大坂城・水没計画

大坂城の冬の陣。真田丸で真田信繁が活躍した戦いです。

ハザードマップ
ハザードマップ

最新の研究で分かってきたのが豊臣秀頼の大坂城・水没計画。大坂城ですが徳川軍に包囲されると兵糧攻めと同じなので不利になります。そこで淀川の堤を壊して大坂城の北と東を水没させることにして実際に実施しました。

NHKでシミュレーションをしていましたが大阪市の洪水ハザードマップを見ると、よく似ています。大坂城の北と東は低地になっているため、見事に赤くなっています。徳川軍は結局、西と南からしか攻撃できなくなりました。また真田丸と大坂城との間の空堀も水堀にしてしまったようです。

徳川軍は堤を直す大土木工事を行い、何とか北側に干上がった土地を確保し、ここから天守閣に向けて大砲を打ち込むことで和睦にもちこみました。

近江・山崎山城

山崎山城は秀吉・光秀が戦った天王山にもありますが、こちらは近江の山崎山城です。日曜に勝楽寺城を目指したのですが雪がすごく予定変更して登りやすい山崎山城へ行ってきました。雪道に足跡がついていたので地元の人も登っているんですねえ。

山崎山城
山崎山城

■山崎氏
六角氏一族である山崎氏がこの辺りを支配していましたが織田信長が足利義昭を奉じて上洛する途中、六角氏を攻めると、いち早く寝返って織田家に臣従します。姉川の戦いなどにも参加しています。本能寺の変の後は秀吉に従い、摂津の三田城に移封されました。

■山崎城
織田信長が下街道を整備する時に山崎山城を築いたようで街道から立派な石垣が見れるように整備しています。管理は山崎氏にまかせ御茶屋が作られ岐阜と安土を結ぶ中継施設となった城です。その後、城割が行われた崩されたようですが石垣の一部が残っています。眺めはよく佐和山城などを見ることができます。

肥田城 水攻め

水攻めというと秀吉による備中高松城、紀州太田城、武蔵忍城城が有名ですが、肥田城でも行われました。六角氏側についていた高野瀬氏ですが、敵対していた京極氏を取り込んで勢力を伸ばしていた浅井氏へ鞍替えします。

肥田城 水攻め
肥田城 水攻め

肥田城を六角義賢が水攻めします。肥田城を囲む形で長さ6.3キロメートルの堤防を築き、宇曽川と愛知川の水を引き込んで水攻めしました。秀吉の備中高松城水攻めより23年前のことになります。ところが堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。これは忍城と同じですね。

浅井長政が救援にかけつけ肥田城の西にある野良田一帯で六角氏とぶつかり(野良田表の合戦)勝利します。これで浅井の勢力が拡がります。肥田城近くに水攻めで使った堤の一部が残っています。

浅井長政が信長によって滅びると高野瀬氏は柴田勝家に仕えますが越前一向一揆に敗れて自害し、ここに高野瀬氏嫡流は断絶となります。

肥田城

雪の中に碑だけ残っているのが肥田城です。城を造ったのは高野瀬氏で近江国愛智郡にあった高野瀬村が本貫でした。

肥田城
肥田城

応仁の乱の頃、近江では六角氏と京極氏が争っていました。源流は同じ近江源氏の佐々木氏なんですが仲が悪いんですね。

大永年間(1521~1528)の頃に六角氏の命で高野瀬隆重が肥田城を築きます。宇曽川の湿地帯に築かれた肥田城は典型的な平城で、宇曽川と愛知川を天然の濠としていました。愛知川を境として北を京極氏が、南を六角氏がそれぞれ支配下におきましたので、肥田城は境目の城となり京極氏に対する六角氏の最前線の城になります。

尼子城

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったのが山中鹿介。山中鹿介が奮戦したのが尼子氏再興です。出雲を中心に最盛期には中国八カ国を支配していましたが、毛利に敗れ流浪。織田信長と手を結ぶことになりますが上月城の戦いで滅亡してしまいます。

尼子城
尼子城

戦国大名として有名な出雲尼子氏の祖先は宇多源氏・佐々木氏です。婆沙羅大名として有名な佐々木(京極)道誉の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住したことから、名字を尼子と称しましたので、ここが尼子氏の本貫になります。

尼子城の土塁や堀の一部が残っていますが、折からの豪雪で何も見えず(泣)。雪が降りすぎるのも問題ですねえ。最寄り駅はガチャコン(近江鉄道)の尼子駅です。

有岡城 北ノ口砦址

有岡城は総構えになっていました。総構えとは城だけでなく城下町も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだもので、後北条氏の小田原城が堅固な総構で秀吉の小田原攻めに対抗しました。

