雑賀攻めの舞台 弥勒寺山城

弥勒寺山城
和歌山市にある和歌浦といえば万葉集にも歌われた景勝地です。ここを本拠にしていたのが雑賀衆。
弥勒寺山城を中心に砦網を築き織田軍と対峙しました。雑賀衆は分裂しており、織田信長軍は根来衆と雑賀三組を先導役に佐久間信盛・秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治等で組織し攻撃します。荒木村重・別所長治は後に信長と敵対しますし、根来衆と雑賀衆は後に秀吉と敵対することになり、めまぐるしく歴史は動きます。
弥勒寺山城近くを流れる雑賀川の渡河を堀秀政勢が行いましたが、さんざんに攻撃され戦線は膠着状態となります。結局は和睦のような形で決着します。
弥勒寺山は秋葉山城という名前で呼ばれており、現在は公園になっています。眺めはよく和歌山市内が一望できます。よく見ると帯郭のようなものが頂上近くに残っていました。

水攻めで有名な太田城

太田城
JR和歌山駅の東側にあったのが太田城。今は住宅街になって遺構は残っていませんが雑賀衆のお城でした。ここが日本三大水攻めの舞台となった城です。他の2つは備中高松城と「のぼうの城」で有名な忍城です。
和歌山ラーメンの”まるしげ”から少し東へ行くと、きのくに信用金庫・出水支店があり、ここの駐車場から秀吉軍が築いた水攻めの土塁を見ることができます。といっても説明版もないので、銀行に来た客からは、駐車場から何を映しているんだという不審の目で見られます。
Googleマップが進化しており、土塁に「太田城 水攻め堤防跡」としっかり表示されています。Googleマップすごいな~あ!

雑賀攻めの舞台となった根来寺

根来寺
秀吉と家康が直接対決したのが小牧・長久手の合戦。
小牧・長久手の戦いと聞くと、尾張の一部で戦いが行われたイメージですが、応仁の乱や関ケ原合戦と同様に日本中で戦いがあり、和泉、紀伊でも戦いが行われました。
そもそもは雑賀衆と根来衆が家康の誘いにのったことにあります。根来衆、雑賀衆、粉河衆の連合軍総数3万が岸和田城を攻めます。城を守っていたのが中村一氏と松浦宗清で、なんとか守り抜きます。秀吉は急ぎ大坂へ戻り、秀吉自身による雑賀攻めが始まります。根来衆は僧兵1万といわれましたが各地で敗れ、秀吉は紀州の根来寺まで到達します。根来寺では、ほとんど抵抗はなかったようですが、この時に火事になってしまい、一部を残して焼け落ちてしまいます。のちに徳川家が天下をとり紀州徳川家が伽藍を復興させます。
根来寺は寺といいながら堀の代わりになる深い川や一部では土塁も残っており、塔頭も高台に配置され、攻めにくい構造になっています。写真は雑賀攻めを焼け残った大塔で火縄銃の弾痕が残っています。

湯浅城

湯浅城
醤油発祥地で有名な和歌山県・湯浅でセミナーをしてきました。セミナーは夜だったので、当然、昼過ぎに到着し、まず目指すのは湯浅城です。
湯浅城を造ったのは湯浅宗重で、平清盛が熊野詣のため紀州に来た留守を狙って、京都で藤原信頼・源義朝が挙兵。この時に平清盛に付き従って上洛し勝利をおさめます。そのまま清盛に仕えましたが平家が滅んでからは源氏についています。湯浅党は紀南を中心に拡がり、広氏、得田氏、糸我氏、保田氏などは同族になります。
湯浅城ですが入口に鍵がかかっていて書かれている電話番号に電話をすると鍵を開けてもらえます。グリーンソサエティという地元のボランティア(今、蛍の復活をしているそうです)グループが管理しているそうで、本当は鍵をかけたくないが山火事などが心配でということでした。そのまま案内してもらいましたが、きれいに整備されていて郭跡など案内板や冠木門が作られていました。主郭跡からは湯浅の町と海などが一望できます。
グリーンソサエティによると1週間ぐらい前にも見学したい人が来られ案内したそうですが、めちゃくちゃ城に詳しい人で、よく山城に登っているということでした。帰りに入山記録を見ると私の前にあったのが滋賀県立大学・中井先生のお名前。「城館調査の手引き」など、たくさんの本を書かれている中世城郭の専門家ですから、そら詳しいはずです。隣に名前を記載させていただきました。

津城の総構え跡?

