森屋城

近鉄・田原本駅とJR巻向駅のちょうど真ん中ぐらいにあったのが森屋城。村屋坐弥冨都比売神社(村屋神社)一帯にあったと言われていますが、城の痕跡はありません。すぐ近くを大和川が流れているので水を引き込んで筒井城のように沼地の平城だったのでしょう。神社には池や周りに水路が残っていました。

森屋城
森屋城

宇陀には沢氏(高山右近の洗礼で有名)、芳野氏、秋山氏の宇陀三将がいて、多気の北畠と連携していました。秋山直国という武将が十市氏と争った時、十市氏が三好三人衆と結びましたので、秋山直国は松永久秀と結んで対抗します。永禄11年(1568)、十市遠勝に森屋城を攻められますが松永軍の後援を得て反撃し、十市氏の龍王山城を奪取したようです。やがて松永氏と敵対する側だった筒井氏と組むようになり辰市城の合戦において松永軍を破る功績を挙げています。

増田長盛が整備した外堀

大和郡山城は信長時代に筒井順慶が筒井城から移って整備します。筒井順慶が死去すると、養子の筒井定次は秀吉の命令で伊賀上野城へ転封となります。その後に入ったのが秀吉の弟である豊臣秀長です。大和、和泉、紀伊をおさめる居城とします。現在の縄張りはこの秀長時代のものが基本になっているようです。

外堀
外堀

秀長が病没した後は増田長盛が入りました。増田長盛といえば秀吉に仕え太閤検地などで活躍しました。秀吉亡き後は五奉行として石田三成とともに家康に対抗しますが、この増田長盛が作ったのが外堀、いわゆる総構です。秀吉の命令だったのでしょうが増田長盛は小田原征伐にも参加していますので後北条氏が作った総構を参考にしたのでしょう。外堀の一部は整備されて公園になっています。

大和郡山城・外堀

近鉄郡山駅から北へ向かうと線路が森を突っ切っていきます。丘のようになっているので、ずっと切通しだと思っていました。ある日、気になって電車が通る時によく窓の外を見ると森の横に水路が見えます。

大和郡山城・外堀
大和郡山城・外堀

まさか堀? 大和郡山城からかなり離れているので外堀?

Googleマップで調べると付近に微妙に池や水路が残っていて外堀で間違いなし。念のために大和郡山の古地図を見ると ピンポンでした。

というわけで出かけてきました。丘に見えたのは総構の土塁跡で木が生繁っていました。堀跡は水路に線路の西側には代官池があったそうですが、こちらも水路に。こんなところに城跡が残っているんですなあ。

居伝城

居伝城
居伝城

峯山城から南に歩くとJR和歌山線の北宇智駅がある居伝に着きます。ここにあったのが居伝城です。

東谷山から3つの尾根が延びていて、この尾根上に城跡があります。山頂にも城跡があるはずなんですが、遺構は残っていないようです。尾根上には遺構が残っていて郭や堀切などを楽しめます。一部は民家になっているところもありますが、郭などが残っていました。

大和の国人である近内氏の城だったようで、近内善右衛門(ちかうちぜんざえもん)が1558年「郡内一揆」において国人衆の一員として連判状に署名した記録が残っています。

峯山城

峯山城
峯山城

風の森峠近くの東佐味に峯山があり、ここに峯山城があります。なかなか摩訶不思議な城跡です。山城といえば山頂にあるのが相場ですが、峯山城は尾根の先端にあります。郭がいくつかあり、土塁や大きな堀切などが見事です。峯山百体観音という観音巡りをする道があり、この道が城跡につながっています。

城から先の尾根筋は堀切で切られていますが、尾根から峯山山頂にかけて削平地があり、ここには南禅寺という真言宗寺院があったようです。山頂周辺には城としての遺構は残っておらず、本当に尾根の先だけが城跡のようです。山頂沿いから攻められた時の防御をどう考えていたんでしょうか、不思議な城です。

五条野城

五条野城
五条野城

近鉄岡寺駅近くに丸山古墳があったのを思い出し、それぐらい見ていこうと坂を登り始めると、あったのは八咫烏神社でした。一本道を間違えていました。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、別名が八咫烏です。神武天皇を熊野から大和まで案内した導きの神様です。

戦国時代、この八咫烏神社は城として活用されました。五条野城で、国民だった五条野氏の居館跡と考えられています。1475年に越智氏・古市氏とともに筒井方と戦って破った記録が残っていますが詳しいことは分かっていません。八咫烏神社の周囲を土塁と堀が巡っていたようで痕跡が境内に残っています。

上居城(多武峰城塞)

上居城
上居城

談山神社・西口から飛鳥へハイキングコースが整備されていますが、そちらではなく旧の多武峰街道に入ります。もっとも街道とは名ばかりの山道です。念誦崛(ねづき)城を過ぎて少し行くと道が分岐していて万葉展望台まで1kmと立札があります。この道が飛鳥の岡寺と多武峰を結ぶ街道で、道沿いに6つほどの城があります。城名がついていませんが字名が上居なので上居城とでも言うしかなさそうです。

