大坂城 乾櫓

乾櫓
乾というのは西北の方角を差し、大坂城の一番西北にある櫓が乾櫓。
大坂の陣で天守閣などが燃えたため、徳川秀忠の命令で豊臣時代の大坂城に盛り土をし建てたのが現在の大坂城。ですので大坂城は太閤さんのお城ではなく、徳川のお城です。その後、天守閣や櫓は江戸時代の火事や太平洋戦争などで燃えてしまいましたが、秀忠によって再建された最古の建物が2つ残っていて、一つが千貫櫓でもう一つが乾櫓。乾櫓はL字型をした櫓です。
■固定資産税免除を家光が決定
徳川幕府による第一期工事が終わった時、大坂や堺の町人代表に通達して乾櫓近くの堀に集めます。大坂の陣で大坂が荒廃してしまったので、大坂、堺の地子銀(固定資産税)を永久免除することにしました。徳川家光が新しく造られた乾櫓に入り、町人に向かって金の采配を振ります。これが地代免除決定の知らせでした。
固定資産税免除に喜んだ町民は恩を忘れないために記念に釣鐘が作られることなりました。釣鐘屋敷が作られ、釣鐘は2時間おきに1日12回撞かれ、大坂中に時を告げることになります。近松門左衛門の曽根崎心中ではお初、徳兵衛の最後の道行に、この鐘を聞くシーンが出てきます。釣鐘屋敷はなくなってしまい釣鐘は二転三転しましたが、今も残っていて、この釣鐘屋敷跡に復活しています。この一帯は釣鐘町と呼ばれています。

大坂城 千貫櫓

千貫櫓
大坂城の大手門(追手門)へ入るには堀を土橋で渡らないといけませんが、この大手門へたどりつくのが大変です。
大手門の横から堀に張り出し、土橋に横矢をかける(横から攻撃)のが千貫櫓。1620年、大坂の陣が終わり、徳川秀忠が大坂城を造り直した時にできた、大阪城内に残るもっとも古い建造物の1つです。
千貫櫓の名前は古く、織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢の攻撃で難渋した櫓があり、信長が「あの櫓を落とした者には、千貫文を与えてもよい」と言ったことに起因しています。
■千貫文っていくら?
永楽通宝1貫文で米4石が買えましたので千貫文となると4000石です。1石は1000合で、成人1人が1年間に消費する量に該当します。1石は約150kgですから現在の米価10kg3,000円で計算すると4万5千円。4000石だと180,000,000円=1億8千万円になります。
戦国時代の軍役は100石につき6人ほどでしたので、4000石ですと4000石/100石×6人=240人となり、240人の兵をまとめる将ぐらいの褒美だったんですね。
■千貫櫓
本願寺が信長と和睦して退去する時に教如が火をつけたようで石山本願寺時代の建物はなくなりました。堀や土塁などはそのままですので、丹羽長秀が城を預り、織田信孝を総大将に四国攻めに向かおうとした、まさにその時に本能寺の変の知らせが届きます。
去年、石谷家文章が発表され、明智光秀の謀反の動機は、この四国攻めを阻止するためという説が注目されるようになりました。いろいろ調べると西美濃三人衆だった稲葉一鉄と斎藤利三との確執もからんでいるようです。
やがて豊臣秀吉が大坂城を造りますが、同じような隅櫓を作り、千貫櫓と名付けたようです。これが秀忠が造った大坂城にも名前が受け継がれたようです。

大坂城 多聞櫓 特別公開

枡型虎口
重要文化財である大坂城の櫓が公開されていますので、行ってきました。公開日は22日、23日、26日、27日の残り4日です。
徳川家光が再建した大坂城の大手口は枡形虎口になっています。門を突破した敵をまっすぐに進ませず方向を変えさせ、周りを櫓が囲んでいますのであたふたしている敵を集中砲火で殲滅する入口のことです。戦国時代から虎口(城の入口)を湾曲させていましたが、これを発展させたものが枡形虎口。
武田信玄ら東日本の武将は三日月堀と馬出しをよく使っており、武田の家臣だった真田信繁(幸村)の真田丸も大きな馬出しだったという説があります。西日本でよく使われたのが枡型虎口です。
城は横矢がかかるように屈曲させるのが主流でしたが、これですと中の空間がどうしても歪になります。そこで水堀と四角形の郭パターンを作りだしたのが藤堂高虎。防御力が落ちるのを枡型虎口と多聞櫓でカバーしました。江戸時代は規格化されたこのパターンが使われ、全国どこの城へ行っても同じような縄張になりました。
多聞櫓というのは長屋のような櫓で、もともとは松永久秀の多聞城(奈良市内)で使われ、その名がつきました。大坂城大手口の多聞櫓は江戸時代のもので、ここから枡型虎口をのぞくと簡単に敵をしとめることができそうですね。

