桑原城

桑原城

大阪からJR福知山線に乗り、宝塚を過ぎると山ばかりとなりますが急にひらけて町があらわれます。三田で大阪から45分ほどで着くため大阪のベッドタウンになっています。三田は昔から丹波街道など交通の要衝でしたので多くの城が築かれました。

三田盆地入口に築かれたのが桑原城です。築かれたのは南北朝時代で播磨・赤松氏の一族、赤松家則が築いたと伝わっています。また室町時代末期には赤松氏の被官だった桑原左衛門清正が城主だった記録が残っています。天正年間になると織田信長の家臣だった荒木村重が赤松氏を駆逐し、荒木村重の宿老・荒木重堅が三田を支配するようになります。やがて荒木村重が信長に謀反を起こすと三田も戦場になりました。この時、桑原氏は秀吉に従っていたようです。

桑原城へ行くには山頂近くの太陽光発電所を目指します。ここまでは道がありますが、あとは崖を登るしかありません。桑原城は3つの郭からなっていて、空堀で区画されていますが削平は甘い状況です。櫓台跡や土塁など郭内はけっこう広く、それなりの軍勢が駐屯できそうです。

お茶屋屋敷・赤坂宿

岡山にある家康本陣の近くを中山道が通り、赤坂宿がありました。関ヶ原の戦いが終わった慶長10年(1605)に赤坂宿の高台に築かれたのが、お茶屋屋敷です。この年は家康と秀忠が上洛し、家康から秀忠へ征夷大将軍が引き継がれた年です。将軍職を世襲し豊臣方に政権を渡さないという意思表示したと、よく映画やドラマで描かれますが、秀吉は関白(公家の頂点)になっているので秀頼が関白職を継げば問題ないと考えていた説もあります。

■屋敷ではなく城
さて、お茶屋屋敷は家康が造った上洛用の宿泊施設です。屋敷という名前がついていますが完璧に城です。四方を土塁と堀で囲み、隅には櫓がありました。今は土塁と堀しか遺構がありませんが、中には岐阜城の麓にあった信長の居館などを移築して使っていました。お茶屋屋敷は家康は秀忠が使っていましたが、将軍が上洛する機会が減り、維持費が大変なことから建物などを取り壊されました。

街道筋にいくつかこういったお茶屋屋敷が造られ、近江・野洲に永原御殿跡がありますが、ここも完璧な城でした。

関ケ原の戦い 岡山家康本陣

岡山家康本陣

家康が全国の大名に東軍につくよう江戸から勧誘の手紙をせっせと送っているところに、福島正則ら先発隊が岐阜城をわずか1日で落城させたという報が届きます。そんなに早く落ちるとは思っていなかった家康は、家康が着くまで待てと先発隊に飛脚を出し、中山道を進んでいる秀忠軍にも美濃に急ぐように連絡します。あわてて江戸から出陣し東海道を進んで到着したのが大垣赤坂にある岡山です。岡山の頂上に家康の馬印があらわれたことで西軍に動揺が拡がります。

大垣でレンターサイクルを借りて岡山本陣を目指しましす。まあまあの距離があります。低い山ですが寺の敷地で登れなくなっていました、残念。そんな情報はしっかり出しておいてよ。本陣をおいた岡山は低山ですが、当時は高い建物がなかったので石田三成側からの物見からはよく見えたでしょう。さすがに岡山は大垣城から離れすぎていて家康の旗印を見るのは無理ですねえ。西軍では家康出現の動揺をおさめるために島左近が一計をたてて杭瀬川の戦いを行い、東軍との初戦に勝ち士気を高めました。

織田信長 居館跡

織田信長居館跡

ぎふ金華山ロープウェーのすぐ近くにあるのが織田信長居館跡。斎藤道三の頃から舘があり、当時の石垣も残っています。信長が迎賓館として大改修しています。現在も発掘調査が続いており、館跡からは金箔を施した瓦の破片が発掘され、ルイス・フロイスの「日本史」に、庭園を見た後に濃姫の金で彩られた部屋を訪れたと記述していることから、濃姫の館と類推されています。

フロイスによると庭園が4つも5つもあり、建物は4階建てで見晴らし台からは町が一望できました。フロイスは岐阜城にも招待されており、エッチラオッチラと登山したんですね。昔の人は本当に健脚です。

公家の山科言継が家康に後奈良天皇の法事への寄付をお願いに三河へ行く途中、岐阜に立ち寄った時は家康には飛脚を送るから岐阜に留まればよいと歓待を受けて1ケ月ほど滞在し、家康からの資金調達にも成功しています。信長は岐阜城と麓の館の間を、よく行き来しており、ほんまに健脚ですなあ。

鷺山城

鷺山城

岐阜でセミナーをしたついでに斎藤道三の鷺山城へ行ってきました。

山城には珍しく歴史が分かっています。鎌倉時代、佐竹秀義(佐竹家3代目)が築城し、室町時代は美濃国守護である土岐氏が使っています。麓には土塁と堀で守られた福光御構が造られ、守護所がありました。守護所はこの後、革手城、大桑城へと移転します。大河ドラマ「麒麟がくる」では大桑城が守護所になっていました。

土岐氏を追い出した斎藤道三が家督を斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居します。濃姫は鷺山城で生まれ、織田信長に嫁ぎ、鷺山殿と呼ばれています。鷺山城は公園になっていて遊歩道がついていて登りやすくなっています。堀切や郭跡などが残っていました。長良川の対面に稲葉山城(岐阜城)が見えます。

炬口(たけのくち)城

炬口城 虎口

炬口は石清水八幡宮の荘園である炬口荘があったところで中心になるのが炬口八幡神社です。神社の北側にある万歳山山頂に炬口城があります。築城したのは淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏です。安宅氏は最初の天下人となる三好長慶と組み、三好政権を支えますが、織田信長の台頭により没落していきます。