山城にはてんで役に立たないGoogleマップではなく、地理院の地図とGPS追跡システムをアプリに入れているので山城探しはバッチリです。6つの城を巡ろうと考えましたが、どう考えても街道から直登するしかない城が3つあったので早々にあきらめました。

この中で一番、見やすいのが万葉展望台で、飛鳥や二上山、當麻などを一望できます。この展望台が城の主郭でした。郭の周りには堀切や他の郭もあり、楽しめます。もう一つ岡寺近くに街道の両方に拡がる城があり、郭がいくつも広がっています。一番、飛鳥に近い城なので、この城が最前線でしょう。実は飛鳥の岡寺にも城があります。岡寺前の県道15号線を少し南に行くと次の丘陵になります。県道から丘陵下の常谷寺へ向かう階段があり、この階段横から岡城の空堀に入れます。郭は単郭で、多武峰城塞群とは関係あったのでしょう。

冬野城(多武峰城塞)

冬野城(多武峰城塞)
冬野城(多武峰城塞)

談山神社・西口から冬野へ向かう山道があり、これをどんどん登っていくと冬野城へ行けます。もっとも冬に、こんな山道は登る酔狂な人はおりません。冬野城は多武峰城砦群の中でも最大の規模で、南の吉野方面への備えの城になっています。平安時代末期には早々と築かれていたようです。多武峰は各峰に城が造られ、記録に残るだけで三度の多武峰合戦が行われました。

南北朝時代、多武峰は南朝の遺臣に占領されてしまい反幕府の拠点にされてしまいます。永享9年(1437年)から始まる「大和永享の乱」(越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦)では幕府軍に焼かれて全山全焼してしまいます。他にも永正3年(1506年)の幕府に派遣された赤沢朝経に対する大和国人一揆の抵抗戦(十市氏、越智氏、箸尾氏)、永禄2年(1559年)からはじまる松永久秀に対する十市氏の抵抗戦でも攻城戦となりました。

山道を登り冬野にたどり着きましたが、郭がある電波塔に入る道は塞がれていて入れません。集落の人に聞いたら登るしかないということなので、結局、郭まで直登でした。波多神社の境内があるところが郭の一つですが、境内の先に堀切を隔てて主郭がありました。たくさんの郭が造られており、各尾根筋には堀切がいれられています。見事なのが談山神社へつながる尾根筋で、3つの大きな堀切で尾根筋を断ち切り、そのまま山の下まで続く竪堀がありました。すごい工事だったでしょうね。

念誦崛城

念誦崛城
念誦崛城

念誦崛は「ねづき」と呼びます。今は地名ですが仏教用語からつけられたんでしょう。今昔物語集に「多武峰(とうのみね)の増賀聖人のこと」という説話があり、狂気の僧として有名でした。この増賀上人の墓が念誦崛にあります。伝承ではここに斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)がありました。

増賀上人の墓の北側尾根上に西の守りとして念誦崛城がありました。多武峰城塞群の一つです。まず城内に入るのが大変です。墓の裏から高い土塁を登ると藪だらけの空堀があり、堀を抜けるとまた高い土塁に阻まれます。こんなところを攻めたら一発でやられます。

ようやく城内にはいると郭がいくつもあり、見事な堀切で区切られています。一番、奥の郭まで行こうと思いましたが、さすがに藪が多く、断念し、あきらめで帰ってきました。

多武峰城塞群

堀切
堀切

多武峰城塞群シリーズです。談山神社裏手から談山城、御破裂山城を巡り、西にある念誦崛城を目指します。御破裂山から飛鳥へ抜けるハイキングコースがあるのですが、飛鳥に向かって歩き出し、土橋跡を少し抜けると別の山道があります。これが半分、藪になっていますが城塞群への入口です。

山道に入るとすぐに堀切があり、念誦崛城へ向かう尾根筋も要所、要所を堀切で切って防衛力を上げています。一応道はついていますが誰も歩かないので藪をかきわけて進まないといけないところがあります。見どころ近くには木に白いテープが張ってあるので山城マニアが来ているのでしょうね。

■越智氏、十市氏、箸尾氏が立てこもる
昔、大和三山の1つ、耳成山の頂上にある天神山城へ登った時に調べると赤澤朝経(ともつね)が造ったことが分かりました。室町幕府方の人間で大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもり、赤澤朝経は天神山城を本陣にして連日、合戦にむかったと記録に残っています。

これが永正3年(1506)の赤沢朝経の大和乱入で、それ以前に永享9年(1437)から10年にかけて起こった大和永享の乱で越智方が多武峰を中心に抵抗したとありますので以前から多武峰は城塞化され、どんどん拡がっていったようです。飛鳥にも雷丘城などの城塞群があり、このあたりは激戦地だったんですねえ。