大和藤尾城

下狭川城の馬場から細い山道があり「藤尾城まで2.2km」と看板があり、進んでいくと奈良柳生カントリーの北東へ出ます。溜池があって、ここの反対側にあるのが藤尾城。登る道はどこにもないので、切岸を直登することになります。下狭川の馬場から歩きましたが、この山道が阪原・大柳生を結ぶ往時の街道でした。ちょうど街道を見下ろす尾根に連郭式に曲輪を配置しています。

大和藤尾城
大和藤尾城

藤尾城が見つかったのは最近の話で平成3(2001)年、城山などの地名を頼りに城山の存在が確認されました。奈良柳生カントリー建設の時に保存運動が起こったそうで城の遺構が残ることになりました。ゴルフ場建設で消された山城も多い中、これは英断ですね。もっとも藪だらけの城跡です。それでも進んでいくと連郭式で郭と郭の間には深さ3mほどあるV字型堀切があり楽しめます。近江にある歓喜寺城によく似ていますね。

狭川氏の親戚である吉村氏が造った城と伝わっていますが、詳しいことは分かりません。

下狭川城

上狭川城は福岡氏の城でしたが本家筋である狭川氏の城が下狭川城です。春日若宮御祭には長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党が参加しましたが、狭川氏は長川党で願主も勤めていました。願主とは主催者の意味です。御祭で大和の国人は流鏑馬を奉納していました。下狭川城は3つの郭から構成された山城で、かなり大きく土塁や堀跡、また土橋などがありました。ただ半分ほどは竹藪になっています。

下狭川城
下狭川城

下狭川城には中墓寺から入れると後で調べて分かりましたが、結局は麓から直登しました。見当をつけてピークまで登ったら隣の山でした(笑)。いったん谷に降りて登りなおすと下狭川城がありました。下狭川城の虎口から降りる山道があり、200mほど行ったところに馬場がありました。馬場が残っている山城は珍しいですね。この馬場から細いコンクリートの作業道が出ており、歩くと前川を渡ることができ道路とつながっていました。ここから登ればメチャクチャ楽に登れます。

上狭川城

JR笠置駅から笠置街道を1時間ほど歩くと上狭川城入口に着きます。

Googleマップで調べると上狭川城跡登城口があり、現地に行くと確かに山道があったので登り始めましたが、途中から山道が消え、ひたすら尾根道を探して、直登することになります。なんとか登りきると郭の搦手に出られました。この山道は郭に祠があり、この祠へ行くための行者道の名残だったようです。現在は反対側にきちんとした山道が整備されていて狭川東町公民館から登れるようになっています。帰りはこちらから降りました。ちなみに狭川東町公民館に館があったそうです。

上狭川城
上狭川城

■福岡氏
上狭川城は土豪・福岡氏の城です。福岡氏は清和源氏の流れをくみ狭川庄をおさめていました。戦国時代、山内一豊の家来になり関ケ原の戦いの後、山内一豊が土佐をおさめることになった時、随従して土佐へ。幕末に五箇条の御誓文を起草した福岡孝弟に続きます。

■上狭川城
この福岡氏の上狭川城は単郭ですが、歴史の変遷とともに虎口がえらいことになっていきます。最初は単純な虎口だったようですが、さらに技巧を加え連続した枡型になっています。堀底を進んで4回も方向転換しないと城にたどりつけないようになっていて、土塁から十字砲火をあびせられる鉄壁の守りになっています。

竜谷城

湖北の山城は雪に覆われているだろうと思い、大和朝倉へ。予想に反して、こっちの方が雪国状態になっていました。

竜谷城
竜谷城

この辺りは南朝側だった西阿が外鎌山城、赤尾城、外山城などを築いており登城済なのですが、調べると文献に登場しない山城が竜谷にありました。大和朝倉駅から朝倉台の住宅を抜けて登っていくと竜谷集落に着きます。ここの北東端の小道を登っていくと途中から山道になります。もちろん案内板も何もありません。ひたすら尾根を目指し、尾根沿いに山頂部分にまで登ると山城があります。

細長い単郭の城で堀や土塁跡が残っています。どうみても陣城ですね。永禄6(1563)年に多聞城を根城にした松永久秀が多武峰攻めを開始します。筒井氏、越智氏、根来衆などは多武峰と組んで反三好の姿勢をとっていました。飛鳥や多武峰に城がたくさん造られましたが、竜谷城もその一環だったのでしょう。文献に残っていないので、松永久秀側か多武峰川のどちらが造った城かは不明です。

二上山城(雌岳)

二上山の雄岳から馬ノ瀬に降りて、今度は雌岳に登ります。雌岳も山城跡で頂上の郭をとりまくように郭が配置されています。雌岳は周りの木が切りはらわれているので河内国、大和国ともよく見えます。二上山城は大和と河内の国境にある絶妙な位置にあり、昔から要の城になっていました。

二上山(雌岳)
二上山(雌岳)

