京都の”いけず”を生んだ御土居

御土居
秀吉が京都の街を囲んで造った総構が御土居で、今でも一部が残っています。鷹峯の御土居はよく保存されており、以前にブラタモリでも取り上げられていました。
ヨーロッパなどの城壁都市のようなものですが石ではなく土塁で造られています。高さは5mほどで、これが22km以上も続いていました。御土居は防衛の意味もありましたが、鴨川などの氾濫から守る堤防にもなっていました。
知的生産の技術研究会・関西で講演してもらった井上章一氏の「京都ぎらい」(朝日新書)が関西圏で異様に売れているそうですが、この本のなかに京都人がもつ”いけず”な洛中意識が出てきます。
■洛中、洛外
嵯峨といえば観光地で有名ですが、ここは洛中の人にとっては京都とはみなされていません。同じように京都橘大学がある山科も京都ではありません。大学があるのは京都市山科区ですが、なんせ東山を超えた向こう側にありますから京都とは認めてもらえません。
なんでこんなことになったかという一因が秀吉が造った御土居です。御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになったことから京都人の”いけず”な意識が形成されていったようです。
■洛とは
この「洛」はもともと洛陽からきており、平安京を造った時に右京(西側)を長安、左京(東側)を洛陽と呼びました。やがて湿地帯が多かった右京が廃れ、京都をさす言葉として洛陽が残りました。信長の上洛の洛もこの洛陽からきています。

時鐘堂が残る和歌山城

時鐘堂
和歌山紀行シリーズです。(笑) 太田城の次は和歌山城へ。
和歌山城天守は国宝指定されていましたが、空襲で焼失してしまいます。石垣や土塁以外で当時のまま城内に残っているのは岡口門と追廻門だけとなりました。和歌山城では復旧を進めていて、2006年には西の丸庭園の御橋廊下が当時の図面を元に再現され、実際に通ることができます。他の城では見られない建造物で、かなり傾斜していて床がすべらない構造で歩くと痛いです。
久しぶりの和歌山城でしたが、敷地内にある和歌山市役所南別館2階に和歌山城歴史資料館ができていました。天守閣と同じチケットで入場できます。12分間にわたり江戸時代の和歌山城をCGで再現したビデオが放映されていて、見応えがありますね。また和歌山城が出来る前の雑賀衆の歴史資料も展示されていました。もちろん太田城の展示もありました。
城内の門以外に城から道をはさんだ岡山の上に時鐘堂が現存しています。作ったのは、あの徳川吉宗。鐘で時刻を知らせていました。この岡山には戦国時代に岡山城という山城がありましたが残念ながら遺構は残っていません。

日本三大水攻めの太田城

太田城
日曜日、ACT2020(パソコン通信時代からの中小企業診断士の集まり)は10時スタートでしたので、朝から太田城へ出かけてきました。
和歌山と言えば紀州藩の和歌山城が有名ですが、もともとは紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。平定する前にあったのが太田城でJR和歌山駅のすぐ東側にあり、来迎寺や玄通寺あたりが本郭でした。残念ながら城跡は残っていません。
小牧・長久手の合戦では大阪や和歌山も戦場となり、秀吉は太田衆、雑賀衆、根来衆の連合軍と戦っていました。太田城でも合戦が行われましたが、城はなかなか落ちません。そこで秀吉が行ったのが水攻め。備中高松城、忍城(「のぼうの城」で有名に)に並び三大水攻めの一つと言われています。
この時、秀吉が造った堤の一部が奇跡的に残っています。場所は”きのくに信用金庫 出水支店”近くで6メートルほどの高さの土塁が残っていました。昭和のはじめの頃には20ケ所ほど残っていましたが、今はここだけになってしまいました。
残っていてもタマ電車には勝てないので観光資源にはならないでしょうね。