津城 総構え
復刻された江戸時代の津城下絵図をもっているのですが津城の北側、塔世橋近くに小さな堀があります。津城には内堀と外濠があり、惣構えにしては中途半端で、しかも当時の市街地の中を通っています。
どうも藤堂高虎が縄張りした時は観音寺の裏から安濃川の支流である桜川の小流につないで、城下の最も外側の守りとする計画、つまり惣構えがあったようです。ですが豊臣家が滅んでしまい計画を途中で放棄したんですかねえ。東の丸も整備しませんでした。やがて江戸時代がすすむうちに、高虎時代の惣構えを超えて市街地が大きくなったのでしょう。
現地には小さな水路が残っています。場所は国民生活金融公庫の東側ですが、ただ水路は途中で観音寺に向かって南に折れないといけないのですが、まっすぐ東側に進んでいます。国道23号線をはさんだ反対側に料亭「桜水楼」がありました。名前の通りに見事な桜が春になると咲き、国道23号線に花びらが積もっていました。
今は更地になって朝日屋の駐車場になっています。藤堂藩の時代は桜川が流れていたので、そこから名前をとったかもしれません。

七郷山城

七郷山城
最後の山城が七郷山城。
七郷山城は送迎山城から近く、明神山から連なる山稜沿いにあります。一回山を降りて、また登るのはしんどいので尾根沿いに行けないかなと、途中からハイキング道に入ると、これが正解でした。Googleマップでみると、この尾根道は明神山トレイルのコースになっているようで両側は急峻な崖になっています。
尾根道を進むと、いきなり二重の堀切が現れます。堀切を超えると尾根道に階段がついていて登ると主郭に入ります。なかなか大きな郭で端まで行くと階段を降りた先にまた二重の堀切があります。南北は崖になっていますので東西の尾根道に対する防御をすればよい構造で、なかなか見ごたえがある山城です。何の案内板もないので、ほとんどの人は城に気づかずに尾根道をハイキングしているんでしょうね。
山城を3つ登り、送迎山城を探すのに手間取ったこともあり、日没が近づいていました。南側の近鉄方面に降りるのはあきらめ、北側の崖を降りる道をたどりJR河内堅上駅から大阪へ戻ってきました。

送迎山城

送迎山城
2本目の山城は送迎(ひるめ)山城。大阪と奈良の県境近くにある近鉄・関屋駅から北に向かい、旗尾池を超えてずっと舗装路を行くと、途中から東海自然歩道になります。道を進みますが平坦な道が続き、どう考えてもおかしい。Googleマップで確認すると山城があるはずの場所から東にずれています。おかしいなと戻ってGPSを見ながら歩いてもずれていきます。もう一回戻ると、廃墟のようなところに埋もれた道を発見。歩き始めると坂となり、これが正解でした。
途中でハイキング道と合流し、ドングリ拾いをしていた家族連れが「どちらに向かいますの?」と聞いてきたので、正直に「山城へ」と答えましたが、どう考えても不審者に思われたでしょうねえ(笑)。
送迎山城は明神山の南にある送迎山にあり、郭、堀切、土塁跡が残っていますが、急峻ではなく、ゆるやかな造りになっています。造ったのは大和武士団の片岡氏で本城にしていたようですが、後に王寺の近くに片岡城を造り、そちらに移ります。

外鎌山城

外鎌山城
先日、3本登ってきた山城の1本目が外鎌山城(戸賀間山城)。
近鉄・大和朝倉駅の住宅街を抜けた外鎌山山頂にあります。えっちらおっちら30分ほど登ると城跡に着きます。外鎌山城は南朝の忠臣・西阿(せいあ)が築いた城で、山頂には「西阿の碑」が建っていました。西阿は桜井一帯をおさめた大和武士団の一人です。
すぐ隣の鳥見山は神武天皇の霊畤(即位後に最初に行われる新嘗祭【大嘗祭のこと】)が行われた地で、ここに同じく西阿の造った外山城(鳥見山城)がありました。大和の東の端にあり山のすぐ下を大和から伊勢へ向かう初瀬街道が通っていますので、この2つの山城で街道をおさえていました。
頂上の主郭からは大和三山、二上山などが見え、大和盆地を見渡すことができ、眺めがいいですねえ。万葉集で外鎌山は朝倉富士と呼ばれていました。外鎌山城は主郭の周りには帯郭がありますが、それほど大きな城でなく、こじんまりとしています。

大和 畑城

畑城
二上山城(雄岳)に登ったついでに麓にある畑城(岡城)に寄ってきました。前回、行った時は道がわからず切岸(崖)を登った山城です。跳水タンク横に道があるのを前回、見つけたのでそちらから登りましたが、結局、迷ってしまい、また切岸を登る羽目になりました(笑)。
山城は大字「畑」にあり「ダイジョウゴウ」と呼ばれている山に山城があります。山城を造ったのはこのあたりを支配した国民(春日社の被官)である岡氏です。大和と河内を結ぶ交通の要地だったので、河内方面の武士の動向を窺いながら大和の他の国民とくっついたり離れたりしていました。松永久秀が大和を支配していた頃は松永久秀に属していました。最終的には織田信長、筒井方と戦うことになる滅んでしまいます。
城跡は藪だらけですが、見事な堀切跡などが残っています。

岸和田古城

岸和田古城
岸和田と言えば”だんじり祭り”で有名な町です。この辺りは昔、岸と呼ばれ和田氏がおさめたので岸和田と呼ばれるようになります。
本日は大阪府よろず支援拠点の仕事で岸和田商工会議所で「IoT活用入門セミナー」をしてきました。商工会議所に行く途中にあるのが岸和田古城で南海・岸和田駅の近くにあります。
住宅街になっている微高地で遺構は何も残っておらず、和田氏居城伝承地の碑が建っているだけです。絵図が残っていますが大きな城だったようです。