オヤジの会

カレーうどん
最近、夏・冬になると「オヤジの会」という面妖な会から案内が届くようになる。
おかしいなあ、私が所属していたのは「イケメンお兄さんの会」だったのに、そちらの会からの案内はいっこうに届かず、面妖な会からだけ案内が届くようになってしまった。「オヤジの会」には少し前にオブザーバーで参加した記憶があるが、どうもそれ以来、正式メンバーになってしまったようだ。
しかも「オヤジの会」と言いながらオバサンもいる。集合時間に遅れそうになったのであわててタクシーに乗ろうとしてこけてしまい。足から血を流しながら参加するという御仁である。
「オヤジの会」はめちゃくちゃ国際的な話も飛び出し、あいかわらず面妖な会であったが、料理もけっこう凝っていて、コースの最後に好きなうどんを頼むことができ、カレーうどんを頼んところ、丼ではなく鉢に入ったカレーうどんが登場。料理も面妖な店であった。
おいしゅう、いただきました。

水走城跡

水走氏
こう暑いと、さすがに山城には登れませんので近くの平城巡りをしています。
東大阪に水走(「みずはい」もしくは「みずはや」)という地名があり、阪神高速の水走出入口があります。平安時代の終わりから、この辺りを開発し、地名を元にして名乗ったのが水走氏。最盛期には現在の東大阪・大東・八尾を管理していました。
現在の水走はすっかり内陸部になり、繊維団地などがありますが、大和川付替以前には寝屋川など多くの河川や深野池などの湖沼があり、港がありました。水走氏は水運などをおさえ発展していきます。水走の隣に吉田という所があり、大和川の支流である吉田川が流れていたところで、不動産関係者に聞くと、吉田や水走というような名前の土地は地盤が軟弱なので買わない方がよいと言っていました。
水走氏は古代から続く氏族で、中臣氏と同じ天児屋根命(枚岡神社の主神)を祖とする平岡連の末裔。枚岡神社近くの五条町に平城を構え、城には寝殿、惣門、中門、厩屋や倉などがありましたが、今は住宅街になってしまい、江戸時代に作られた墓塔が建っています。
もともとは枚岡神社の神職でしたが枚岡神社の社領などを守る武士団として発展していきます。河内源氏に従い、源義家や義経の御家人もつとめていました。南北朝時代は楠正成と共に足利軍と戦っています。四条畷の戦いでも楠正成に味方しましたが、高師直らの攻撃を受けて降伏。河内国守護となった畠山氏のもとで既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜きました。江戸時代も神職を続けて現在まで続いています。

楠正行が本陣をおいた往生院城

往生院六萬寺
近鉄・瓢箪山駅を南側に超えて少し行った先を東側に行くと往生院六萬寺というお寺があります。
家から自転車でいける近さですが、途中から生駒山を登るすごい坂になっていてお寺に着くころには息も絶え絶えに。高台ながら住宅街が拡がっていますが学校に通う子供とかは大変でしょうねえ。毎日、アスレチックです。
■創建は蘇我馬子の時代
往生院六萬寺から大阪が一望できます。歴史はめちゃくちゃ古く、崇峻天皇の時代に善信尼(日本最初の尼僧)が留学先の百済から帰って創建したのが桜井寺。蘇我馬子の時代です。この桜井寺が荒廃してしまったようで、天平時代に聖武天皇の勅願により跡地に六萬寺ができました。これが今の往生院六萬寺。奈良の大仏と正倉院が創られた時代です。
■楠正行の本陣跡
時代が下り、建武の親政が失敗した後、南北朝時代を迎えます。湊川へ向かう楠正成と長男の正行が分かれるシーンが世に名高い「桜井の別れ」。JR東海道線の島本駅のすぐ横が「桜井の別れ」の地と言われ碑が建っていますが、一説には六萬寺(桜井)が本当の「桜井の別れ」の場所と言われています。六萬寺は楠正行が幼少期に学んでいた所で、東高野街道が通っており、ずっと南に行けば楠の本拠地である河内長野。六萬寺は楠(河内)の勢力圏ですので、子供がわざわざ西国街道の桜井の駅まで行くのは無理でしょうから妥当な判断でしょうね。
楠正成が倒れた後、長男の楠正行が楠一族の頭領となり、南朝方として戦います。楠正行の最期の戦いが四条畷の戦いで、本陣がおかれたのが幼い時にいた六萬寺。楠正行は足利、高師直軍と戦いましたが敗退、自決しました。六萬寺もこの時、兵火で燃えています。
東高野街道をずっと北に上がった四条畷市が戦いの場所といわれていますが、六萬寺の近くに四条や縄手という地名が今も残り、本当の四条畷の戦いは四条縄手で行われていたのではとも言われています。いずれにしても近鉄・瓢箪山駅周辺は南北朝時代の戦場でした。