至れり尽くせりの佐和山城

佐和山城
山城へ行くには事前準備が大変です。地図はもちろんのこと、城へ登る目印について記載された文章はないかを探します。直登しかないと書いてあると山道はあきらめるしかないですね。もちろん縄張図(曲輪や堀切の位置などを書いた地図)は必須です。
彦根にある佐和山城へ行ってきました。彦根駅からずっと登城口まで案内板があり、迷うことはありません。しかも登城口にはガイドがいて、山城マップを無料で配布しています。マップには縄張り図が写真入りで紹介され、いやあ至れり尽くせりの山城ですねえ。また山城で他の人に会うことはまずないのですが、さすがに佐和城!たくさんの人が登っていました。
■佐和山城
佐和山城は石田三成の城として有名ですが、もともとは浅井の方である磯野員昌の城で、信長が支配するようになってからは丹羽長秀が永らく城主を勤めていました。やがて石田三成が城主となり、失脚してからは佐和山城で家康との戦いを構想。上杉攻めの途中に佐和山城に立ち寄った大谷吉継を説得し関ヶ原の戦いを起こした話は有名です。
当時の落書には「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれました。嶋左近は平群の出身で、近鉄生駒線の竜田川駅近くにある西宮城と山城である椿井城が嶋氏の城になっています。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた後、井伊直政が佐和山城に入りました。来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎が育てたのが徳川四天王と言われた井伊直政です。新たに彦根城を築き佐和山城から移りますが、島津の敵中突破を阻止しようとして受けた傷がもとで亡くなってしまいます。

登城口がなかなか見つからない山下城

山下城
能勢電鉄に揺られて山下駅へ。駅から山の麓へ歩くと平野神社があります。山城の地図を見ると、この平野神社の裏山あたりで、山道を登りはじめます。山道のところどころに地蔵があり、33ケ所巡りができるような形になっています。さて頂上ちかくに登ってもとんと山城跡がありません。おまけに野生の鹿が出てくる始末。どうも山を間違えたようで、もう一度、下って平野神社まで撤退。
平野神社の奥の方へ行くと「山下城」と小さな木札がかかっているのを発見。”これだ”と歩きはじめると、途中から沢道になってしまいました。しかも、さっき頂上まで行った山につながっているようです。”こりゃ、違うなあ”と山道で行くのはあきらめて、崖の直登を開始。20メートルほど上がると山道を発見。これが城につながる道だろうと歩いていくとピンポン。なんですが、着いたのは城を守るために造れらた二重堀切の跡。見上げると櫓跡のようなものが見えます。山道を行くとかなり回り道になりそうなので、今度は切岸の直登を開始。10メートルほど登ると主郭の櫓跡に着きました。
■獅子山城、一庫城
山下城は獅子山城、一庫城とも呼ばれていたようで、もともとは源頼仲が造った城のようです。源頼仲の婿だった塩川氏が代々、城主になっていたようです。南北朝時代から戦国時代にかけて攻城戦が行われました。まだ細川春元の部下だった三好長慶が三好政長、波多野秀忠らと共に山下城の塩川政年を包囲して戦ったりしています。秀吉の時代まで城はあり、その後に破城になりました。
主郭は公園になっていますが土塁も櫓跡も残っています。いくつも曲輪があり、多くは畑や神社になっていますが、曲輪の形は見事に残っています。写真は主郭からずっと下ってきた七の段にある愛宕神社から眺めた能勢の風景。能勢街道をおさえる城でした。
山から下り、ようやく山城への入口を発見しましたが、「あぶない」という立て看板が立っているだけで、道かどうかも分からない入口。こりゃ気がつくのは無理ですねえ。やっぱり迷ったら直登ですなあ。(笑)直登は体力を使いますので良い子はやめましょう。

松永久秀が散った信貴山城

信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。

日本の国名ができた時代に造られた高安城(古代)

高安城
中世の高安山城から信貴山城へ行く途中にあるのが高安城倉庫跡です。山の上に倉庫の礎石跡が残っていて、ここに7つほどの倉庫があったようです。
■白村江の戦いの後に造られた城
日本史で習いましたが663年の白村江(ハクソンコウ)の戦いで大和・百済連合軍は大敗北。国家存亡の危機に唐・新羅などの侵攻に備えて高安城、屋嶋城(讃岐)、金田城(対馬)を築いた話が日本書紀に出てきます。
倭国は唐と戦後処理を行い、友好関係を目指しますが、そこはどうなるか分かりません。国内では飛鳥浄御原令の制定など律令国家などを急速に進め、国家体制を充実させます。国名も倭国から日本に変えます。そして最後の防衛線として造られたのが高安城です。
■ずっと幻の城だった
高安城は日本書紀に記載されていますが、場所が分からず幻の城と言われていましたが、市民グループ「高安城を探る会」が発見したのが倉庫群。ただ発掘調査したところ廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物であることが判明します。それでも大仏開眼や正倉院よりも以前の話なんで、すごいんですがあ。
ところが1999年に100メートル以上も続く石垣が地元の研究者によって発見されます。調査が進むと城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城だった模様で、東西も1.2kmあったようです。こうなると高安山一体が城跡ということでホンマかいな!!
■壬申の乱の舞台にもなる
壬申の乱というと不破の関での戦いなどが有名ですが高安城も戦場になりました。近江朝廷軍が支配していた高安城を大伴吹負の兵が攻め占領します。朝廷軍が難波から攻め込んできたので高安城から下り、難波から攻めてきた朝廷軍と石川で戦います。
大坂の陣では後藤又兵衛が石川を渡り、小松山で徳川軍と戦いますが、昔から要衝の地だったんですね。

