地黄陣屋

地黄陣屋
織田信長と対立し、本能寺の変では明智光秀に味方したことから能勢頼次は備前岡山に落ち延びました。月日が流れ徳川家康が京都の実相寺(日蓮宗)で休憩した時、住職が能勢頼次の弟だった縁から、能勢頼次は家康に召し抱えられることになります。関ヶ原の戦いで戦功を立て、家康から能勢の領地を与えられます。
別の説もあり秀吉の九州征伐に能勢頼次が従っていた時に犬猿の仲だった塩川氏が能勢氏を攻め、急遽大坂へ戻った能勢頼次が秀吉に訴えて塩川氏を滅ぼしたという説です。いずれにしても能勢氏は江戸時代、徳川家に仕えることなりました。丸山城の代わりに新たに地黄城(地黄陣屋)を構築します。今は能勢町東中学校となっていますが、石垣などが残されています。地黄は薬草の地黄草からきており、能勢には平安時代、朝廷の典薬寮領の地黄御薗がありました。
故郷の地を回復できた能勢頼次は為楽山城の跡地に仏堂を建て、これが能勢妙見山となります。参詣者が増え、全国的に「能勢の妙見さん」が有名となります。能勢家は江戸の本所に下屋敷があったことから屋敷内に妙見菩薩を勧請し、これが妙見山別院となります。勝海舟が子供時代に大けがをした時、父の小吉が水垢離のために日参したのが妙見山別院となります。

丸山城(能勢)

丸山城
丸山というこんもりとした山があり、ここに能勢氏の山城がありました。
能勢氏は多田源氏の流れをくみ摂津を代表する御家人で、鎌倉時代は田尻や野間などの地頭職をしていました。室町時代は代々足利将軍家に仕え、将軍家直属の奉行衆でした。戦国期は摂津守護細川京兆家の被官であり、応仁の乱では東軍の細川勝元に味方し能勢頼弘らが討死します。
源満仲から数えて22代目にあたる能勢頼通は、京へ上洛した織田信長に対抗したため、信長の命を受けた塩川氏(能勢・山下城)によって殺されてしまいます。能勢氏では、頼通の弟の能勢頼次を後継として戦いますが、丸山城は落城し、居城を為楽山(いらくさん:現在の妙見山)に移します。
能勢は亀岡に近く、能勢頼次は明智光秀と親しい関係であり、また兄が信長に殺されたことから、本能寺の変が起こった時には、明智光秀に味方しますが、光秀が秀吉に敗れたことから備前岡山へ落ち延びます。
丸山城はきちんと整備されており主郭からは地黄の街並みを一望できます。

野間中城(能勢)

野間中城
野間城の山裾を川が流れていますが、川の反対側にある山にあるのが野間中城。
山城へ行くには通常、案内板も何もないので、どこから山へ入れるか事前調査が必要です。野間中城を調べましたが、いずれのサイトや書籍にも”道はなく、がんばって直登しましょう”と記載されています。というわけで直登してきました(笑)。山頂へ出ると郭が2つほどあり、土塁も残っていました。
野間氏の記録に新城を築いたが途中で中止になったという記述があり、これが野間中城のようです。城というと代々、お殿様が住んでいるイメージがありますが、戦国時代には臨時的な城もたくさんありました。特に附城は1回きりの攻撃でしか使われません。ある程度出来上がっていたのに、なんで中止になったんですかねえ。
奈良ホテルのすぐ横に西方院山城跡がありますが、ここも最初の計画と違って、途中で中止となり、すぐ隣、現在の奈良ホテルの場所に鬼薗山城が作られました。

野間館(能勢)

野間館
野間城の麓に野間館跡があります。敷地は削平されており広く、周りに土塁も残っています。ただ案内板もなにもありません。大阪では珍しく平時に使う麓の館と山頂にある詰城の両方が見学できます。ここに多田院御家人だった野間氏の館がありました。
阪急宝塚線の川西能勢口駅から能勢電鉄が出ており、途中に多田駅があります。駅近くに多田源氏発祥の地である多田神社(多田院)があります。清和源氏武士団発祥の地であるため源氏の流れをくむ足利、徳川ともに多田神社を源氏霊廟としていました。もっとも徳川は源氏詐称のようです。
清和源氏の源満仲が多田荘を所領としたことから多田満仲を名乗り、ここから多田源氏となります。やがて源頼朝が登場し、清和源氏の嫡流を名乗りましたので多田荘を奪われることとなり、多田源氏は没落したようです。多田荘は多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配され、野間城を築いた野間氏も多田院御家人でした。

