松永久秀が散った信貴山城

信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。

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