外鎌山城

外鎌山城
先日、3本登ってきた山城の1本目が外鎌山城(戸賀間山城)。
近鉄・大和朝倉駅の住宅街を抜けた外鎌山山頂にあります。えっちらおっちら30分ほど登ると城跡に着きます。外鎌山城は南朝の忠臣・西阿(せいあ)が築いた城で、山頂には「西阿の碑」が建っていました。西阿は桜井一帯をおさめた大和武士団の一人です。
すぐ隣の鳥見山は神武天皇の霊畤(即位後に最初に行われる新嘗祭【大嘗祭のこと】)が行われた地で、ここに同じく西阿の造った外山城(鳥見山城)がありました。大和の東の端にあり山のすぐ下を大和から伊勢へ向かう初瀬街道が通っていますので、この2つの山城で街道をおさえていました。
頂上の主郭からは大和三山、二上山などが見え、大和盆地を見渡すことができ、眺めがいいですねえ。万葉集で外鎌山は朝倉富士と呼ばれていました。外鎌山城は主郭の周りには帯郭がありますが、それほど大きな城でなく、こじんまりとしています。

大和 畑城

畑城
二上山城(雄岳)に登ったついでに麓にある畑城(岡城)に寄ってきました。前回、行った時は道がわからず切岸(崖)を登った山城です。跳水タンク横に道があるのを前回、見つけたのでそちらから登りましたが、結局、迷ってしまい、また切岸を登る羽目になりました(笑)。
山城は大字「畑」にあり「ダイジョウゴウ」と呼ばれている山に山城があります。山城を造ったのはこのあたりを支配した国民(春日社の被官)である岡氏です。大和と河内を結ぶ交通の要地だったので、河内方面の武士の動向を窺いながら大和の他の国民とくっついたり離れたりしていました。松永久秀が大和を支配していた頃は松永久秀に属していました。最終的には織田信長、筒井方と戦うことになる滅んでしまいます。
城跡は藪だらけですが、見事な堀切跡などが残っています。

岸和田古城

岸和田古城
岸和田と言えば”だんじり祭り”で有名な町です。この辺りは昔、岸と呼ばれ和田氏がおさめたので岸和田と呼ばれるようになります。
本日は大阪府よろず支援拠点の仕事で岸和田商工会議所で「IoT活用入門セミナー」をしてきました。商工会議所に行く途中にあるのが岸和田古城で南海・岸和田駅の近くにあります。
住宅街になっている微高地で遺構は何も残っておらず、和田氏居城伝承地の碑が建っているだけです。絵図が残っていますが大きな城だったようです。

障子堀が見事な山中城

山中城
日本100名城のひとつ山中城です。
北条氏の要(カナメ)になる城で、山中城を突破されると箱根を超え、本拠地である小田原城まで一気に攻められてしまいます。
山中城は、かなり大きな山城ですが、きれいに整備されていて、特に西郭の障子堀は見事です。箱根街道が城の真ん中を通っていて、敵が岱崎出丸へ攻め込むと反対側の西郭から攻撃され、反対に西郭に攻め込むと岱崎出丸から攻撃される鉄壁の守りになっています。ところが秀吉軍は通常では考えられない兵力を投入して一気に落城させてしまいます。もっとも大名クラスの一柳直末が討死するなど、攻撃側もかなりの打撃を受けました。なりふりかまわない攻撃だったようです。
”槍の勘兵衛”と呼ばれた渡辺勘兵衛という人物がおり、秀吉の小田原征伐の時は豊臣秀次の家老中村一氏の家臣でした。山中城攻めでは、渡辺勘兵衛が先頭切って岱崎出丸に一番乗りを果たします。本人が山中城攻めの顛末を書いた渡辺水庵覚書が残っていて、覚書によれば岱崎出丸を守備していた北条方はそう多くなく、長い出丸の途中に突入することで、分断に成功し岱崎出丸を落としてしまいます。山中城は秀吉側の総攻撃によって本丸まで一気に攻め込まれて落城し、秀吉は石垣一夜城を築いて小田原城に対峙することになります。
三島駅からバスが出ており、バス停を降りると城の入口です。スーツ姿で登れる山城です。

小田原征伐で最後まで持ちこたえた韮山城

韮山城
今回のメインイベントである韮山城です。
駿河から伊豆へ攻め入った北条早雲が拠点とした城で、早雲は韮山城を中心に伊豆の各拠点の支配を進め、亡くなるまで居城にしていました。早雲以降の北条氏は小田原城に本拠を移します。
秀吉の北条攻めで関東の各支城が次々に落城しますが、最後まで残ったのが”のぼうの城”で有名な忍城と韮山城です。韮山城の城主は北条氏規で、最後まで持ちこたえ小田原城が開城したことから降伏しました。北条宗家は滅びますが、北条氏規の子孫は狭山藩(現在の大阪府狭山市)として明治まで続きます。南海電車のさやま遊園は狭山藩下屋敷跡地に建っていました。
名高い韮山城なんで、よく整備されています。郭内は藪だらけが定番なんですが、きれいに取り払われ木もなく眺めがよいこと。土橋や櫓跡もしっかり残っていました。平山城なのでスーツ姿でも大丈夫です。