北ノ口砦址
北ノ口砦址

有岡城は伊丹礫層(れきそう)の上にありました。古武庫川の氾濫した原っぱや三角州の堆積物で花崗岩の礫を多数含んでいます。伊丹段丘はこの伊丹礫層が堆積した地形面で、伊丹段丘北端では標高40mを越えます。この高台に有岡城や城下町が造られ守りやすい地形になります。

ですので伊丹の街を歩いていると、この高低差が楽しめ総構えの中にいるのかどうか判断できます。この総構の北側にあったのが北ノ口砦址です。けっこうな高台になっているので守るには最適ですね。現在は住宅地になっています。

有岡城

塚口でお仕事だったので、少し足をのばして伊丹へ

有岡城

JR伊丹駅のすぐ目の前にあるのが有岡城です。もともとは南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築されたものを荒木村重が改修しました。荒木村重は織田信長に謀反を起こし1年間にわたる有岡城の戦いがはじまります。

織田信長にとっては荒木村重の裏切りが青天の霹靂だったようで、摂津一国をまかせているのに「何で!」という思いだったのでしょう。信長の性格や合理主義が今では当たり前の感覚ですが、当時の価値観とはあわなかった面があり、明智光秀、浅井長政、松永久秀など、信頼していたのに、けっこう裏切られています。

また摂津は織田政権下で支配強化の動きがあり、これに反発する国人や百姓など下からの突き上げがありました。荒木村重もこういった意見をきかないと統治できなくなることから謀反することになったという説もあります。荒木村重にとっても総構の城で、しかも毛利や石山本願寺とも連携がとれており、十分に勝算があった戦いでした。

塙団右衛門の五輪塔

大坂夏の陣で最初の戦いとなった樫井の戦いで討死したのが塙団右衛門です。五輪塔が建てられています。大河ドラマ「真田丸」小手伸也さんが演じていました。

塙団右衛門
塙団右衛門

塙団右衛門の生まれなどはよく分かっておらず諸説ありますが、秀吉の小田原合戦の後あたりで伊予国松山の大名だった加藤嘉明に仕えていました。朝鮮の役で活躍し鉄砲大将になっています。しかし関ヶ原の戦いの時に、鉄砲大将ながら命令を無視して勝手に足軽を出撃させたことで加藤嘉明と対立し、禄を捨てて出奔します。能力はあるが手前勝手で使いづらい人物だったようです。

紆余曲折があり浪人生活が長いところに舞い込んだのが徳川と豊臣との戦。徳川方に味方しても禄は期待できないが豊臣方ならば一発逆転のチャンスがあると豊臣方に参戦します。大坂の陣では同じように一旗揚げようと考えた浪人が多かったのでしょう。

■本町橋の戦い
塙団右衛門の名前を有名にしたのが大坂冬の陣、本町橋の戦いです。大阪産業創造館や大阪東警察署あたりに布陣していた米田監物と蜂須賀至鎮の陣に夜襲をしかけます。この時、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、兵に下知を飛ばして戦いました。しかも、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせ、広報はバッチリです。

■樫井の戦い
大坂夏の陣の樫井の戦いでも、この手前勝手さがでます。大野治房の指揮下で出陣したのに、一番槍の功名を狙って先陣争いで突出してしまいます。本隊との連携が取れずに交戦してしまい討死します。

畠山御殿(養源寺)

湯浅へ来たなら養源寺へ

養源寺堀
養源寺堀

ここは広城を作った紀伊国守護・畠山氏の「畠山御殿」でした。畠山政長が紀伊国守護所を大野から広に移したとされています。この守護所を守る詰城が広城でした。御殿の海側には養源寺堀が造られ、今も残っています。江戸時代には紀州藩主の御殿地として利用されました。

畠山政長といえば応仁の乱の主人公の一人です。室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城の守護でしたが従兄の畠山義就と争い、これが応仁の乱へとつながっていきます。戦いは京都を中心に行われましたが、やがて地方に飛び火します。守護が畠山氏なので紀伊も戦乱にまきこまれましたが,根来寺や湯河氏(幕府の奉行衆で御坊の亀山城が居城)を味方につけた畠山政長方が有利に戦いを進めました。

広城

せっかく湯浅まで来たので観光地には全然、寄らずに高城山を目指します。

広城
広城

前回は湯浅城と白樫城には行けたのですが広城には行けなかったのでリベンジです。広城は高城山頂上にあり西郭と東尾根にある東郭群からなっていますが、西郭はミカン畑になっていて遺構は皆無です。ただ湯浅の町や海が眺望できます。すごいのが東郭で、なんせ堀切がすごい、そのまま竪堀になって地上まで続いています。腰郭や櫓台もありましたが、すごいのが高土塁で、すさまじい高さになっています。

これだけの土木量なので、築城したのは紀伊の守護の畠山氏です。応永8年(1401年)に畠山基国によって築かれたと云われていますが、本当のところは分かりません。