高槻で午前中、お仕事でしたので終わってから高槻城跡に行ってきました。といっても城跡は残っていません。ただ街を歩き外堀跡には今でも見事な高低差が残っています。ほとんどブラタモリですねえ。(笑)
高槻城で有名なのが高山右近。キリシタン大名として有名で、先日、バチカンによって福者として認定されたと報道がありました。
■高山右近
高山右近はもともと北摂の余野近くにある高山の出身。まだ行けていませんが高山城という山城があります。
織田信長が足利義昭を伴って京都入りしたことから高山右近など摂津の国人衆は信長に従うことになります。また高山右近は強奪にちかいやり方で高槻城城主となります。戦国時代ですので血塗られたこともいろいろやっており、キリシタン大名になるのも救いを求めたためのでしょう。
摂津をおさめる荒木村重の与力となりますが、この荒木村重が信長に謀反を起こします。右近は悩みますが信長に味方。これが荒木村重敗北の一因となります。本能寺の変の後の山崎の合戦では先鋒として活躍。秀吉のもとで活躍しますが、やがてバテレン追放令がでます。
高山右近は棄教をすすめられますが、領地も財産もすべて捨てて信仰を守る方を選びます。前田利家に招かれて金沢に滞在していましたが、徳川家康の時代となりマニラに国外追放となり、現地で亡くなりました。
カテゴリー: 大阪府の山城
原田城
野崎城
昨日、飯盛山城へ登る前に野崎城へ登ってきました。
上方落語に「野崎まいり」という話があります。「野崎まいり」というのは野崎観音(大東市にあります)にお参りすること。昔は寝屋川を舟で行く人と、堤を行く人とがいて、互いに悪口をあびせ合う奇習があり、それを題材にしたものです。
この野崎観音は東高野街道沿いから少し高台になったところにあります。この高台の裏手の山にあるのが野崎城。といっても郭跡らしきものが残っているだけです。写真は野崎観音でこの裏山にあるのが野崎城。
太平記では北朝側が野崎城に陣取って、楠正行と対峙したとあります。高さは110メートルほどですが見晴らしがいいので、城には最適ですね。
交通の要所だった東高野街道をおさえることができます。今ではなんてことのない道路ですが、四条畷の合戦やら織田信長の本願寺攻め、大坂の陣など軍を動かす時にはなくてはならない街道でした。
飯盛山城が築かれると田原城などと同様に野崎城は出城として活用されることになりました。
飯盛山城
だいぶ涼しくなり、まもなく山城シーズンの到来。リハビリをかねて家から一番近い、飯盛山城へ行ってきました。
東高野街道を自転車で30分ほど走ると野崎観音で、ここから1時間ほどかけて飯盛山に登ります。頂上へ登ると京、摂津、河内が一望できます。この頂上一体が飯盛山城。藪蚊もだいぶ少なくなっていました。ハイカーも多かったですね。
飯盛山城は南北朝時代から使われていましたが、有名な城主が三好長慶。徳島県の三好出身です。室町幕府の将軍・足利義晴、義輝を京都より放逐し、三好政権を樹立。織田信長よりも先に天下人となりました。
それまでは高槻の奥にある芥川山城を居城にしていましたが、息子に譲って1560年に飯盛山城へ居城を移しました。飯盛山城には石垣が使われ、芥川山城も石垣が使われていましたので、けっこう早い時期から石垣を使っていたようです。さすがに当時は上まで積む技術がなかったので階段式石段になっています。でも当時はすごい威圧感があったでしょう。
近年、小牧山城の天守近くで同様の階段式石垣が見つかりましたので、信長はこの飯盛山城を参考にしたのかもしれません。
大坂城 乾櫓
乾というのは西北の方角を差し、大坂城の一番西北にある櫓が乾櫓。
大坂の陣で天守閣などが燃えたため、徳川秀忠の命令で豊臣時代の大坂城に盛り土をし建てたのが現在の大坂城。ですので大坂城は太閤さんのお城ではなく、徳川のお城です。その後、天守閣や櫓は江戸時代の火事や太平洋戦争などで燃えてしまいましたが、秀忠によって再建された最古の建物が2つ残っていて、一つが千貫櫓でもう一つが乾櫓。乾櫓はL字型をした櫓です。
■固定資産税免除を家光が決定
