後藤又兵衛が亡くなった小松山から石川を渡ると、道明寺です。
ここには古市古墳群があり、藤井寺と八尾の境に津堂城山古墳があります。前方後円墳なんですが、南北朝時代に古墳の地形を利用して小山城が築かれました。河内国・守護職畠山氏の時代は古市にある高屋城が主城でしたが、安見氏を小山城に入れて高屋城の支城にしたようです。高屋城、小山城だけでなく近くにある丹下城も大塚山古墳を利用していて、この辺りの城は古墳ばかり活用しています。リサイクルですねえ。
小山城は古墳の丘陵を使って本丸、南西下に二ノ丸、堀を挟んで南西に三ノ丸と続いていました。城にしてしまったので古墳の形が崩れ、明治の頃は古墳ではなく城跡だとみんな思っていたようで、本丸などの小字名がつけられていました。ところが明治の終わりぐらいに石棺などが発見され、宮内庁はあわてて発見された後円部頂部を陵墓参考地に治定しました。この頂部以外は立入ができますが、城跡というより古墳の雰囲気ですねえ。
スーツ姿で十分に登れる城です。
カテゴリー: 大阪府の山城
後藤又兵衛が散った小松山の戦い
大河ドラマ「黒田官兵衛」では後藤又兵衛を塚本高史が演じていました。来年の「真田丸」では誰が演じるんでしょうね。専門家派遣が昼過ぎに終わったので河内国分へ出かけてきました。
ここは奈良から天王寺へ向かうJR大和路線が通っています。京都から大阪へ大軍が移動するには大阪の東側に生駒山脈があるので、枚方から星田、河内森に入るか、奈良をずっと迂回して河内国分へ出るしかありません。
大坂冬の陣で大坂城の堀は埋められ大坂方は野戦で勝負するしかありません。そこで河内平野に出てくる河内国分の隘路でたたこうと大坂城を出陣。
■小松山の戦い
第一陣の後藤又兵衛が道明寺に着くと徳川軍が既に河内国分に展開していました。後続部隊が到着していませんが、このまま河内平野に入られるとまずいので、徳川軍が河内平野に向かう時、たちふさがる位置にある小松山に陣をはります。大和川がすぐ近くを流れていて進軍できるところが狭いため、小松山から鉄砲を討たれると実にイヤな所です。
小松山は玉手山の尾根にある山のひとつで頂上には老人福祉センター「やすらぎの園」があります。このあたりが激戦地となりましたが、今や住宅地。かなりの坂道で頂上まで上がると息もたえだえですが、眺めはとってもいいです。ハルカスが見えますが、当時は大坂城も見えたでしょう。
後藤隊は善戦し、徳川軍の損害も大きかったのですが、徳川軍は後続部隊が次々、到着するため多勢に無勢、8時間もの激闘の末、後藤又兵衛は戦死、後藤隊は壊滅します。この後、真田幸村が道明寺で徳川軍で一矢むくいますので来年の大河ドラマでも小松山の戦いは出てくるでしょう。
烏帽子型城(河内長野)
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。
市街地に奇跡的に残る交野城(私部城)
織田信長が石山本願寺攻めなどに活用した若江城や古市にあった高屋城など市街地にある城は住宅地されるがほとんどですが、奇跡的に市街地に残っているのが交野城(私部城)。京阪交野駅からちょっと歩いた私部に残っています。
もっとも多くは住宅地や畑などになっていますが、郭の形がわかる形で残っていて、交野郵便局の隣には土塁跡も残っています。少し高台に堀で囲まれた形で奈良の筒井城に似ています。
交野城(私部城)は城主が分かっていて河内の武将だった安見右近が築城。松永久秀の配下で、松永久秀の命令で交野城(私部城)を築城したようです。やがて松永久秀とともに織田信長の配下に入り、三好三人衆を交野城(私部城)で牽制していました。ところが松永久秀が信玄の動きにあわせて信長を裏切ります。そうとは知らない安見右近は松永久秀に多聞城に呼ばれて殺されてしまいます。
その後、すぐ松永久秀は交野城を攻めますが、なんとか持ちこたえました。この時に松永久秀が造った陣城が国見山の津田城という説があります。柴田勝家、佐久間信盛らがかけつけて松永久秀軍を撃退します。
いつ城が廃城になったかは分かりませんが、本能寺の変のあとではといわれています。以来、400年以上も城跡が奇跡的に残りましたので、今後も残していってほしいですね。
とても眺めがよい津田城
連休最後の水曜日、近場の山城へ行こうとJR学研都市線で津田駅(枚方市)へ。津田駅から少し歩いて国見山を目指します。国見山は生駒山地の北方にあり、名前の通り山城、摂津、河内の国を一望できます。遠くは比叡山も見え、目の前は高槻から山崎あたりです。山頂には鯉のぼりが泳いでいました・
この国見山にあったのが津田城。津田氏が造った城と言われ、すぐ近くの飯盛山城から畿内に号令した三好長慶と結んでいました。三好長慶亡きあと、津田氏はもともと本願寺勢力とも通じていたため、織田信長に攻められ落城。発掘調査で焼土層が見つかっており、織田信長の焼き打ち跡ではといわれています。