二上山城を築いたのは楠木正成で河内国七城の一つであると考えられていますが裏付けはありません。確実なのは河内守護だった畠山氏が古市の高屋城の支城として二上山城を整備していました。室町時代にいろいろと改修され、合戦の舞台となりました。現在の城郭になったのは木沢長政の時代のようで木沢長政は河内、山城南部の守護代で主家を上回る下剋上を成し遂げた人物です。三好長慶に敗れて討死しますが、死ななければ信長や松永久秀のように著名な戦国武将となったでしょう。

大和鈴山城

近鉄・五位堂駅を降りて少し歩くと「かつらぎの道」が馬見丘陵公園に向かって続いています。この「かつらぎの道」に入って坂を登ったところにあるのが鈴山城。馬見丘陵の一番西側になります。

鈴山城
鈴山城

鈴山城は誰が造ったのか不明で南北朝期に出来たようです。遊歩道建設に伴う発掘調査で南側にも堀跡が検出され方形居館形態の縄張りと考えられています。堀切や土塁、井戸跡などが見事に残っています。かってはうっそうとした山の中でしたがニュータウン開発で切り開かれ、丘陵部分に奇跡的に残っています。

地元の人が城跡の掃除などをしており、とてもアクセスしやすい城跡になっています。ただし入口はとっても分かりにくいところにあります。

雷丘城

山田道を山田寺を超えて、ずっと進むと飛鳥資料館があり、さらに先に進むと水落遺跡のちょっと先に雷丘(いかづちのおか)があります。

雷丘城

柿本人麻呂の「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に 庵りせるかも」で有名ですね。雷丘の近くにあったのが推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)です。雷丘へ徒歩かレンターサイクルで向かうと東側から登ることができ、上に登ると雷城の遺構を見ることができます。久しぶりに飛鳥へ行ったので城跡を見てきました。

戦国時代、飛鳥は戦場となり雷丘も城郭に改良されました。郭との間の空堀や帯郭が残っています。飛鳥時代の遺構はこの時に破壊されてしまったようです。近くには雷ギヨン城があります。

薬水城

薬水城
  • 吉野の入口に薬水というところがありますが、ここにあるのが薬水城。調べても、ほとんど情報がないのですが「近畿の城郭」に縄張図が出ていたので登ってきました。

    麓に薬水八幡神社があり、石碑には松永久秀の弟である久忠が信貴山の毘沙門天を勧請した神社とあります。この松永久忠が多聞城の出城として造ったのが薬水城のようですが本当かどうかわかりません。近辺で中世の屋敷跡が見つかっているので平常時は屋敷で、薬水城は戦で使う詰めの城だったかもしれません。

    例によって山城までの道はないので池近くから、ひたすら直登するしかありません。城山(じょうやま)と呼ばれる山で、もともとは古墳があり、この古墳を城郭に改造した城です。郭が2つあり堀切や土塁などが残っていましたが半分以上が藪の中でした。

    これで吉野地域の矢走城、矢走西城、六田城、飯貝城、丹治城、秋津城、下市御坊峯城、大和奉膳城、吉野城はなんとか登れました。

下市御坊峯城

【下市御坊峯城】
吉野に願行寺という一向宗の寺院があり下市御坊と呼ばれていました。東側にある本善寺(飯貝御坊)とともに一向宗の拠点でした。

下市御坊峯城

天正6年(1578年)、播磨の別所長治が信長を裏切り、三木合戦が始まります。また摂津の荒木村重も信長から離反。荒木村重は足利義昭、毛利、石山本願寺と手を結んで信長に対抗します。信長は各個撃破するしかなく、その一環で筒井順慶に命じて吉野の一向宗の拠点だった願行寺、本善寺ともども焼き討ちにします。

願行寺(下市御坊)の裏山にそびえる峯に造られたのが下市御坊峯城ですが陣城ではなく吉野を安定させるために筒井順慶が後で造った城のようです。今、郭の一部は畑になってしまいましたが、広い郭がいくつもあり、かなりの人数を格納することができる城でした。

秋津城(吉野)

秋津城は吉野・下市口にあります。

秋津城

吉野郡を支配していた秋津氏の城と伝わっていますが、吉野は一向宗が強く石山本願寺と呼応していたこともあり、織田信長が筒井順慶に命じて願行寺(下市御坊)、本善寺(飯貝御坊)など吉野を攻撃しました。この時に秋津城も落城したようです。

秋津城の西側は切岸ですが東側は墓地になっていて階段をずっと登ると頂上の郭に入ることができます。後世になってだいぶ改変され切岸もなくなってしまいましたが、その分、傾斜がゆるいので、楽に山城まで登れます。もっとも山城の風情はあんまりないですねえ。

秋津城の主郭には墓地が拡張されて郭にまで建っていました。古墳は見晴らしがよいので改変して山城にする例がいくつもありますが、山城の郭跡を墓地にしたのを見たのは初めてです。おそらく戦国の山城跡だと認識されていないんですね。墓が建っているのは主郭だけですが、ほかの郭は土塁や堀切もあり、楽しめます。