綾井城

綾井城

高石商工会議所で創業セミナーでしたので、ついでに綾井城へ寄ってきました。

綾井城は住宅街にあり、今は城蹟山専称寺の境内になっています。山門側だけに堀跡が残り、沼間日向守綾井城趾の碑が建っています。

綾井城は田代氏によって鎌倉期に造られ、戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており、沼間伝内は織田信長に従い、石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

■和泉三十六郷士
元々強大な勢力の無かった和泉には、各地の地侍が一つになって(和泉三十六郷士)行動をとるような体制が出来ていました。三十六郷士は織田信長には無抵抗で降伏し、所領を安堵されていますが、大坂石山の合戦に参戦・第1次木津川口海戦で毛利水軍に大敗しほとんどの者が討ち死をとげています。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。

摂津郡山城

摂津郡山城

西国街道を歩いていると摂津山崎城があることを見つけ、西国街道から大きくはずれて、せっせと丘を登ってきました。丘の上に浪速少年院がありますが、ここらへんにあったのが郡山城です。いつ造られた城かわかりませんが城主だった高利平太夫(郡兵太夫)は高槻城城主和田惟政の家臣でした。和田惟政は荒木村重や中川清秀らの軍勢と白井河原合戦で戦い敗れ、この時に郡平太夫は討死したといわれています。

信長や秀吉も郡山城を使ったようです。少年院の工事で大きな石が発見され城の遺構とみられています。碑だけが建っていました。また古い地名として物見塚、門口、城の内などが残っています。

柴島城

柴島城

阪急柴島駅、京都線と千里線が交差する淡路駅の隣駅です。淡路駅は平面駅で開かずの踏切問題などがあり、高架工事をしていますが、めちゃくちゃ大がかりで、ずっとやっています。柴島駅あたりでも工事が続いています。

この柴島駅近くにあったのが柴島城。淀川改修工事などで大幅に変わりましたが昔は地名通りの島でした。実際の柴島城は碑があるところから南にいった柴島中学校あたりにありました。

平城ですが、歴史の舞台に登場します。天文18年(1549年)に起きた江口の戦いで三好氏の内紛でした。三好長慶と三好政長との戦いで付近にあった榎並城や堀城などの攻防戦が行われ、政長側が守っていた柴島城を長慶軍が落城させます。最終決戦が江口城での戦いだったので江口の戦いとい呼ばれ、最終的に三好長慶が勝ちました。

高屋城(東高野街道)

東高野街道をゆく

高屋に築かれたのが高屋城で、もともとは畠山義就が築城したようです。応仁の乱は足利義政の正室である日野富子が我が子を将軍につけたいというワガママが原因ではなく、畠山家の家督相続が発端で、畠山義就は当事者の一人です。高屋城の中を東高野街道が通るようになっていて東海道を城に取り込んだ北条氏の山中城のようです。

■室町時代の事業承継問題
鎌倉時代は後継ぎとなる惣領以外にも所領を分配していたため、結果的に土地が細分化され困窮したところに、貨幣経済に巻き込まれて幕府滅亡の遠因となりました。そこで室町時代になると惣領が全てを承継する形に改められましたが、家督相続争いが各家で勃発することになります。本人だけでなく家来や外野の思惑もあって支離滅裂な状態に。興味がある方はベストセラーになった「応仁の乱」 (中公新書 呉座勇一)をぜひどうぞ!

不動坂(高屋城)

■戦いばかりだった高屋城
高屋城は河内守護の居城のため畠山氏が長く支配しますが、交通の要衝だったこともあり、力をつけてきた三好長慶などと争奪戦が行われ、城主が頻繁に変わることになります。高屋はしょっちゅう戦場になりました。最後は天正3年(1575年)に織田信長が攻めて落城させ、その後は廃城になったようです。ほとんどが住宅地になっていますが城の遺構があちこちに残っていて、東高野街道が通る近鉄南大阪線の踏切がある不動坂には櫓台跡があり土塁の一部が残っています。

水盛城

水盛城

東高野街道をゆく

近鉄・古市駅から一駅、河内長野訪問へ行くと喜志駅があります。東に向かうと大阪芸術大学や聖徳太子のお墓(叡福寺)などがあります。また河内源氏の本拠でもありました。喜志駅の近くを東高野街道が走っているので北上を開始。東高野街道は高台を通るようになっていて河岸段丘の上を通る道になっています。

街道の途中、Googleマップで見つけたのが水盛城跡という表示。行ってみたら何のことはない住宅街で遺構は何も残っていませんでした。城の一帯は東高野街道から、さらに高台になっていて平山城だったようです。高屋城の南を守る出城として使われていたようです。すぐ隣に三角縁神獣鏡などが見つかった庭鳥塚古墳(前方後方墳)があり、古墳は高台の眺めがよい所に使われているので櫓台になっていたのでしょう。

野崎城

野崎城

野崎観音の裏山にあるのが野崎城。飯盛山の東にある支脈が突き出した地で東高野街道を通る軍勢を上から攻撃できます。飯森山城の出城として使われていました。野崎城は公園にはなっていますが郭跡がよく残っています。

