太子町巡りの最終目的地が二上山の山頂にある二条山城。
岩屋から二上山城の雌岳を目指します。二上山には二つの頂上があり、高い方が雄岳で低い方が雌岳、山城巡りに行くのはいいのですが山道をひたすら登らないといけないのが、しんどいですなあ。二上山城は大和と河内の両方を見渡せる絶好の場所で、写真は雌岳から見た大和三山。
二上山に城郭を築いたのは楠木正成で楠木氏河内国七城の一つと言われていますが、どうですかねえ。河内国守護だった畠山氏が古市に作った高屋城(平丘城)の支城として二上山城を作ったのでしょう。雄岳の城郭が大きく、雌岳は二上山城のさらに支城、出城のような感じですが竹内街道を監視することができます。近くに信貴山城があり、一緒に運用されていました。木沢長政が改修した時代の遺構が残っていますが、木沢長政が三好長慶軍に討ち取られた太平寺の戦いで二上山城も落城した模様です。
雌岳の遺構ですが頂上の郭や帯郭跡が3つほど残っています。雄岳も登ろうとしましたが、さすがに力尽きて山道を降りてきました。リベンジしなくっちゃあ!
カテゴリー: 城・山城
大和上庄北城
近鉄生駒線の元山上口駅から東側にある丘を登ると老健施設があり、横の藪を入ると大和上庄北城があります。誰が造った城なのか記録などが残っておらず分かりませんが、この辺りを根城にしていた、曾歩々々(そぶそぶ)氏ではないかと考えられています。藪に入ると蜘蛛の巣がそこらへんにあるので、入口まではスーツ姿でいけますが、中に入るのはおすすめしません。
城館があったようで、空堀が見事に残っています。特に角のL字になっているところは見事です。城の西側は切岸になっていて断崖状態になっています。Googleマップで大和上庄北城跡で検索すると出てきます。この辺りには北城・中城・南城の三ヶ所がありましたが、現存しているのは北城だけになっています。
Googleマップで大和馬ヶ脊城を探す
JR王寺駅から南方向の高台にあるのが孝霊天皇陵。第7代目の天皇で欠史八代(実在しない天皇)の一人と考えられていますので、本当は誰の陵なんでしょうね。もっとも安康天皇陵のように本当は山城跡なのに天皇陵にしてしまった例もあるので、いいかげんなものです。
孝霊天皇陵は山の上にあるのですが、周りは住宅街となっています。ここにあったのが大和馬ヶ脊城。最近のGoogleマップはすごいですねえ。山城も出てくるようになっています。これで山城への踏破口まで表示してくれたら完璧なんですが、踏破口がないんで切岸を登ったり、藪を突っ切ることになります。
大和馬ヶ脊城は在地武士団(大和国人)である片岡氏(片岡城が本拠)が、松永久秀(信貴山城を本拠)と戦闘を繰り広げたと伝えられる“幻の砦”「馬ケ脊(せ)城跡」と言われています。改修の痕跡もあり、織田信長が信貴山に立て籠もる松永久秀攻めで再利用した可能性も言われています。
「【図解】近畿の城郭2」に大和馬ヶ脊城の単郭の縄張図が掲載されていました。王寺だから近いと思っていたら2008年に発掘調査され破壊されてしまっていました。500年も保存されてきた山城なのに、もったいないな~あ!