高安山城(中世)

高安山
高安山に登り生駒山縦走路にぶつかります。この縦走路沿いに歩くと丸いドームが印象的な高安山気象レーダー観測所があります。大阪の街からも見えます。
この観測所のすぐ近くに高安山山頂があり、ここに高安山城跡があります。生駒山縦走路が城の真中をつっきっており中世は路ではなく堀切だったようです。以前に通ったことがあるんですが、ここが城跡とは全然気づきませんでした。
今回は地図を調べていったので、路から少し崖を登ると曲輪と曲輪の間の堀切に入れます。曲輪の土塁も残っていて、なかなか見事です。奥にも曲輪があり、かなり大きな城です。高安山山頂にも曲輪があったのですが、こっちはあんまり痕跡が残っていません。
字は出城になっていて信貴山城の出城だったようです。そうなると造ったのは松永久秀でしょう。高安山は標高488mあり、信貴山の標高より高いので大阪よりの防備を固めたのでしょう。高安山城から30分ほど山道を歩くと信貴山です。

住宅街に残る菜畑城

菜畑城
「近畿の城郭3」を読んでいたら住宅街にある城を発見。さっそく行ってきました。
大阪から生駒トンネルを抜けると生駒駅、ここで生駒線に乗り越えて一駅目が菜畑駅。少し歩くと往馬大社で、この近くに城があるはずなんですが、なかなか見つかりません。
けっこう迷っていると住宅地図の看板を発見。城山という字名があったので、たどりつくとピンポン、城跡でした。といっても住宅地なので丘の上に家が並んでいるだけで土塁などは残っていませんが、堀切(曲輪と曲輪の間を断ち切った堀)などが狭い公道で残っていました。
■住宅地に残る菜畑城
曲輪がそのまま住宅地として残っていて見事ですね。住宅地開発では城は壊されたり津の渋見砦公園のように何もなくなって、単なる公園になるケースがほとんどですが、曲輪だけですが見事に城跡が残っていました。
城の横は小川が流れていて、これが堀代わりだったのでしょう。この堀から切岸(侵入できないような崖)になっていました。誰が領主だったのか記録にもまったく出てこない城ですが、けっこう大きな城です。近畿大学のグラウンドと緑ヶ丘中学校のちょうど間ぐらいにあります。

大和三山に山城があった

耳成山
大阪から三重へ行く時に、よく大和八木駅で乗換しています。大和八木駅の横に見えるのが耳成山。大和三山の1つです。
先日、6,480円の大枚を払って買ってきた「近畿の城郭3」を読んでいたら、天神山城という山城が出てきました。場所をよく見ると耳成山頂上!耳成山に山城があったんだあ!
■天神山城へ
ということで雨が降る前の午前中に大和八木まで出かけてきました。耳成山の頂上近くに耳成山口神社があり、かっては天神社と呼ばれ、耳成山も天神山と呼ばれていたそうです。それで天神山城なんですなあ。この神社の裏手が城跡です。
明治天皇が陸軍の演習見学で頂上へ登った時に少し改変していますが、割と城跡が残っていました。郭もたくさんあり、帯郭もあって、けっこう大きな城です。
城を造ったのは赤澤朝経(ともつね)という人物で室町幕府方。大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもっており、赤澤朝経は山城を本陣にして連日、合戦にむかっていたと記録に残っているそうです。香具山にも城跡があるそうなんで、これは行かねば!