チャム(津駅)にある別所書店で「津の城跡50選」という本が平積になっているのを発見、思わず買ってしまいました。最近、山城がブームとなりつつあるようで、先日は「山城歩き徹底ガイド」という雑誌が店頭に並んでいました。時代は”山城”なんですねえ。(笑)
「三重の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)ぐらいの範囲にしないと、売上は期待できないはずですが、よく津というニッチなエリアで本を出したものです。編集は津観光ガイドネット・山城調査プロジェクトチーム。出版は伊藤印刷出版部で、売っているのは伊藤印刷と別所書店3店(修正店、津駅チャム店、イオン津店)、津市観光協会だけの、けっこうレアものです。津にそれほど山城好きがいるとは思えないし、採算があうのかなあ。私は買ってしまいましたが。(笑)
津市は久居市や美杉村と市町村合併したため山岳地域も増え、100以上の城跡があります。有名なのは藤堂高虎の津城や若きお江や淀君がいた伊勢上野城ですが、他にもたくさんあり、そのなかから50の城跡が紹介されています。目次を見ると20ほどは行ったことがある城跡でした。
カテゴリー: 城・山城
名張城
昨日、名張商工会議所での相談が終わってから、名張の旧町をブラブラ。高台を登って名張陣屋へも行きましたが、とっくに閉館していました。戦国時代、この場所には名張城がありました。
■筒井時代の伊賀上野城
松永久秀と大和の覇権を争った筒井順慶が亡くなり、後継ぎがいなかったため一族の筒井定次が後継者になりました。大和郡山城を居城にしていましたが秀吉の弟である秀長が大和を支配するようになり、伊賀上野に国替えとなります。天正伊賀の乱が終わってから滝川雄利が作っていた砦を利用して伊賀上野城を築きます。この後、藤堂高虎が現在の伊賀上野城の縄張りにしま、筒井時代の天守台跡は今も残っています。とっても分かりにくい所にあり案内板も出ていませんので観光客は誰もいません。(笑)
■名張城
筒井定次が伊賀上野をおさめた時に重臣である松倉勝重が築いたのが名張城。藤堂高虎が伊賀をおさめるようになってから、一国一城令により廃城となります。高虎の養子だった藤堂高吉(丹羽長秀の息子)が名張を支配することになり、これが名張藤堂家でここに陣屋が作られ、現在も一部が残って公開されています。発掘調査で陣屋跡からは名張城の石垣などが発見されています。昔の堀跡などが今も旧町の水路などになっています。
堺台場跡
堺に台場があったことをご存じですか。
■台場とは
台場とは大砲を備えた防塁のことで、今の大浜公園(南海本線堺駅の近く)の場所に造られ、遺構も残っています。幕末、ペリーによる黒船来航から国防が意識され日本各地で台場整備がすすみます。長州藩では関門海峡に築いた台場から異国船に向かい攘夷実行を行い、馬関戦争を引き起こしています。
台場で有名なのが”お台場”にある台場公園。近くにはフジテレビや湾岸警察署があります。台場公園は東京湾上に造られた第三台場跡で、陣屋跡や弾薬庫跡が残っています。私の郷里の津には岩田川沿いに贄崎砲台、塔世川沿いに西浦砲台が造られ、贄崎砲台の土台が一部残っています。
■大阪に異国船が来訪
黒船によるペリー来航に引き続き、 今度は大阪・天保山沖にロシア使節プチャーチンが来航しました。京都に近い大阪港に異国船が来たことから朝廷では大騒ぎになります。朝廷の要望もあり江戸幕府は大阪湾各所に台場を築きかれ西宮砲台、和田岬砲台は当時のまま残っています。
■堺台場
堺砲台が造られたのが今の大浜公園がある場所で、彦根藩によって稜堡式城郭が造られました。大浜公園の半分ほどが城郭で、大砲8門が備えられました。当時の石垣が阪神高速湾岸線大浜ICの出入口南側と公園内の菖蒲園に残っています。単なる石垣なので大浜公園で遊んでいる人はそんなものがあったとはたぶん知らないでしょうねえ。
721段を登らないとたどりつけない多喜山城
鈎の陣へ行ったついでに近くにある多喜山城へ行ってきました。ところが頂上にある山城まで待っていたのは山道じゃなく721段の石段!
