
いよいよ一乗谷へ
入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。
いよいよ一乗谷へ
入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。
朝倉宗滴という人物がいます。朝倉家の歴代当主を支えた歴戦の勇士でゲーム「信長の野望」にも登場します。
朝倉宗滴話記で有名です、数多くの戦闘体験をもとにした教訓で戦国武将の心得がよく説かれています。例えば、名将とはいちど大敗北を喫した者だという言葉があり、失敗した大将は、反省し、作戦の立て方を練り直すことで磨かれるといった意味です。朝倉宗滴自身は自分は勝ち戦ばかりで敗けなかったので名将になれなかったと謙虚なのかマウントをとっているのか、よく分からないことも言っています。「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」、どんな手段を使っても勝たなくてはいけないとも言っています。
一乗谷入口が安波賀という港になっていて、ここに朝倉宗滴邸があります。越美北線沿いにあり、近くの西山光照寺跡は案内板がありますが、こちらは何もありません。Googleマップは優秀でちゃんと表示され、三方を土塁で囲まれた区画が邸宅跡でした。
稲八妻城(いなやつまじょう)
京都の南側・相楽山城で起こったのが山城国一揆です。発端は応仁の乱で1470年以降に相楽地域の武士も東西両軍に分かれて争うことになりますが、やがて厭戦気分が高まり、1477(文明17)年に久世、綴喜、相楽の3郡の国衆が集まり、一揆を起こします。一揆といっても江戸時代の農民一揆ではなく共和国の設立です。
最終的にはうまくいかず、国衆ら数百人が稲屋妻城に籠城し、激しく抵抗しました。稲屋妻城については2つの説があり、その一つである政ケ谷城には先日、登ったのですが、もう一つの説では政ケ谷城の北側にある城山です。
麓に武内宿禰をまつった武内神社があり、神社の裏側から登山道が続いています。ずっと上まで登ると土橋や郭がありましたが、浄水場が山の上に造られており、ここにあった郭は破壊されたようです。途中に展望があり精華町の町を見下ろすことができます。
峯城近くに「天武天皇 河曲頓宮跡」があり、行ってきました。古城と同様に八島川に面する高台にあり現在は一心寺があります。
壬申の乱で大海人皇子が吉野から桑名へ向かう途中、川曲の坂下(かわわのさかもと)で日が暮れてしまい、おまけに雨が降出してきたので休む間もなく、三重の郡家に至って家一軒を焼いて暖をとったという記事が日本書紀に出てきます。場所についてはいろいろな説がありましたが、伊勢の国府政庁跡が近くで見つかり、このあたりを公道が通っていたことが確実で、ほぼ間違いないと言われています。
一心寺ですが、寺なのになぜか土塁が残っていて、どうみても城ですね。奥の方の竹藪は郭跡のようでした。峯城攻めの時に陣城として使われていたようです。
峯城を築城する前の峯氏の居城だったのか古城という名前になっています。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として柴田勝家と連携していた滝川一益の亀山城、峯城を秀吉が自ら軍勢を率いて取り囲みます。峯城の周りに陣城を造り持久戦となりました。この古城もその時に改造されたようで峯城に向けた新たに横堀などが掘られています。
峯城から八島川を越えて東側にある高台の上に古城はあります。近くを道が通っていて案内板があり、古城に入れる虎口が近くにあります。藪だらけですが、そこは躊躇なく突入しましょう。虎口から郭に入るので周りを取り巻く土塁にあがると藪をさけて八島川の方まで進めます。3つほどの郭から構成された城で、峯城がよく見えます。
峯城の西、安楽川に向かって南東へ伸びた丘陵に落山城があります。
亀山梱包センター西の農道奥に城趾の標柱があり、ここから崖を直登します。あとで確認すると西にずっと行くと山上まで続く農道があったそうです。苦労して登ったのに!
