田上山城

小谷城の北側にあるのが田上山城。

田上山城 角馬出
田上山城 角馬出

■朝倉義景が布陣した城
浅井氏を支援していた朝倉義景が田上山に城を築いて布陣していました。嵐の中、織田信長が親衛隊を率いて朝倉方が守っていた大嶽城を襲撃、落城させます。

朝倉義景は小谷城の浅井長政と連携を取り合うことができなくなったため、撤兵を決意。ところが信長は撤兵を予想しており田部山城から撤退する朝倉軍を追撃し、越前の一乗谷まで追い込んで朝倉家を滅亡させます。

■静ヶ岳の戦いの本営 羽柴秀長が布陣
静ヶ岳の戦いでは秀吉の弟である秀長が布陣しました。現在の城跡はこの時に改修され、大きな4つの郭が造られます。最新の技術も導入されており角馬出(写真)が残っていました。横矢がかかる土塁が整備されており、技巧的な城になっています。

磯山城

彦根駅から米原駅に向かうと右手に見えるのが佐和山城で、対面の左手には磯山城が見えます。JRは2つの城に囲まれた間を通っています。

磯山城
磯山城

琵琶湖に面した南北に長く続く独立丘陵が磯山で、ここに磯山城が築かれています。北峰のピークが虎ヶ城と呼ばれており、南端のピークは南城で一城別郭形式の山城です。北側の磯崎神社から城に入れ、案内では遊歩道が整備されていると書いてありますが、しっかり山道でした(笑)。

■磯山城の城主
琵琶湖に当時あった朝妻湊などがよく眺められます。もともとは彦根市松原を本拠として浅井氏に従った松原氏の居城だったようです。ただ境目の城だったので。六角氏が落城させ陣所に使ったりしていました。織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時に六角氏を追い出したので浅井氏家臣・磯野員昌が城主として入ったようです。

信長と浅井氏が敵対するようになった時、磯野員昌は佐和山城に移っており、この時は佐和山城攻めで磯山城が織田軍の陣所になったようです。ただ虎御前山城のように凝った縄張りにはなっておらず、古い形態もままなので本当に織田軍の陣所になったかどうかは不明です。

太尾山城

米原駅のすぐ東側にあるのが太尾山城。駅からよく見えます。

太尾山城
太尾山城

麓に中山道の宿場があり、湯谷神社脇から山道を登ると、南城と北城を分ける堀切に入れます。堀切から南側に向かって尾根を歩くと南城に着き、反対側には北城があります。いわゆる一城別郭ですが、眺めは抜群で琵琶湖が一望できます。北側からは小谷城や北国街道が一望です。

太尾山城は鎌刃城と同様に「境目の城」で京極氏と六角氏の勢力争いが繰り返されました。永禄四年(1561年)に浅井長政が六角氏方だった太尾山城を攻めましたが、うまくいきませんでした。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し六角氏が追いやられると、今度は同盟を組んだ浅井氏に属することになります。ところが浅井が朝倉と手を組んで信長に敵対したことから、元亀三年(1572年)織田信長が佐和山城を攻め、次いで朝妻城、太尾城を攻撃し太尾城はついに落城しました。

中島城

丁野山城のある岡山から東の尾根続きにあるのが中島城。

中島城
中島城

中島城は小谷城を守る支城のひとつで虎御前山がすぐ目の前にあり最前線の城でした。城主は浅井家家臣の中島直親で尾根続きの岡山にある丁野山城を修築して朝倉勢が守りました。

2つの城で連携していたようです。虎口や土塁で囲まれた郭跡がきれいに残っていて、よく整備されています。小谷城攻めで丁野山城とともに落城しました。

丁野山城

浅井方は東から小谷城ー丁野山城ー山本山城とまっすぐに城を並べて北国街道を抑えていました。写真の先に見えるのが山本山城がある山本山です。

丁野山城
丁野山城

丁野山城は、もともとは浅井亮政(浅井長政の祖父)が造った城ですが、信長と戦う浅井氏救援のため朝倉義景が家臣をいれて城を修復します。この時にだいぶ手をいれたようで郭の北側と南側に大堀切があります。

山本山城を守っていた阿閉貞征が寝返ったことから信長は小谷城を攻撃。この時に丁野山城も落城しました。

山本山城

湖北にこんもりとした山があり、これが山本山。ここから余呉まで琵琶湖沿いに北側に低い山脈が延びていて稜線は13kmもあり「近江湖の辺の道」になっています。いわゆるトレイルですなあ。

