筒井順慶のお墓

近鉄天理線が分離する平端駅のすぐ近くに筒井順慶のお墓があります。

筒井順慶のお墓
筒井順慶のお墓

そう洞ヶ峠で有名な筒井順慶です。洞ヶ峠で秀吉と光秀の趨勢を日和見していたと言われていますが、実際は明智光秀が洞ヶ峠へ布陣し筒井順慶の動向を見極めていたのが実態です。先日の大河ドラマ「麒麟がくる」でチラッと出ていました。筒井順慶をはじめとする大和武士は基本的に興福寺か春日大社の衆徒になります。

■苦労しまくった筒井順慶
筒井順慶は父親が28歳で病死したため、わずか2歳で家督を継ぐことになります。叔父が後見してくれましたが16歳の時、この叔父もなくなってしまいます。筒井、越智、箸尾、十市で大和四家を構成していましたが筒井党の武士団を統率するのに四苦八苦。そこへ松永久秀が大和へ侵入。弱みにつけこんで奇襲をかけてきたため居城だった筒井城から逃げ出さざるをえませんでした。

筒井順慶は松永久秀と対立していた三好三人衆と手を組んで筒井城を奪還。この一連の戦いで奈良の大仏が焼け落ちてしまいます。ところが松永久秀が織田信長と手を結んでしまったので弱い立場になってしまいますが、何とかイーブンに持ち込んでいきます。なかなかやりますなあ。松永久秀のライバルでした。

やがて明智光秀の斡旋で信長に臣従し、大和をまかされることになります。明智光秀の与力となり雑賀攻めや松永久秀謀反の信貴山上攻めなどに従軍します。本能寺の変では光秀に味方せず、秀吉に仕えることになります。36歳で大和郡山城で病死。

■島左近
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と島左近が有名ですがもともとは筒井順慶の家臣でした。順慶が亡くなって、跡を継いだ後継者と上手くいかず筒井家を離れることになります。そこで破格の条件でスカウトしたのが石田三成です。

また作家・筒井康隆の先祖が筒井順慶の足軽だったらしく、「筒井順慶」という小説を書いています。

竹ノ内環濠

環濠シリーズです(笑)。天理にあるのが竹ノ内環濠という環濠集落。環濠集落は基本、平地に作られますが、竹ノ内環濠は大和盆地が見下ろせる高台にあります。ただ集落を囲んでいた環濠はだいぶ減ってしまい一部しか残っていません。

竹ノ内環濠
竹ノ内環濠

大和は南北朝時代から群雄割拠の戦国時代で各村では自衛のために環濠集落(早い話が平城です)を作ります。集落のまわりに堀をめぐらし、出入口を1箇所にして防衛します。松永久秀の大和進出もあり最終的に筒井順慶による統一まで大和では戦乱が続きました。

竹ノ内環濠は大和で一番高台にある環濠集落なので大和盆地や生駒山地がよく見えます。

中家住宅

中家住宅という名前ながら二重の堀に囲まれた典型的な環濠屋敷(城郭)です。外側の堀が残っているのが貴重ですね。

中家住宅
中家住宅

場所は安堵町窪田にあり、最寄り駅は近鉄・ファミリー公園前駅か平端駅です。表門前の内堀には跳ね上げ橋がり、中央の板橋を外すことで敵の侵入を防げます。けっこう広い土地を内堀が巡っています。

中氏はももともと伊勢・鈴鹿の土豪で、足立氏と称していました。足利尊氏に従って大和に入った時に窪田を本貫にして窪田姓を名乗るようになります。明徳2年(1391)年に窪田中氏と改め、周囲の土地をおさめ、筒井氏配下として活躍しました。豊臣時代に筒井氏が大和から伊賀に国替えとなりますが、この時に武士をやめ、江戸時代は大地主として現在にまで館などが残りました。

結崎井戸環濠

大和には守護がおらず、興福寺がその役目をしていました。筒井、箸尾、十市、越智などの土豪が相争い戦乱が絶えません。黒澤明の「七人の侍」ではありませんが村々は自営せざるをえず、村を堀で囲んだ環濠集落が作られました。大和の環濠集落は80ほどありました。

結崎井戸環濠
結崎井戸環濠

近鉄・結崎駅から西に歩くと井戸という土地があり、ここにあるのが結崎井戸環濠。周囲は住宅地になりましたが一部に堀跡が残っていて、環濠集落の看板も建っていました。

この辺りに居館があったのが井戸氏で井戸氏は筒井氏一族でしたので筒井・十市氏らが援助し、越智・箸尾氏らと戦っていました。これが大和国人衆を二分する動乱「大和永享の乱」となります。