■炬口城へ
事前に調べると炬口八幡神社の裏手から登山道があるという情報を発見。さっそく登り始めますが藪だらけで本当に登山道があるのか確認できず、いったん麓に戻へ。よく藪を見ると地面に木の階段になっているようなところが見えます。やはり登山道だということで藪に突入。登山道とは名ばかりで、ほぼ木の階段は崩壊しており、藪だらけの道でした。さすがに頂上近くになると藪は減りましたが、今度は道がなくなります。しかたないので直登すると城の虎口がありました。

炬口城に中に入ると2つの郭から構成されていて高い土塁に囲まれています。ただ郭の中は藪だらけなので土塁の上を巡っていくことに、見事な畝状竪堀までありました。堀切も大きいですね。帰りは尾根沿いの道なき道を下っていくと麓近くで山道を発見。あとで調べると洲本市のホームページに城への行き方が掲載されていて、少し遠回りして炬口城へ行ける山道があったようです。炬口八幡神社からは行けませんとも書いてありました。先に言ってよ(笑)。もっとまめに事前調査しないと。

洲本城 下の城

洲本城 下の城

慶長14年(1609)、脇坂安治が伊予大洲に移封となり、次は藤堂高虎、池田輝政が淡路を統治した後、大坂の陣の功により、淡路一国が蜂須賀至鎮に加増されます。脇坂安治が整備した山上の洲本城は、登るのがきついためか、山麓に新しく御殿を作りました。これが下の城です。蜂須賀氏は阿波を領地にしており、洲本城には筆頭家老の稲田氏が入りました。現在は淡路文化史料館や検察庁、税務署などが城跡に立ち並んでいます。

蜂須賀家は秀吉に仕えた蜂須賀小六が祖となります。絵本太閤記の影響で夜盗の親分イメージが強いですが、本当は蜂須賀城を拠点にした国衆ですね。もっとも戦国時代なんで後方撹乱、ゲリラ戦などなんでもありでした。明治時代になると蜂須賀侯爵家になりますが、明治天皇を待つ間、明治天皇愛用のタバコを一本くすねた一件があり、「血は争えぬのう、蜂須賀」と明治天皇が笑った逸話が残っています。

洲本城

洲本城

洲本城は淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏が築き、天正13年(1585)に入城した脇坂安治が総石垣の城に改修しました。

■転勤族だった脇坂安治
脇坂安治は近江国生まれで賤ヶ岳の七本槍の一人です。天正12年(1584年)に伊賀守護となりますが、この時に秀吉とやり取りしていた古文書が近年、龍野で発見されました。秀吉に戦いで手柄をたてたいと、ごねる脇坂安治に対して、京都御所造営のためにしっかり材木を出せ、戦働きと同じで重要な仕事だと叱責しています。秀吉にとって子飼いの武将だったので気安さが伝わる内容になっています。

翌年、秀吉より淡路洲本で3万石を与えられ洲本城を整備しました。淡路水軍を率いて九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に参戦しています。関ケ原の戦いでは西軍に属していましたが事前に家康と内通しており、本領安堵になっています。後に伊予大洲藩に転封となりますが洲本時代が24年間ありました。

■洲本城
東西800mに及ぶ広大な城で東の丸から西の丸まで歩きましたが、広い!広い!また水軍の城なので城下には港が見えます。洲本城の魅力は2条になった登り石垣がある点です。登り石垣とは頂上から麓まで延々と続く石垣で松山城や彦根城にも残っています。規模は小さいですが周山城などにも登り石垣があります。

伊賀丸山城

伊賀丸山城

伊賀でお仕事だったのですが午後の予定がキャンセルになったので、伊賀鉄道で丸山駅へ出て丸山城に登ってきました。丸山城は駅近くの山に築かれています。小川沿いの道を歩いていくと、以前はなかった案内板があり、ここから山道を登って城に入れます。

丸山城は天正伊賀の乱(織田信長による伊賀攻め)のきっかけとなった城です。伊勢国司だった北畠家にムリヤリ養子に入ったのが織田信雄(「どうする家康」では浜野謙太が演じていました)で、信長にいい所を見せようと伊賀侵攻の拠点として丸山城を築き始めます。天守台まで備えた壮大な城でしたが、完成間際に伊賀衆によって落城させられます。怒った織田信雄が8,000の兵で伊賀を攻めますが、これまた敗退してしまいます。信長からは親子の縁を切ると叱責されてしまいます。

丸山城はたくさんの郭で構成された城で、最終的に伊賀国が滅んでから改修されたようです。食い違い虎口など織豊時代の技巧的な城造りになっています。

隠岐支城Ⅱ

隠岐支城Ⅱ

甲賀の隠岐城塞群もいよいよ最後です。隠岐支城Ⅱは隠岐支城Ⅰの目の前の丘上にあり、砂坂城の東側にあります。隠岐支城という名前がついていますが本当に隠岐氏の郎党の城かどうかは分かっていません。ただ隣接した形で密集していますから同族なのでしょう。隠岐城塞群は隠岐城、隠岐支城Ⅰ、隠岐支城Ⅱ、隠岐支城Ⅲ、隠岐支城Ⅳ、砂坂城、打越城からなっています。あとで調べるとすぐ近くに大佐治北城、神保城がありましたが、こちらは行けていません。

■隠岐支城Ⅱ
城の北側から切岸(早い話が崖)をよじ登っていきます。郭まで到達すると郭と郭の間には見事な堀切になっていました。ようやく主郭まで登ると、なんと畑になっていました。後で南側にまわると分かったのですが城跡には小道が整備され住宅がいくつか建っていました。なんだ、苦労せずに城に到達できたんだあ。