徳川幕府による第一期工事が終わった時、大坂や堺の町人代表に通達して乾櫓近くの堀に集めます。大坂の陣で大坂が荒廃してしまったので、大坂、堺の地子銀(固定資産税)を永久免除することにしました。徳川家光が新しく造られた乾櫓に入り、町人に向かって金の采配を振ります。これが地代免除決定の知らせでした。
固定資産税免除に喜んだ町民は恩を忘れないために記念に釣鐘が作られることなりました。釣鐘屋敷が作られ、釣鐘は2時間おきに1日12回撞かれ、大坂中に時を告げることになります。近松門左衛門の曽根崎心中ではお初、徳兵衛の最後の道行に、この鐘を聞くシーンが出てきます。釣鐘屋敷はなくなってしまい釣鐘は二転三転しましたが、今も残っていて、この釣鐘屋敷跡に復活しています。この一帯は釣鐘町と呼ばれています。
大坂城 千貫櫓
大坂城の大手門(追手門)へ入るには堀を土橋で渡らないといけませんが、この大手門へたどりつくのが大変です。
大手門の横から堀に張り出し、土橋に横矢をかける(横から攻撃)のが千貫櫓。1620年、大坂の陣が終わり、徳川秀忠が大坂城を造り直した時にできた、大阪城内に残るもっとも古い建造物の1つです。
千貫櫓の名前は古く、織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢の攻撃で難渋した櫓があり、信長が「あの櫓を落とした者には、千貫文を与えてもよい」と言ったことに起因しています。
■千貫文っていくら?
永楽通宝1貫文で米4石が買えましたので千貫文となると4000石です。1石は1000合で、成人1人が1年間に消費する量に該当します。1石は約150kgですから現在の米価10kg3,000円で計算すると4万5千円。4000石だと180,000,000円=1億8千万円になります。
戦国時代の軍役は100石につき6人ほどでしたので、4000石ですと4000石/100石×6人=240人となり、240人の兵をまとめる将ぐらいの褒美だったんですね。
■千貫櫓
本願寺が信長と和睦して退去する時に教如が火をつけたようで石山本願寺時代の建物はなくなりました。堀や土塁などはそのままですので、丹羽長秀が城を預り、織田信孝を総大将に四国攻めに向かおうとした、まさにその時に本能寺の変の知らせが届きます。
去年、石谷家文章が発表され、明智光秀の謀反の動機は、この四国攻めを阻止するためという説が注目されるようになりました。いろいろ調べると西美濃三人衆だった稲葉一鉄と斎藤利三との確執もからんでいるようです。
やがて豊臣秀吉が大坂城を造りますが、同じような隅櫓を作り、千貫櫓と名付けたようです。これが秀忠が造った大坂城にも名前が受け継がれたようです。
大坂城 多聞櫓 特別公開
重要文化財である大坂城の櫓が公開されていますので、行ってきました。公開日は22日、23日、26日、27日の残り4日です。
徳川家光が再建した大坂城の大手口は枡形虎口になっています。門を突破した敵をまっすぐに進ませず方向を変えさせ、周りを櫓が囲んでいますのであたふたしている敵を集中砲火で殲滅する入口のことです。戦国時代から虎口(城の入口)を湾曲させていましたが、これを発展させたものが枡形虎口。
武田信玄ら東日本の武将は三日月堀と馬出しをよく使っており、武田の家臣だった真田信繁(幸村)の真田丸も大きな馬出しだったという説があります。西日本でよく使われたのが枡型虎口です。
城は横矢がかかるように屈曲させるのが主流でしたが、これですと中の空間がどうしても歪になります。そこで水堀と四角形の郭パターンを作りだしたのが藤堂高虎。防御力が落ちるのを枡型虎口と多聞櫓でカバーしました。江戸時代は規格化されたこのパターンが使われ、全国どこの城へ行っても同じような縄張になりました。
多聞櫓というのは長屋のような櫓で、もともとは松永久秀の多聞城(奈良市内)で使われ、その名がつきました。大坂城大手口の多聞櫓は江戸時代のもので、ここから枡型虎口をのぞくと簡単に敵をしとめることができそうですね。
オヤジの会
最近、夏・冬になると「オヤジの会」という面妖な会から案内が届くようになる。
おかしいなあ、私が所属していたのは「イケメンお兄さんの会」だったのに、そちらの会からの案内はいっこうに届かず、面妖な会からだけ案内が届くようになってしまった。「オヤジの会」には少し前にオブザーバーで参加した記憶があるが、どうもそれ以来、正式メンバーになってしまったようだ。