森屋城

近鉄・田原本駅とJR巻向駅のちょうど真ん中ぐらいにあったのが森屋城。村屋坐弥冨都比売神社(村屋神社)一帯にあったと言われていますが、城の痕跡はありません。すぐ近くを大和川が流れているので水を引き込んで筒井城のように沼地の平城だったのでしょう。神社には池や周りに水路が残っていました。

森屋城
森屋城

宇陀には沢氏(高山右近の洗礼で有名)、芳野氏、秋山氏の宇陀三将がいて、多気の北畠と連携していました。秋山直国という武将が十市氏と争った時、十市氏が三好三人衆と結びましたので、秋山直国は松永久秀と結んで対抗します。永禄11年(1568)、十市遠勝に森屋城を攻められますが松永軍の後援を得て反撃し、十市氏の龍王山城を奪取したようです。やがて松永氏と敵対する側だった筒井氏と組むようになり辰市城の合戦において松永軍を破る功績を挙げています。

増田長盛が整備した外堀

大和郡山城は信長時代に筒井順慶が筒井城から移って整備します。筒井順慶が死去すると、養子の筒井定次は秀吉の命令で伊賀上野城へ転封となります。その後に入ったのが秀吉の弟である豊臣秀長です。大和、和泉、紀伊をおさめる居城とします。現在の縄張りはこの秀長時代のものが基本になっているようです。

外堀
外堀

秀長が病没した後は増田長盛が入りました。増田長盛といえば秀吉に仕え太閤検地などで活躍しました。秀吉亡き後は五奉行として石田三成とともに家康に対抗しますが、この増田長盛が作ったのが外堀、いわゆる総構です。秀吉の命令だったのでしょうが増田長盛は小田原征伐にも参加していますので後北条氏が作った総構を参考にしたのでしょう。外堀の一部は整備されて公園になっています。

大和郡山城・外堀

近鉄郡山駅から北へ向かうと線路が森を突っ切っていきます。丘のようになっているので、ずっと切通しだと思っていました。ある日、気になって電車が通る時によく窓の外を見ると森の横に水路が見えます。

大和郡山城・外堀
大和郡山城・外堀

まさか堀? 大和郡山城からかなり離れているので外堀?

Googleマップで調べると付近に微妙に池や水路が残っていて外堀で間違いなし。念のために大和郡山の古地図を見ると ピンポンでした。

というわけで出かけてきました。丘に見えたのは総構の土塁跡で木が生繁っていました。堀跡は水路に線路の西側には代官池があったそうですが、こちらも水路に。こんなところに城跡が残っているんですなあ。

居伝城

居伝城
居伝城

峯山城から南に歩くとJR和歌山線の北宇智駅がある居伝に着きます。ここにあったのが居伝城です。

東谷山から3つの尾根が延びていて、この尾根上に城跡があります。山頂にも城跡があるはずなんですが、遺構は残っていないようです。尾根上には遺構が残っていて郭や堀切などを楽しめます。一部は民家になっているところもありますが、郭などが残っていました。

大和の国人である近内氏の城だったようで、近内善右衛門(ちかうちぜんざえもん)が1558年「郡内一揆」において国人衆の一員として連判状に署名した記録が残っています。

峯山城

峯山城
峯山城

風の森峠近くの東佐味に峯山があり、ここに峯山城があります。なかなか摩訶不思議な城跡です。山城といえば山頂にあるのが相場ですが、峯山城は尾根の先端にあります。郭がいくつかあり、土塁や大きな堀切などが見事です。峯山百体観音という観音巡りをする道があり、この道が城跡につながっています。

城から先の尾根筋は堀切で切られていますが、尾根から峯山山頂にかけて削平地があり、ここには南禅寺という真言宗寺院があったようです。山頂周辺には城としての遺構は残っておらず、本当に尾根の先だけが城跡のようです。山頂沿いから攻められた時の防御をどう考えていたんでしょうか、不思議な城です。

五条野城

五条野城
五条野城

近鉄岡寺駅近くに丸山古墳があったのを思い出し、それぐらい見ていこうと坂を登り始めると、あったのは八咫烏神社でした。一本道を間違えていました。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、別名が八咫烏です。神武天皇を熊野から大和まで案内した導きの神様です。

戦国時代、この八咫烏神社は城として活用されました。五条野城で、国民だった五条野氏の居館跡と考えられています。1475年に越智氏・古市氏とともに筒井方と戦って破った記録が残っていますが詳しいことは分かっていません。八咫烏神社の周囲を土塁と堀が巡っていたようで痕跡が境内に残っています。