佐紀城

佐紀城
平城(へいぜい)天皇陵のすぐ近く、平城(へいじょう)京跡の北側に佐紀城があります。佐紀神社境内一帯が城跡になっています。平城(ひらじろ)ですからスーツ姿でも大丈夫です。平城京散策のついでに、ぜひどうぞ。佐紀神社は池を挟んで2つあり東側の亀畑の佐紀神社の方で、目の前には保育園があります。
神社の東側に土塁、空堀、櫓跡がよく残っていますが、ふつうの人が見たら単なる土の山です。神社の案内板にも城については何も書かれていません。もったいな~あ。最近、山城が表示されるようになったGoogleマップですが近くの大和超昇寺城跡はあるのに佐紀城は表示されていません。
すぐ近くに超昇寺氏が作った超昇寺城(竹藪だらけで入るのは大変)があり、佐紀城は室町時代に造られた出城と言われています。超昇寺氏は越智氏と戦ったり筒井氏についたり他の大和の国人と同様に右往左往していました

何もない花隈城

花隈城
神戸へ行ったついでに花隈城跡へ寄ってきました。元町駅のすぐ近くにあり、城跡はなにも残っていませんが石垣風の駐車場になっています。公園には碑が建っています。
JR線から、すごい急坂になっていて丘陵が突き出した一番先に城がありました。摂津を支配した荒木村重が織田信長に反旗を翻した時に有岡城(伊丹城)の支城となって織田軍の池田恒興などと戦います。荒木村重は毛利への援軍要請のため有岡城を抜け出し、尼崎城を経て花隈城に入りますが、結局、荒木村重は毛利に逃れ花隈城は落城します。
花隈城の北側の諏訪山には池田恒興と嫡男の元助が陣取り、生田の森(生田神社のあるあたり)には池田輝政が陣取っていました。元町周辺は戦場でした。勝った池田恒興は兵庫城を築城し、花隈城は廃城となります。古図が残っていた本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城だったようです。

浜田城の冠木門

浜田城の冠木門
近鉄四日市駅のすぐ横にあるのが浜田城跡。
県内では一番大きな町である四日市。都会のど真ん中に城跡が残っているのは奇跡的ですね。主郭跡には鵜森神社が建っており、周囲を土塁が巡っています。昨日、リーディング産業展へ行くついでに久しぶりに浜田城へ寄ると冠木門が復元されていました。
浜田城は北勢地域を納める赤堀三家(赤堀氏・浜田氏・羽津氏)の城です。藤原氏の系統で先祖には百足退治で有名な藤原秀郷がいます。本貫は上野国赤堀郷で、四日市へ移ってから三家に分かれました。この赤堀氏が三滝川の南側の辻で毎月4が付く日に市場を開いたことから四日市の地名となります。
赤堀氏は織田信長の伊勢攻めで滝川一益軍に破れ天正3年(1775年)に赤堀城と浜田城が落城します。浜田氏の跡取りは逃げて、後に織田信雄に従いますが、小牧長久手の合戦で戦死してしまい、ここで断絶します。一時期、滝川一益の娘婿で木造氏だった滝川勝利が浜田城の城主を勤めていましたが、小牧長久手の合戦の後、廃城となりました。
 

二上山城(雌岳)

二上山城(雌岳)
太子町巡りの最終目的地が二上山の山頂にある二条山城。
岩屋から二上山城の雌岳を目指します。二上山には二つの頂上があり、高い方が雄岳で低い方が雌岳、山城巡りに行くのはいいのですが山道をひたすら登らないといけないのが、しんどいですなあ。二上山城は大和と河内の両方を見渡せる絶好の場所で、写真は雌岳から見た大和三山。
二上山に城郭を築いたのは楠木正成で楠木氏河内国七城の一つと言われていますが、どうですかねえ。河内国守護だった畠山氏が古市に作った高屋城(平丘城)の支城として二上山城を作ったのでしょう。雄岳の城郭が大きく、雌岳は二上山城のさらに支城、出城のような感じですが竹内街道を監視することができます。近くに信貴山城があり、一緒に運用されていました。木沢長政が改修した時代の遺構が残っていますが、木沢長政が三好長慶軍に討ち取られた太平寺の戦いで二上山城も落城した模様です。
雌岳の遺構ですが頂上の郭や帯郭跡が3つほど残っています。雄岳も登ろうとしましたが、さすがに力尽きて山道を降りてきました。リベンジしなくっちゃあ!

大和上庄北城

大和上庄北城
近鉄生駒線の元山上口駅から東側にある丘を登ると老健施設があり、横の藪を入ると大和上庄北城があります。誰が造った城なのか記録などが残っておらず分かりませんが、この辺りを根城にしていた、曾歩々々(そぶそぶ)氏ではないかと考えられています。藪に入ると蜘蛛の巣がそこらへんにあるので、入口まではスーツ姿でいけますが、中に入るのはおすすめしません。
城館があったようで、空堀が見事に残っています。特に角のL字になっているところは見事です。城の西側は切岸になっていて断崖状態になっています。Googleマップで大和上庄北城跡で検索すると出てきます。この辺りには北城・中城・南城の三ヶ所がありましたが、現存しているのは北城だけになっています。