津堂城山古墳を活用した小山城

津堂城山古墳
後藤又兵衛が亡くなった小松山から石川を渡ると、道明寺です。
ここには古市古墳群があり、藤井寺と八尾の境に津堂城山古墳があります。前方後円墳なんですが、南北朝時代に古墳の地形を利用して小山城が築かれました。河内国・守護職畠山氏の時代は古市にある高屋城が主城でしたが、安見氏を小山城に入れて高屋城の支城にしたようです。高屋城、小山城だけでなく近くにある丹下城も大塚山古墳を利用していて、この辺りの城は古墳ばかり活用しています。リサイクルですねえ。
小山城は古墳の丘陵を使って本丸、南西下に二ノ丸、堀を挟んで南西に三ノ丸と続いていました。城にしてしまったので古墳の形が崩れ、明治の頃は古墳ではなく城跡だとみんな思っていたようで、本丸などの小字名がつけられていました。ところが明治の終わりぐらいに石棺などが発見され、宮内庁はあわてて発見された後円部頂部を陵墓参考地に治定しました。この頂部以外は立入ができますが、城跡というより古墳の雰囲気ですねえ。
スーツ姿で十分に登れる城です。

後藤又兵衛が散った小松山の戦い

小松山
大河ドラマ「黒田官兵衛」では後藤又兵衛を塚本高史が演じていました。来年の「真田丸」では誰が演じるんでしょうね。専門家派遣が昼過ぎに終わったので河内国分へ出かけてきました。
ここは奈良から天王寺へ向かうJR大和路線が通っています。京都から大阪へ大軍が移動するには大阪の東側に生駒山脈があるので、枚方から星田、河内森に入るか、奈良をずっと迂回して河内国分へ出るしかありません。
大坂冬の陣で大坂城の堀は埋められ大坂方は野戦で勝負するしかありません。そこで河内平野に出てくる河内国分の隘路でたたこうと大坂城を出陣。
■小松山の戦い
第一陣の後藤又兵衛が道明寺に着くと徳川軍が既に河内国分に展開していました。後続部隊が到着していませんが、このまま河内平野に入られるとまずいので、徳川軍が河内平野に向かう時、たちふさがる位置にある小松山に陣をはります。大和川がすぐ近くを流れていて進軍できるところが狭いため、小松山から鉄砲を討たれると実にイヤな所です。
小松山は玉手山の尾根にある山のひとつで頂上には老人福祉センター「やすらぎの園」があります。このあたりが激戦地となりましたが、今や住宅地。かなりの坂道で頂上まで上がると息もたえだえですが、眺めはとってもいいです。ハルカスが見えますが、当時は大坂城も見えたでしょう。
後藤隊は善戦し、徳川軍の損害も大きかったのですが、徳川軍は後続部隊が次々、到着するため多勢に無勢、8時間もの激闘の末、後藤又兵衛は戦死、後藤隊は壊滅します。この後、真田幸村が道明寺で徳川軍で一矢むくいますので来年の大河ドラマでも小松山の戦いは出てくるでしょう。

烏帽子型城(河内長野)

烏帽子型城
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。

市街地に奇跡的に残る交野城(私部城)

交野城
織田信長が石山本願寺攻めなどに活用した若江城や古市にあった高屋城など市街地にある城は住宅地されるがほとんどですが、奇跡的に市街地に残っているのが交野城(私部城)。京阪交野駅からちょっと歩いた私部に残っています。
もっとも多くは住宅地や畑などになっていますが、郭の形がわかる形で残っていて、交野郵便局の隣には土塁跡も残っています。少し高台に堀で囲まれた形で奈良の筒井城に似ています。
交野城(私部城)は城主が分かっていて河内の武将だった安見右近が築城。松永久秀の配下で、松永久秀の命令で交野城(私部城)を築城したようです。やがて松永久秀とともに織田信長の配下に入り、三好三人衆を交野城(私部城)で牽制していました。ところが松永久秀が信玄の動きにあわせて信長を裏切ります。そうとは知らない安見右近は松永久秀に多聞城に呼ばれて殺されてしまいます。
その後、すぐ松永久秀は交野城を攻めますが、なんとか持ちこたえました。この時に松永久秀が造った陣城が国見山の津田城という説があります。柴田勝家、佐久間信盛らがかけつけて松永久秀軍を撃退します。
いつ城が廃城になったかは分かりませんが、本能寺の変のあとではといわれています。以来、400年以上も城跡が奇跡的に残りましたので、今後も残していってほしいですね。