津田城は、ちょっと変わった城で、長い土塁があり、普通の城とは違い、土塁から標高が下っていく方に郭が造られています。一説には交野城を攻めるために古代寺院の跡地を利用して松永久秀が造った陣城ではないかともいわれています。ただ城跡をみてみると交野方面への防御力が弱く、堀切もないし、どうですかねえ。
本来は国見山の麓に本城があったのですが、こっちは住宅地の開発で壊滅してしまいました。国見山は見晴らしもよくハイキングコースになっていますので、ハイカーがたくさん登っていました。城目当てで土塁の端や郭に登っているような酔狂な人物は誰もいませんでした。(笑)
汗をかいたので帰りに大阪王将でビール&餃子の定番コースを頼み、今年の連休は終わってしまいました。
鎌倉幕府が滅ぶ原因となった千早城
金剛山の登口から急な石段が続いており、この石段をひたすら登ると千早神社境内。ここが、日本史で必ず習う千早城跡。
千早城跡を通って、そのまま金剛山へハイキングできますので、訪れる皆さんは山城マニアではなく、ほとんどがハイカー。神社にお参りしてから神社裏の登山道を通って金剛山を目指します。神社の境内を見て回っているのは私ぐらい。(笑)
神社の裏手に本郭跡があるんですが、神域となっているため立入禁止。本郭以外の郭跡をめぐっておりました。それにしても広い郭ですねえ、大きな郭が4つほどあり、かなりの兵が常駐できました。太平記には1,000名の手勢で立てこもったと出てきますが、十分に常駐できそうです。
郭を歩き回っていると入口の郭から20メートルほど下のところにも郭があるのを発見。崖を降りてみると、かなり広い帯郭でした。後で調べると「馬かけ場」という名前がついていました。千早城は四方が絶壁になっていて、裏手から金剛山へ抜ける道があるだけ、守りやすい城になっています。
後醍醐天皇が笠置山に挙兵。倒幕運動に呼応し、楠正成も挙兵します。鎌倉幕府軍が攻め寄せ、下赤坂城、上赤坂城が落城するなか、楠軍は千早城にたてこもり1,000人の兵で幕府軍100万を相手にしたと太平記に出てきますが、そんなことはなく、1000対数万でしょう。攻めあぐねた幕府軍は向かいの山から100尺(300m)もの橋を掛けて、攻め入ろうとしましたが楠軍に火をかけられてしまいます。楠正成が千早城でがんばっていることで倒幕気運が高まり、新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏が六波羅探題を攻め、鎌倉幕府が滅亡してしまいます。
太平記の舞台 楠木本城(上赤坂城)
大阪府にある唯一の村・千早赤坂村の赤坂の方にある上赤坂城へ行ってきました。
鎌倉幕府が倒れる原因をつくった楠正成の戦いに登場するお城。出城が下赤坂城、拠点となる本城が上赤坂城、詰城が千早城でした。晴天のゴールデンウィーク、まさか、こんな山城へ来ている観光客はいないと思ったら、いてました。(笑)山城入口に小さな駐車場があるんですが1台留まっています。こちとら暑い中、バス亭から歩いてきたのに。
さて城に入ると堀底道がずっと続きます。神戸の滝川城や高取城と同じ感じですね。一の木戸跡から四の木戸跡まであるんですが、どう考えても上から狙われる構造になっています。鎌倉幕府軍が攻めるのはさぞ、大変だったでしょう。
四の木戸を過ぎると土橋になっています。堀切も見えていて、これが鎌倉時代の城?えらく技巧的だなと思ったら、戦国時代も使われていて改変されているようです。ようやく一番上の本郭にたどりつくとアベックがおりました。駐車場の車の主のようです。デートで山城に登るとは、さすがですなあ。(笑)本郭からの眺めはよく、北摂から神戸の方まで見渡せます。こりゃ、幕府軍の動きもよく分かります。
本郭の周りには広い帯郭がありました。二の丸と書いてある方にも登ってみましたが、こっちには小さな帯郭がいくつも築かれ、堅牢な城に仕上がっていました。上赤坂城は楠正成の死後、正成の三男である楠正儀らが籠城し、落城しました。この時に焼けた建物跡などが発掘調査で出てきたそうです。金剛山の尾根上にあるので、落城しそうになったら、金剛山方面に逃げることができる造りになっています。
楠正行の神感寺城
天気もよいから、前から行きたかった神感寺城跡に行こうと、まずはネットで神感寺を検索。奈良と大阪を結ぶ暗峠から行けることを確かめて家を出発。
枚岡公園から暗峠を目指しますが、せっかくだからハイキングコースを行こうと思ったのがウンのツキ。歩いていると、いかにも土塁が続いていて虎口(城の入口)のような所を発見。こりゃ、見つかっていない城跡ではないかなと藪の中へ(笑)。日本には、まだまだ見つかっていない山城跡がかなりありますので、見つけるチャンスはあなたにもあります!