しかも「オヤジの会」と言いながらオバサンもいる。集合時間に遅れそうになったのであわててタクシーに乗ろうとしてこけてしまい。足から血を流しながら参加するという御仁である。
「オヤジの会」はめちゃくちゃ国際的な話も飛び出し、あいかわらず面妖な会であったが、料理もけっこう凝っていて、コースの最後に好きなうどんを頼むことができ、カレーうどんを頼んところ、丼ではなく鉢に入ったカレーうどんが登場。料理も面妖な店であった。
おいしゅう、いただきました。
水走城跡
こう暑いと、さすがに山城には登れませんので近くの平城巡りをしています。
東大阪に水走(「みずはい」もしくは「みずはや」)という地名があり、阪神高速の水走出入口があります。平安時代の終わりから、この辺りを開発し、地名を元にして名乗ったのが水走氏。最盛期には現在の東大阪・大東・八尾を管理していました。
現在の水走はすっかり内陸部になり、繊維団地などがありますが、大和川付替以前には寝屋川など多くの河川や深野池などの湖沼があり、港がありました。水走氏は水運などをおさえ発展していきます。水走の隣に吉田という所があり、大和川の支流である吉田川が流れていたところで、不動産関係者に聞くと、吉田や水走というような名前の土地は地盤が軟弱なので買わない方がよいと言っていました。
水走氏は古代から続く氏族で、中臣氏と同じ天児屋根命(枚岡神社の主神)を祖とする平岡連の末裔。枚岡神社近くの五条町に平城を構え、城には寝殿、惣門、中門、厩屋や倉などがありましたが、今は住宅街になってしまい、江戸時代に作られた墓塔が建っています。
もともとは枚岡神社の神職でしたが枚岡神社の社領などを守る武士団として発展していきます。河内源氏に従い、源義家や義経の御家人もつとめていました。南北朝時代は楠正成と共に足利軍と戦っています。四条畷の戦いでも楠正成に味方しましたが、高師直らの攻撃を受けて降伏。河内国守護となった畠山氏のもとで既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜きました。江戸時代も神職を続けて現在まで続いています。
楠正行が本陣をおいた往生院城
近鉄・瓢箪山駅を南側に超えて少し行った先を東側に行くと往生院六萬寺というお寺があります。
家から自転車でいける近さですが、途中から生駒山を登るすごい坂になっていてお寺に着くころには息も絶え絶えに。高台ながら住宅街が拡がっていますが学校に通う子供とかは大変でしょうねえ。毎日、アスレチックです。
■創建は蘇我馬子の時代
往生院六萬寺から大阪が一望できます。歴史はめちゃくちゃ古く、崇峻天皇の時代に善信尼(日本最初の尼僧)が留学先の百済から帰って創建したのが桜井寺。蘇我馬子の時代です。この桜井寺が荒廃してしまったようで、天平時代に聖武天皇の勅願により跡地に六萬寺ができました。これが今の往生院六萬寺。奈良の大仏と正倉院が創られた時代です。
■楠正行の本陣跡
時代が下り、建武の親政が失敗した後、南北朝時代を迎えます。湊川へ向かう楠正成と長男の正行が分かれるシーンが世に名高い「桜井の別れ」。JR東海道線の島本駅のすぐ横が「桜井の別れ」の地と言われ碑が建っていますが、一説には六萬寺(桜井)が本当の「桜井の別れ」の場所と言われています。六萬寺は楠正行が幼少期に学んでいた所で、東高野街道が通っており、ずっと南に行けば楠の本拠地である河内長野。六萬寺は楠(河内)の勢力圏ですので、子供がわざわざ西国街道の桜井の駅まで行くのは無理でしょうから妥当な判断でしょうね。
楠正成が倒れた後、長男の楠正行が楠一族の頭領となり、南朝方として戦います。楠正行の最期の戦いが四条畷の戦いで、本陣がおかれたのが幼い時にいた六萬寺。楠正行は足利、高師直軍と戦いましたが敗退、自決しました。六萬寺もこの時、兵火で燃えています。
東高野街道をずっと北に上がった四条畷市が戦いの場所といわれていますが、六萬寺の近くに四条や縄手という地名が今も残り、本当の四条畷の戦いは四条縄手で行われていたのではとも言われています。いずれにしても近鉄・瓢箪山駅周辺は南北朝時代の戦場でした。