大和片岡城
JR王寺駅から和歌山線に乗り換えて一駅目が畠田駅。駅を降りて丘を登ると片岡城があります。中世の城では珍しく案内板まであります。堀切などが見事に残っています。
珍しく誰が築城したかもわかっていて片岡国春という人物。1550年に築いたようです。片岡氏は鎌倉時代から続く武士団で、太平記に大塔宮護良親王に付き従う九名の中に、赤松則佑とともに片岡八郎の名がでており、片岡氏の一人とみられています。
大和は筒井党と越智党との抗争のなどがあり、最終的に片岡氏は筒井方についていましたが、松永久秀に片岡谷を攻められ落城しています。
松永久秀の配下となった片岡城は大改修され、現在の遺構はこの時のもののようです。松永久秀が信貴山城に立て籠もり織田信長に反旗を翻しましたが、支城の片岡城は明智光秀勢の攻撃を受けて落城します。
御土居(上賀茂)
信長・六角氏同盟
先日、読売新聞に信長・六角同盟の新説が紹介されていました。
桶狭間合戦討死者書上という江戸時代に書かれた書状があり、このなかに今川方の戦死者が2,753人。織田方の死者が990人余りと書かれています。この織田方の死者に272人の近江・六角氏の援軍が含まれていたという記述があり、注目を集めています。
■六角氏
六角氏といえば佐々木氏の一族で、同じ一族である京極氏と争い、北近江が京極氏、南近江を六角氏がおさめることになります。この京極氏を追い落としたのが浅井氏。浅井氏の小谷城には京極丸があり、旧主である京極氏に由来します。
信長が足利義明を奉じて上洛する時、六角氏は信長に対抗します。信長に攻められて破れ、居城である観音寺城を立ち退きます。この観音寺城の横に後年、造られたのが安土城です。信長と六角氏はずっと争っていたのが定説でしたが、この書状の情報が本当なら桶狭間の戦いの時は同盟していたことになります。足利義昭は京都脱出後、一時期、六角氏にかくまわれていたので、この時に足利義昭を介して信長と六角氏が同盟を結んでいた可能性があります。
もし同盟が小牧山城築城あたりまで続いていると、小牧山城の三段の先進的な石垣はテクノクラート集団だった穴太衆を六角氏から借り受けて、実現したものかもしれません。
Googleマップで発掘中の伊坂城を発見
信長が焼いた枚岡城
全国に一宮があります。一宮とは、その地域で最も社格の高いとされる神社で大和国なら三輪神社、摂津国なら住吉神社になります。河内国の一宮が枚岡神社で、ウチの近くなので散歩コースにしています。枚岡神社は生駒山の山裾にあり、高低差がかなりありますので城には最適な土地だなと思っていたら城があったようです。
阪神高速東大阪線、東の端が水走出入口で、そのまま走ると第二阪奈になります。この地名の元になったのが水走氏。今は陸地ですが昔は大和川が流れ、古代河内湖の残りもあり水運が発達したところでした。
■信長が焼いた枚岡城
水走氏は河内国、大和国の一部(現在の東大阪市、大東市、八尾市、生駒市など)を支配する豪族で武士団でした。中臣氏と同流の平岡連の末裔と言われています。枚岡神社は中臣氏祖神となる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っており、代々、水走氏が枚岡神社の神職をつとめています。
水走系図に枚岡神社宮司だった水走左近有忠は信長の怒りをかい、信長は大軍をさしむけて”枚岡城”や有忠の屋敷を焼き、有忠は大和の筒井に去ったという記載があります。館城だと思いますが枚岡城があったんですねえ。
蒲生氏郷が築いた松坂城
昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング
平野環濠
大坂の古地図を見ると、必ずあるのが平野の文字。古代から栄えた集落です。坂上田村麻呂の次男である坂上広野麿が”薬子の変”の武功でこのあたりの土地を得て開発しました。広野麿の広野(ひろの)が平野(ひらの)という地名に転訛したと言われています。広野麿ですが、酒の飲み過ぎが原因で死んだといわれています。平野は500年間、宇治平等院の寺領でした。
戦国時代には7つの集落を集めて一つの郷とし、郷の周囲に町の周りに二重の濠と土居を巡らせ防御を整えて自治都市となりました。堺と同じ環濠自治都市です。堺と同様に織田信長から矢銭を要求され、最初は断っていましたが抵抗できず支払うことなります。環濠には13ヶ所の出入口が設けられ各地への街道に接続されていました。大坂の役では、平野に徳川秀忠の陣がおかれたこともあり、戦場となり町は焼け落ちましたが復興されました。
環濠は大正時代ぐらいまで残っていたようですが、昭和になって埋め立てられてしまいました。一部が復元されています。