藪の中を進むと空堀跡と土塁を発見。ところが空堀と思う所がグニャグニャ曲がっています。どうも違うな~あ。昔の山道跡のようでした。気を取り直して暗峠を目指しますが、途中で道を間違えてしまい、結局は標高642mの生駒山頂へ。山頂から尾根伝いに150mほど降りて、暗峠へ。150mも、余計に登ってしまいました。
暗峠から山道に入って神感寺へ。今も小さな寺はありますが、もともとは山岳寺院の神感寺があり、発掘では東西200m,南北250mに大伽藍があったことが確かめられています。神感寺は奈良時代末に創建され、鎌倉時代に大いに栄えます。
南北朝時代には楠木正行が城塞化し、神感寺城になっていました。眺めがよいので見張り用だったのでしょう。四条畷の戦いでは北朝方の佐々木道誉軍に攻められ焼失してしまいます。佐々木道誉と言えば婆沙羅大名で有名ですね。山門近くの藪の中に入り込んでみると、平坦地などが残っていましたが、明確な城跡はありませんでした。
家から90分で登れる山城(鷲尾山城)
東大阪コミュニティニュース「ふれあい東大阪」に地名の連載記事があり、今回は上石切の記事。
■鷲尾山興法寺
読んでいると生駒山中腹にある鷲尾山興法寺が南北朝時代に南朝側の城砦になっていて楠木氏や水走氏がゲリラ戦を展開していたとあります。四条畷の戦いでは足利軍の高師直に焼かれてしまいます寺を復興したのが若江城を築いた畠山基国。南朝勢力圏の一番北にあった城でした。
家の近くに山城があったんだ!
と登ってきました。まずは石切神社にお参りして参道を通って上之社へ。ここから川沿いの細い道を登っていくとやがてハイキングコースになります。
生駒山から降りてくるハイカーと行き交うと、こちらは息も絶え絶えで登っているので
「頂上まで行きなさるのか?」
「いや途中の寺までです」
「じゃあ、もう少しがんばれば着きまっせ」
「おおきに」
■鷲尾山城
山城を見に行くというと奇異な目で見られますので、とりあえず寺が目的と答えます(笑)寺は山の中腹にあると記事にありましたが、ほとんど頂上近くにありました。家から歩いて90分。確かに城砦になるような寺でした。
寺の裏山に登る道があり、途中から山に入ってみると見事な土塁や堀切跡のようなものがありました。ネットで城跡について調べましたが、この情報は出てきません。どう見ても土塁と堀切なんですがねえ違うのかなあ。こりゃ東大阪の発掘資料などにあたってみないといけませんなあ。
余野本城へ登り汗びっしょり
摂津の池田からずっと山に分け入った豊能町へ専門家派遣で行ってきました。せっかく豊能町まで行ったので山城へ行ってきました。(笑)
行ったのは余野本城。応仁の乱の後に廃城になった説もありますが、しっかりした虎口もあるので戦国時代に改修して使っていたようです。看板などがある山城はほとんどないので、城への入口をネットで調べるとネットで資材置場ちかくから尾根まで直登とあります。つまり尾根まで崖を登れということです。
行ってみたらヤブだらけ。さすがにスーツ姿では無理だなあ、冬にもう一度来るかなと思ったのですが、あきらめ悪く、そこらへんを探していると空堀を発見。空堀沿いにすすむと主郭に出ることができました。ラッキー!
なかなか広い縄張のお城で、ヤブや余計な木が伐り倒されており、とっても見やすくなっています。虎口(郭への入口)が見事で、2回、折り曲がらないと郭へ入れず、張り出した土塁から横矢がかかる仕組みになっていました。こんな複雑な虎口は戦国時代のものでしょう。土塁の高さも10メートルほどもあり、よく遺構が残っていました。堪能しましたが、汗びっしょりになりました。やっぱり山城めぐりは冬がベストシーズンです。