直登すると尾根に出ますので、ひたすら登っていくと土塁で囲まれた2つの郭があります。別の尾根に一段下がった郭もありましたので4つほどの郭で構成されているようです。削平地が広いので大量の部隊が滞在できるので、峯城の出城説もありますが1584年(天正12年)に峯城を攻撃するための羽柴秀吉の陣城の可能性が高そうです。ただ秀吉側とすると技巧的な造りになっていない点が疑問です。南側の遺構が消滅しているので、こちらにあったかもしれません。
亀山にある峯城です。
正平年間(1346年 – 1370年)に峯政実(関盛政の五男)が築城しましたと伝わっていますが室町時代後期の築城のようです。天正2年に峯氏が伊勢長嶋城の戦いで討死にしたため織田信孝の家臣。岡本良勝が城主となりました。
何度も戦の舞台になります。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉に敵対していた滝川一益の家臣によって攻められ峯城は亀山城ともども落城します。そこで秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に開城します。
また天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの前哨戦として秀吉は織田信雄側だった峯城を攻め、わずか数日で落城します。天正18年(1590年)に亀山城が中心となり廃城になりました。
とっても大きな城郭で6つの頂上にそれぞれ城があり、これが有機的に結びついています。各城を巡るだけでも大変です。きわめつけは天守台があったと伝わる高い土塁で、広いですね。安土城の天守台ほどの大きさがあります。
賤ヶ岳の戦いとは1583年(天正11年)4月に余呉湖周辺で行われた戦です。織田信長亡き後、柴田勝家と秀吉が戦い、秀吉が勝ち天下とりがすすみます。北国街道沿いにお互いに陣城を造る攻城戦となった戦いです。20ほどの陣城(砦)が造られました。ということで機会を見つけては陣城(砦)に登ってきました。
■登った秀吉側の陣城
田上山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦、堂木山砦、神明山砦、東野山砦、溝谷砦、菖蒲谷砦、天神山砦
■登った柴田勝家側の陣城
玄蕃尾城、中谷山砦、橡谷山砦、柏谷山砦、別所山砦
佐久間盛政の行市山砦だけ、体力がなく行けませんでした。
陣城をみると城を造る思想がよく分かります。秀吉側の城は虎口など、実に技巧的で絶対に守ろうという思想で城が造られていますが、勝家側は簡易な造りで主郭ぐらいしか整備していません。攻めるぞという意識が見えます。前を線突破したい勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という構図がよく分かります。
秀吉が対峙していたのが勝家以外に岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益です。秀吉は持久戦に持ち込んで各個撃破を狙っていたんですかねえ。
別所山砦は前田利家・利長父子の陣城です。他の砦より、しっかりと構築されていて主郭を巡る土塁と空堀が見事に残っていました。尾根上に削平地が続いており、ここに部隊が駐屯していたのでしょう。別所山城は標高444mの一帯に造られています。ここから佐久間盛政の行市山砦跡を目指そうとしたんですが200m以上も高度差があり、既に尾根を下りたり登ったりで体力は限界、ここでユータンです。
賤ヶ岳の戦いでは前田利家が勝手に陣をひいたことから総崩れになったことになっていますが、安部龍太郎の「戦国の山城をゆく」を読んでいると、別所山にいた前田勢が最前線の茂山に移動。尾根伝いに神明山、堂木山を攻め包囲網の一角をせめ、あわせて柴田軍が東野山に攻めかかる作戦だったようです。
■前田利家は裏切っていなかった説
行市山砦にいた佐久間盛政は後詰のはずが、行市山から集福寺坂を迂回して前田勢を追い越し、権現坂と下って余呉湖の湖畔に出て中入りを行います。軍令違反でした。用意していた秀吉軍は退却に手間取っている佐久間勢を攻撃します。
前田利家が敵前逃亡したという噂がたちますが、秀吉は府中城へかけつけて利家を説得したのではないかという説です。秀吉は右腕が必要なので最初から秀吉と話を通じていたことにしないかともちかけます。利家は家の安泰と加増に決断せざるをえません。結果をみて世間は最初から話ができていたと考え、敵前逃亡のうわさが流れます。
実際に別所山砦から見ると秀吉側の堂木山砦、神明山砦、北国街道はよく見えますが、余呉湖は全然、見えません。また行市山砦の動きも把握できません。佐久間盛政が秘密裏に動いても前田勢には分からなかったでしょうね。
登山道入り口にあった案内板には中谷山砦になっていますが、全国文化財総覧で調べると中谷山砦遺跡は橡谷山砦遺跡へ登る途中にあり、橡谷山砦は標高368.4mのピークにあります。やっぱり案内板が間違っていますね。
柏谷山砦からエッチラオッチラ下ってきた藪だらけの尾根を登り返して登山道に入って、少し行くと郭跡があります。ここが橡谷山砦です。標柱には「中之谷山 原彦次郎長頼」と記載されていますが、金森長近が守っていました。金森長近は前田利家とともに撤退し、その後は秀吉、家康につかえます。飛騨高山城をおさめた時に現在に続く高山の城下町を整備しました。
橡谷山砦の郭には低い土塁が巡り、削平地が拡がっていました。