宇陀五津城

山城で案内板などがある所はほんの一握り。地元の人に聞いても知らないケースがほとんどです。そこでひたすら城の記録を検索し、先人が登った場所などを探します。あとは「近畿の城郭」などに縄張図などが掲載されていますので、これでどういう山かを把握して現地に向かいます。

宇陀五津城
宇陀五津城

宇陀五津城は五津(いつつ)という場所にあるお城です。採石場の隣という記録があったので、この山だろうと藪を突っ切って尾根にたどりつき頂上を目指しましたが平削地があるばかりで空堀などが見つかりません。おかしいなと麓まで降りて採石場の反対側の山へ。ピンポン!こちらに宇陀五津城がありました。主郭を中心に二重の空堀に囲まれ、技巧的な城になっています。二重の空堀は見事ですねえ。誰が造った城なのか皆目わかっていません。

御体塚

織田信長より先に天下をとった三好長慶ですが後継者の息子に先立たれるなど晩年は不遇でした。

御体塚
御体塚

三好長慶は永禄7年(1564年)に42歳で亡くなりました。この年、美濃では斎藤龍興を諫めるため竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取り斎藤龍興を半年ほど追い出す事件がありました。織田信長は桶狭間の戦いに勝利し、徳川家康と同盟することで東側の脅威をなくし、本格的に美濃攻めをしていた頃です。

■御体塚
三好長慶は飯森山城で亡くなり、遺骸は郭に塚を作って仮埋葬されました。これが御体塚ですが、郭はハイキングコースから微妙にはずれていますので誰もおりません(笑)。その後、八尾にある真観寺に墓は移されます。

■三好義継が家督を継ぐ
三好長慶の後は甥が継ぐことになり、これが三好義継です。松永久秀や三好三人衆がバックアップしますが、家督を継いだのが15歳ぐらいですので内紛が発生。しかも織田信長の上洛もあって、三好家はしっちゃかめっちゃかになります。最後は追放された足利義昭を若江城で匿ったため織田軍に攻められて25歳で討死しました。この三好義継の墓も八尾の真観寺にあります。

野崎城

野崎観音の裏手の山にあるのが野崎城。4つの郭で構成されていますが見晴台として郭が残っています。

野崎城
野崎城

■兵を動かすには東高野街道しかなかった
野崎城の目の前を通るのが東高野街道。今は大阪平野ですが江戸時代に大和川の付け替えが行われるまで深野池(ふこのいけ)が大坂の東側に拡がっており、京都から大坂へ大軍を異動するには山沿いにある東高野街道を南下して柏原あたりから平野へ抜けるしかありませんでした。大坂の陣でも家康、秀忠はこの東高野街道を通っています。

四条畷の合戦の舞台でもあり、野崎城のあった場所には幕府側が陣取って楠木正行軍を攻めたようです。

■飯盛山城の出城に
飯盛山城が整備されてからは出城になったようです。飯森山の東側(奈良)には田原城があり、西側(大坂)の深野池の中には三箇城がありました。3つの城が支城になっていました。三好長慶は信長以前に畿内のキリシタン信仰を認めたため三箇城や田原城周辺はキリシタンの里となりました。

信仰をつらぬいた内藤如安

信仰を捨てず海外追放されマニラで亡くなった戦国武将といえば高山右近が有名ですが、もう一人います。それが内藤如安(ジョアン)。

内藤如安
内藤如安

丹波・八木城で生まれました。守護代だった内藤家の名跡を継いだのが松永久秀の弟である松永長頼(内藤宗勝)で、この息子が内藤如安です。松永久秀が仕えた三好長慶がキリスト教に寛容でしたので高山右近のお父さんなどがキリシタンとなります。如安のお父さんである内藤宗勝も同じころキリシタンになったようです。信長のキリシタン保護はこの後の話になります。

足利義昭が織田信長と袂を分かちますが内藤如安は守護代という立場から義昭側に立ちます。足利義昭が挙兵した槙島城の戦いにも参加しましたが織田信長に負け、足利義昭が鞆に移る時に一緒についていっています。

信長が亡くなってからは小西行長に仕えています。ところが関ケ原の合戦で小西行長が破れたため、最終的に加賀の前田家に高山右近ともどもやっかいになります。徳川家康のキリシタン追放令で高山右近と共にマニラに追放され、現地で亡くなりました。