■東高野街道
当時、南北に大和川が流れていたため大量の兵士を大坂に送るには東高野街道を南下し、柏原あたりから西に向かうしかありませんでした。ですので東高野街道は昔から戦場となり野崎近くで行われたのが高師直と楠木正行が戦った四条畷の戦いです。大坂の陣では徳川軍の南下にも使われ、野崎のちょっと北にある岡山(現在は忍陵神社)には徳川秀忠が本陣をおきました。

大坂夏の陣では大坂城の堀がないため野戦に持ち込むしかなく、木村重成が若江から長宗我部盛親が八尾から湿地帯を突破して、東高野街道を南下する徳川軍を横から攻撃します。徳川軍に打撃を与えましたが木村重成が討死します。

飯森山城へ

ようやく涼しくなり、まもなくシーズン到来ですのでリハビリがてら飯森山城へ登ってきました。

飯森山城

麓の野崎から登りはじめましたが、だいぶ体がなまっていますね、途中でけっこう息がきれました。ヒーハー言いながら1時間ほどかけて山頂を目指します。

飯森山城は南北朝時代には築かれていて、高師直軍と楠木正行が戦った四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城をおさえたようです。それもあって頂上には楠木正行の銅像があります。その後、守護・畠山氏の被官だった守護代・木沢長政が城として整備をし、本格的な山城としてスタートします。石垣の城として整備したのは三好長慶で、織田信長よりも先に天下人になった人物です。

少年の時に父親を殺した細川晴元と手を結び、戦国時代には珍しく、兄弟で役割分担しながら畿内を平定します。しかし嫡子に先立たれるなど晩年は恵まれせんでした。この三好長慶に仕えていたのが松永久秀です。そうそうキリスト教の布教も認めていて高山右近がキリスト教に改宗したのも三好長慶の影響がありました。

三好長慶はこの飯森山城で病死し、御体塚郭に埋葬されていると伝わっています。大きな郭が稜線に連続し、一番北側の出丸からは山城、摂津、河内、大和の国を270度パノラマで見ることができます。

千貫櫓

千貫櫓

大坂城の大手口に対し、北西から横矢を狙うことができるのが千貫櫓です。豊臣大坂城の上に盛り土をして徳川大坂城を築きましたが、千貫櫓ができたのが元和6年(1620)です。乾櫓とともに大坂城内で最も古い建築物になっています。年に何回か公開されています。

千貫櫓という名前は古く、石山本願寺と信長が戦っていた時に、櫓からの横矢に悩まされ、信長が「銭千貫文を出しても取りたい」と言ったことが由来です。その後、建替えられた豊臣大坂城でも徳川大坂城でも名前が踏襲されました。

大坂城の最後の主が徳川慶喜。鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城で戦う予定でしたが徳川慶喜は敵前逃亡し、江戸へ軍艦で戻ります。「何で!」ということですが、いろいろな理由がありました。一つがイギリスの動きで、鳥羽伏見で幕府が敗退すると、イギリスは「局外対立を保たないかもしれない」と幕府を脅します。イギリス海軍が大坂城を海上封鎖したら詰みになってしまいます。

もう一つ、お金の問題もありました。大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったようです。

茶臼山 丸馬出し

天王寺へ行ったついでに天王寺公園内にある茶臼山へ。大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田信繁の本陣となりました。目的は馬出しを見に行くためです。馬出しとは城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪で堀などで守りながら横から出撃できるようになっています。

茶臼山 丸馬出し
茶臼山 丸馬出し

■茶臼山 丸馬出し
2014年、松江歴史館で保存されている「極秘諸国城図」に真田丸などの縄張り図などが含まれていることが分かり大きなニュースになりました。他にも大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いの舞台である茶臼山などの縄張り図がありました。真田信繁が守る茶臼山には西側に丸馬出しが築かれ、毛利勝永が守る岡山には東側に丸馬出しが築かれ、茶臼山と岡山の間には和気清麻呂が掘った古代の運河跡がありましたが、これをさらに掘って堀にしました。

写真が現在も残る丸馬出し跡です。完全に公園になっていてベンチなどでくつろいでいる人が多いのですが、ちゃんと丸馬出しの形になっています。ちなみに現地へ行ってもどこにも説明はありませんので

天王寺砦

天王寺砦
天王寺砦

天王寺砦があったのが四天王寺夕陽丘駅のすぐ近くにある月江寺で、昔は門前に堀跡があったとされています。何も遺構は残っていません。月江寺は上町台地の上にあるので西側は崖になっています。ここで行われたのが「天王寺砦の戦い」。天王寺砦を守っていたのが明智光秀と佐久間信栄(佐久間信盛の息子)ですが本願寺勢に包囲されてしまいます。急報を受けた織田信長は若江城に入り、3000ほどの兵を集めて、本願寺勢1万5千に突撃します。

織田軍は敵陣を切り崩して、天王寺砦の守備隊と合流しますが、信長自身も陣頭で自ら戦い、敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負います。織田軍は体制を立て直そうとしていた本願寺勢を再度、攻撃して撃破。最終的に織田軍の勝利で終わります。