山城ガールがいた野間城

野間城
摂津・野間城へ。
主郭や堀切を見て山道を降りてくる途中で出会ったのが若い女性。
「上までだいぶありますか?」
「もう少し、上がったところから城になっています」と返答。会話はそれだけでした。
野間城はハイキングコースではないし、飯盛山城や芥川山城のようにメジャーな山城ではありません。山道への案内はなく、城の入口を自力で調べないと入れないようなマイナーな山城です。たまに同じような山城マニアのオジサンには山道で会ったりしますが、それもマレですね。ましてや女性の山城ガールは初めてです。いよいよ山城の時代です(笑)。
野間城は摂津の国人だった野間氏の詰城です。能勢郡には朝廷に銅をおさめる採銅所があり、野間氏は鎌倉時代ぐらいから銅に関わっていました。野間城の主郭には白髭稲荷社が昔あったようで、山道もきれいに整備されていました。主郭は広く、裏側の尾根をすごく深い堀切で切断していました。

土丸城

土丸城
雨山城のついでに土丸城へ行ってきました。谷を隔てた土丸山の上にあります。
雨山城から井戸跡へ降りて尾根沿いに歩いて行くと城跡にたどりつけます。木札の案内を見逃さずに行けば、たどりつけます。さすがに土丸城跡まで来るハイキング客はいませんでした。
土丸城には郭がいくつもあり、けっこう大きな城ですが雨山城と一体で用いられていたようで出城のような扱いだったようです。二上山城の雌岳、雄岳と同じですね。
主郭跡には神社があり、雨山城と同じように関西空港が一望できます。四方が見渡せ、眺めがいいですねえ。

雨山城

雨山城
2018年の初山城は雨山城。熊取の大阪体育大学、浪商高校の近くにある山城です。
関西国際空港の近くに日根野駅がありますが、昔、日根野村に九条家の日野荘という荘園がありました。今は日根荘遺跡として国史跡となり、雨山城も追加指定されています。南北朝から戦国時代にかけて日野荘や和歌山の粉河を結ぶ粉河街道をおさえる城だったようです。
南北朝時代、北朝方の高師直が日根野氏に城の警護を命じています。これを楠木正行の弟である楠木正勝が攻め落とします。ところが南朝側で孤立した楠木正勝が北朝方に寝返ったことから城が北朝方に。ところが、また南朝方になったりと、この城を舞台に戦国時代まで争奪戦が行われました。
雨山城は国史跡でハイキングコースとして整備されており迷うことはありません。十町からカウントダウンする町石が一町ごとに置かれ目印になります。大手道は幾重にも曲がり、高取城の七曲りのようになっています。城の入口は土橋になっていて、主郭には神社が建っていました。いろいろな郭があり、楽しめます。主郭からは関空、四国、明石大橋などが一望できハイキングコースとして人気があるわけです。

和泉苅田城

穴師薬師寺
和泉苅田城、Googleマップで偶然に見つけたお城で、JR和泉府中駅が最寄り駅です。府中という名前がついているので昔の和泉国府があったはずですが、国衙(役所)は見つかっていません。
和泉苅田城跡には住宅街になっていて何も遺構が残っておらず城跡は穴師小学校からJAいずみ穴師支店周辺だったようです。こんなマイナーなお城までGoogleマップに掲載されているんですね。かと思えば外鎌山城のように、割とメジャーな城が登録されたおらず、どんな基準で登録しているんだろう。
近くに穴師山薬師寺があり、秀吉の紀州征伐時には根来寺に味方し僧兵もいたため、大伽藍が焼けてしまったそうです。この時に和泉苅田城はどうなっていたんだろう。
小牧・長久手の合戦がこんな和泉の地でも行われたんですね。

積善寺城(貝塚)

積善寺城
積善寺城跡 JR阪和線の和泉橋本駅の近くにあります。
遺構は何も残っておらず住宅地になっていますが、長屋門のある家があったり、狭い通りなど古い町並みを残しています。主郭があったのが明教寺付近と言われています。表札には根来という名前がかかっていました。Googleマップでは明教寺が積善寺城跡となっていますが、少し離れた安楽寺境内が主郭とも書かれており、ここらへん一帯が城跡だったようです。
積善寺城はもともと三好一族と争った時の砦として作られ、近木川沿いの千石掘城などとともに、根来衆の出城でした。基本的に平城で秀吉の紀州攻めでは三重の濠をめぐらした城に根来衆9,500人が立て籠もって戦いました。結局、城は落ちず和睦開城となったようです。

千石堀城(貝塚)

千石堀城(貝塚)
秀吉の紀州攻めで有名なのが千石堀城の戦い
貝塚にある高井城から近木川を超えたところに千石堀城があります。貝塚こすもすの里の裏手に拡がる丘の上にあるのですが、城に入るところが分からなく、紀泉鉄道を通す予定で掘削した跡の道から藪に入ると登城できました。かなり大きな主郭で、帯郭が巡っています。写真は堀切横にある虎口ですが、写真ではよく分かりませんね。
千石堀城には秀吉と対峙した根来衆は鉄砲で武装し守っていました。
秀吉軍は豊臣秀次、堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らで二の丸まで攻めましたが本丸は攻めあぐね多大な被害を受けます。このまま持久戦になるかもと思われましたが、筒井隊が放った火矢が城郭を焼き、たまたま火薬箱に引火して大爆発が起きます。豊臣秀次軍が本丸に突入し、根来衆が討ち取られてしまいます。