八木城・屋敷群

丹後の守護代だったのが内藤氏。八木城の麓にあるのが屋敷群で削平地がたくさん残っていて現地の説明には屋敷群とありました。守護代屋敷は山の上にあったようです。

八木城 北屋敷群
八木城 北屋敷群

■守護代
室町幕府では守護は都に在住することが基本でしたので、領国の経営は守護代にまかせていました。現地を握っている守護代の力が強くなり戦国時代には越後の長尾氏(上杉謙信)、越前の朝倉氏や出雲の尼子氏などが守護代から戦国大名になりました。織田信長は守護代の家来からスタートしています。

戦国時代の内藤氏は三好長慶と組んでおり、松永久秀とともに波多野を攻めますが。逆に攻められて八木城は落城。城主が討死してしまいます。この時、松永久秀の弟長頼が残兵をまとめて八木城を奪回。三好長慶から丹波を預けられることになり内藤氏の名跡を継ぎ内藤宗勝と称します。

丹波・八木城の支城

八上城は大きな山城で東西南北に伸びる四方の尾根に支城があります。

堀切&土塁
堀切&土塁

主郭から尾根道を歩いて鞍部を越えていくと烏嶽という場所があり、こちらにも郭が拡がっています。こんな所を歩いている人は誰もおりません(笑)。

郭には石垣跡が残っており、大きな堀切で何重にも防御しています。烏嶽は鞍部を境に北側と南側に2つのピークがあり、実質的には2つの城で防御していたようです。

それにしても大きな山城です。山城は少ない人数で守れるところが利点なんですが、これだけの郭があると、どれぐらいの人数が必要だったのでしょう。

丹波・八木城

丹波三大山城のひとつが八木城です。ハイキングコースになっているので5人ほどのハイカーはいましたが皆さん眺めを求めて登っており、城を目当てで登っている人は皆無ですねえ。有名な山城なのに

丹波・八木城

足利尊氏から恩賞をもらい八木の地をおさめたのが内藤氏です。最初は砦のような城を造りました。室町時代に、細川氏が丹波をおさめるようになると内藤氏は丹波守護代となります。八木の地には守護屋敷などが麓にありました。

織田信長の時代になると明智光秀の丹波攻略が行われ、八木城は落城します。

清水山城(屋敷跡)

清水山城は三方の尾根上に郭が続く広大な山城ですが、それ以上にすごいのが麓の高台にある屋敷跡。

清水山城 西屋敷
清水山城 西屋敷

いわゆる根小屋なんですが、これがめちゃくちゃ規模が大きく谷を挟んで西屋敷と東屋敷があります。大きさは南北約350m×東西約550mで東京ドームでいうと4個分以上あります。歩きましたが広いのなんの!さすがに疲れます。

一辺を20mほどの土塁で区切られた方形の区画がたくさん残っています。西屋敷には「オウテ」という地名が残っており、道を登っていくと主郭にたどりつきますので大手道だったのでしょう。反対に進むと土塁に挟まれた狭い道となり「ダイモン」という地名が残っているので、ここに大門があったようです。この城を攻めるのは大変だったでしょうね。

清水山城(木戸の城)

近江高島にある清水山城、信長公記に登場する「木戸の城」がこの清水山城と考えられています。大きな城で主郭までたどりつくのが大変。途中でギャーギャー騒いでいる声が聞こえ、何事かと思ったら野生の猿が走り回っていました。ようやく主郭までたどりつくと琶湖の竹生島や対岸の長浜も見られます。

清水山城(木戸の城)
清水山城(木戸の城)

主郭の周りには畝状竪堀が何本も掘られており、高島は浅井・朝倉と手を組んでいたので織田信長と対峙した時に整備されたのかもしれません。高島を攻めたのは明智光秀です。

近江源氏である佐々木氏は六角、京極に分かれますが他に佐々木高島がいます。この佐々木高島がさらに別れ「高島七頭(なながしら)」と呼ばれる七家に分かれます。この七家の筆頭が越中氏で清水山城はこの越中氏の城といわれています。

日爪城(根小屋)

日爪城の麓にあるのが南谷遺跡。いくつもの段になった平坦地があり「ねごや」という地名がついています。

根小屋
根小屋

■根小屋とは
根小屋とは”山の根にある寝るための小屋”という意味で全国各地に「根小屋」という地名があります。山城の麓にあることが多く、城主や家臣の平時の館や戦時に住民が逃げ込む場所でもありました。城主は民衆の安全を保障しないといけないために避難地を用意していました。

日爪城の根小屋では土塁や堀がありますが、石仏が出土していますので寺坊の可能性もあります。明智光秀の日爪城攻めで焼け落ちたのでしょう。