山本山城
山本山城

■山本山城
麓からえっちらおっちら頂上まで登ると、山本山城があります。山本山城は平安時代に造られ信長と戦っていた頃の城主は阿閉貞征です。阿閉貞征は北近江の国人で浅井家の重臣として北国街道をおさえる山本山城を任されます。姉川の戦いでは浅井側で戦いましたが横山城を信長に奪われたことが痛かったですね。

しかも小谷城前の虎御前山に付城が造られたことで勝負あったと判断したのでしょう。阿閉貞征は秀吉の調略にのり織田信長に内応します。これで小谷城は北国街道との連絡を絶たれ孤立し落城することになります。

■その後の山本山城
阿閉貞征は信長に従うことになりますが本能寺の変では明智光秀側についたため阿閉氏は滅亡し、山本山城も廃城となりました。山本山城は大きな城で琵琶湖を眼下に見ることができます。郭がいくつも続き、堀切が見事です。写真は城内の堀切跡。城からは北近江が一望でき、横山城や虎御前山城での織田軍の動きもよく分かります。家を残すために内応する気持ちがよく分かります。

信長の軍用道

虎御前山城から見ると横山城に向かい斜めの道が通っています。これが信長が造った軍用道跡。

信長の軍用道
信長の軍用道

信長公記に
「武者の出入りのため、道のひろさ三間間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらる」とあります。道幅を約6.4mに広げて、約5.5㎞に渡って敵側には高さ約3mの築地を築かせ、さらに水堀にしていました。

軍用道を使い横山城から物資や兵を虎御前山城に小谷城側に気づかれないよう移動できました。信長は物流重視で道をよく整備し、兵をすぐ動かせるようにしていました。それにしても、すごい土木量ですね。

伝木下秀吉陣跡(虎御前山城)

虎御前山は南北に峰々が連なった山で各峰に砦が造られました。南から伝多賀貞能陣、伝蜂屋頼隆陣、伝丹羽長秀陣、伝滝川一益陣、伝堀秀政陣、伝織田信長陣、伝木下秀吉陣、伝佐久間信盛陣、伝柴田勝家陣と続きます。小谷城に対する最前線にあったのが伝木下秀吉陣です。

虎御前山城
虎御前山城

三角形の主郭を中心に、周囲に帯郭を配置し、小谷城側には二重堀切が造られています。虎口も厳重です。小谷城は目の前で頂上にあったのが朝倉方の大嶽城、西側の尾根(写真の左側)には福寿丸、山崎丸が配備されました。東側の尾根(ちょうど木で隠れているところ)にあったのが小谷城です。

伝織田信長陣跡(虎御前山城)

虎御前山はいくつもの峰で構成されており、一番高い峰にあるのが伝織田信長陣跡。

伝織田信長陣跡(虎御前山城)
伝織田信長陣跡(虎御前山城)

尾根道をひたすら歩くとたどりつけます。陣跡といいながら復元図を見ると完璧な城ですね。「信長公記」にも「巧みに仕上げられた砦の結構なことは、これまで見聞きした多くの砦に見られぬもので、みな眼を見張ったものである。」と記載されています。長桝型虎口や堀切などが残っていて、陣跡から小谷城や琵琶湖がよく見えます。

虎御前山城は小谷城から500mしかない目の前にある付城で、各武将の陣がずらっと並び、兵が動いている姿も小谷城からよく見えたはずで心理的効果は絶大だったでしょう。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

伝滝川一益陣跡から尾根道を歩き次のピークにあるのが伝堀秀政陣跡。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)
伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

館が造られていたようで建物を建てた礎石跡が見つかっています。横堀や竪堀などもあり、けっこう本格的な陣だったようです。堀秀政は織田信長の小姓から一軍の将になっていきます。本能寺の変の時は秀吉の軍監(お目付役で合戦後の論功行賞も担当)として備中高松城攻めに参加しており、中国大返しをして山崎の戦いに参陣しています。

秀吉のもとで北ノ庄攻めなどに従事。小牧・長久手の戦いでは秀吉側で池田恒興や森長可らが討死する大負けのなか堀秀政だけが家康軍を敗退させています。小田原征伐の最中に陣中で病のために亡くなりました。