなってしまいます。見上げると郭らしきものがあるので、”目標はあれだ!”と8メートルほどの切岸(敵の侵入を防ぐために造った人工的な断崖)を直登。3度ほど、ころびましたが、なんとかたどりつくとピンポン、沢城の郭でした。
沢城の主郭は藪だらけでしたが、出丸跡の土塁や堀切跡が見事に残っていました。城跡には看板もあり、山道を途中で上に登らずにずっと歩けば、無事に城にたどりつけたことが帰りに判明します。ムリに直登して、ころばなくてもよかったんだあ。
■高山右近がキリシタンとなった沢城
沢城を造ったのは宇陀三将の一人である沢氏。宇陀から山を越えれば三重県の多気で、沢氏は南朝方だったこともあり伊勢国司・北畠の重臣でした。沢氏古文書が現在まで伝わっており津にも領地をもっていたことが分かっています。ところが三好長慶の家来である松永久秀が大和を支配するために攻めてきて沢城は落城。松永久秀に従っていた高山友照(高山右近のお父さん)が新しい城主となります。
沢城が有名なのが、ここで高山友照や少年だった高山右近が洗礼を受けてキリシタンになったことで、ポルトガルの医師アルメイダが沢城を訪れており、アルメイダから報告を受けてルイス・フロイスが「日本史」に沢城につて書いています。城には教会や礼拝堂も建てられました。高山友照や家臣らがキリシタンになったことで、三好長慶の本拠地である河内・飯盛山城でもキリシタンが広まり、岡山城や砂、三箇城に教会が建てられ河内キリシタンとなっていきます。

宇陀松山 陣屋

西口門
大坂の陣が終わった1615年に宇陀松山城が破城となり、麓に陣屋が作られ、宇陀松山藩の中心は陣屋になりました。陣屋そのものは残っておらず西口門、春日口に石垣の一部と城下町に枡形が残っています。
■信長の次男、織田信雄
この宇陀松山藩に入ったのが織田信雄。信長の次男です。信雄は信長の伊勢攻めでは伊勢・国司だった北畠家にM&A戦略で入り込み、最終的に北畠家を乗っ取ります。本能寺の変のあとは秀吉と組んで三男・信孝と対立し、賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に味方します。ところがその後は家康とくっついて秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いましたが、秀吉に伊勢に攻め込まれて単独和睦します。
大坂の陣が終わった時には、60歳前でしたので家康から与えられた宇陀松山の土地は隠居地でした。山上にある宇陀松山城(秋山城)は宇陀三人衆だった秋山氏の城で、秋山氏は伊勢の北畠家中でしたので、宇陀でも織田信雄にやられたことになります。実際は途中に福島正則の弟がおさめるという中継ぎがありました。
織田信長の子孫で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけになります。宇陀松山藩は元禄7年(1694)に丹波国柏原へ国替えとなってからは、幕府の天領となり城下町は宇陀千軒と呼ばれるようになります。古い町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。街並みを眺めただけで、道の駅へ寄って、そのまま沢城へ向かいました。

秋山城(宇陀松山城)

宇陀松山城
昨日、原稿書きは終わったし、天気もよく、おまけに誕生日ということで山城登りに出かけてきました。
榛原駅前でレンターサイクルを借り、目指すは宇陀松山。古い城下町の街並みが残っていて、重要伝統的建築物群保存地区になっていますが、町並みを横目に春日神社の脇からひたすら山登り。目指すは宇陀松山城です。もともとは宇陀三将の一人、秋山氏の城で秋山城といっていました。豊臣秀長が大和を支配するようになって近代城郭に生まれ変わります。
山城というとうっそうとした木々の中にあるものですが、国史跡ということもあり、きれいに整備され天守台跡に建てば360度、宇陀地域を見渡すことができます。昔、柿本人麻呂が「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」と歌った阿騎野も見えます。
発掘調査もすすめられており、門跡や大手道などには石垣が使われて、なかなか見応えがあります。発掘で分かってきたのは豊臣時代の大和は大和郡山城、高取城の2城体制だではなく、宇陀松山城も足した3城体制だったようです。大坂夏の陣の後、大坂方だったため小堀遠州らによって宇陀松山城は廃城にされました。

大和郡山城 天守台石垣工事説明会

大和郡山城
大和郡山城の天守台石垣工事説明会があったので行ってきました。
大和郡山城、戦国時代は砦でしたが本格的な大和郡山城を造ったのが信長の命をうけた明智光秀で城は筒井純慶が守りました。豊臣秀吉の時代に筒井家は伊賀上野へ転封。代わりに入ったのが秀吉の弟で偉大なる補佐役と呼ばれた豊臣秀長です。
秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石の領主になったので、それにふさわしい城に大改造します。現在に残る天守台の石垣などは、この当時のものになります。この秀長に仕えていたのが後に津をおさめる藤堂高虎です。
400年も前に造られた天守台の石垣ですが、崩れているところもあり、解体して修復が行われています。石垣に墓石や石仏(地蔵)までが使われていることは前からわかっていましたが、今回の解体でもけっこうな数の五輪塔や墓石が見つかり現場に置いてありました。
自然石を使った野面積ですが5%ほどの石は割れてしまっているそうです。そのままでは使えませんので型をとって、四日市・菰野の石を加工し交換するそうです。
説明会は今日と明日、10時~15時に1時間起きに行われています。石垣というと表面しか見られませんが中の盛土から裏込め石まで見られるチャンスです。