これで357メートルの頂上を目指します。石段は、ほぼ直線で山道をえっちら登るよりかは早いですが、さすがに足にこたえます。途中には休憩所が2ケ所ほど設けられていました。なんでも”ふるさと創生事業”を使って体力作りのために作ったそうです。藪をかきわける必要がないので便利なんですが、足にきますねえ。
多喜山城は草津線の手原駅から甲賀方面へ東海道をひたすら歩いた日向山にあります。日向山古墳と墓地の横に道があり、ここを入ると721段の石段が待っています。頂上まで登ると琵琶湖や近江富士などが見え、眺めはいいですね。
頂上には枡形虎口や土塁跡などが残っていました。それほど大きな城ではありませんが、虎口には石垣が積まれており、もとともあった山城を織田信長が支配するようになってから改良したようです。
戦国時代がはじまった鈎の陣
”応仁の乱”の発端は銀閣寺を造営した足利義政の後継者問題。
奥さんの日野富子との間に子供がいなかったので、弟でお坊さんになっていた足利義視を後継者に任命してさっさと引退、銀閣寺などを造営します。ところが日野富子との間に息子(足利義尚)が生まれてしまいます。
■応仁の乱が勃発
我が子を次期将軍にしたいという日野富子の思いから全国の守護や管領などが両派に分かれて応仁の乱が勃発してしまいます。船岡山城が戦場になったのもこの時です。将軍の権威が落ち、守護や守護代(守護の家来)が力をもつことで戦国時代に突入してしまいました。
■鈎(まがり)の陣
結局は足利義尚が第9代将軍となりますが、応仁の乱後の幕府運営はなかなか大変。近江守護・六角氏が将軍近臣の所領を押領するなどしていたため、足利義尚自身が六角氏討伐に乗り出します。この時、現在の栗東市に陣を構え六角氏に対峙しました。地名から”鈎(まがり)の陣”と呼ばれます。
ところが六角氏に味方した甲賀衆が山間部でゲリラ戦を展開し戦闘は膠着状態に陥ります。実はこれが忍び(忍者)が全国に知られるきっかけとなり、伊賀、甲賀といえば忍者の里と言われるようになります。足利義尚は鈎の陣中で死んでしまい、六角討伐は中断となってしまいます。
さて鈎の陣ですが、今の永正寺あたりで土塁などが残っています。草津線で草津駅から一駅目の手原駅に着く手前で右手に見えます。ここから戦国時代がはじまったんですねえ。
北の玄武 船岡山城
都を造る時に重要だったのが四神相応で、都を守る四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)がある土地に都を造る必要がありました。平安京にも四神相応があり、四神のうち北の玄武は朱雀大路の真北にある船岡山と言われています。
北京にある紫禁城の真北には景山公園(人口の山)があり、紫禁城を一望できます。平安京があった頃、船岡山に登ると同じように一望できたでしょうね。現在でも京都タワーなど京の街がしっかりと見えます。
船岡山は応仁の乱では、山城になっていました。西軍側の備前国守護・山名教之や丹後国守護・一色義直らが船岡山に築城し、東軍と戦います。それ以来、船岡山一帯を西軍の陣、”西陣”と呼ぶようになります。京都市内で山といえば船岡山ぐらいしかないので城が造られたのでしょう。
船岡山には、堀などの城跡が現在でも残っています。だいぶ埋もれてしまったので単なる窪地になっていますが、跡をたどることができます。曲輪跡は公園や織田信長を祀る建勲神社になっています。
京都の”いけず”を生んだ御土居
秀吉が京都の街を囲んで造った総構が御土居で、今でも一部が残っています。鷹峯の御土居はよく保存されており、以前にブラタモリでも取り上げられていました。
ヨーロッパなどの城壁都市のようなものですが石ではなく土塁で造られています。高さは5mほどで、これが22km以上も続いていました。御土居は防衛の意味もありましたが、鴨川などの氾濫から守る堤防にもなっていました。
知的生産の技術研究会・関西で講演してもらった井上章一氏の「京都ぎらい」(朝日新書)が関西圏で異様に売れているそうですが、この本のなかに京都人がもつ”いけず”な洛中意識が出てきます。
■洛中、洛外
嵯峨といえば観光地で有名ですが、ここは洛中の人にとっては京都とはみなされていません。同じように京都橘大学がある山科も京都ではありません。大学があるのは京都市山科区ですが、なんせ東山を超えた向こう側にありますから京都とは認めてもらえません。
なんでこんなことになったかという一因が秀吉が造った御土居です。御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになったことから京都人の”いけず”な意識が形成されていったようです。
■洛とは
この「洛」はもともと洛陽からきており、平安京を造った時に右京(西側)を長安、左京(東側)を洛陽と呼びました。やがて湿地帯が多かった右京が廃れ、京都をさす言葉として洛陽が残りました。信長の上洛の洛もこの洛陽からきています。
時鐘堂が残る和歌山城
和歌山紀行シリーズです。(笑) 太田城の次は和歌山城へ。
和歌山城天守は国宝指定されていましたが、空襲で焼失してしまいます。石垣や土塁以外で当時のまま城内に残っているのは岡口門と追廻門だけとなりました。和歌山城では復旧を進めていて、2006年には西の丸庭園の御橋廊下が当時の図面を元に再現され、実際に通ることができます。他の城では見られない建造物で、かなり傾斜していて床がすべらない構造で歩くと痛いです。
久しぶりの和歌山城でしたが、敷地内にある和歌山市役所南別館2階に和歌山城歴史資料館ができていました。天守閣と同じチケットで入場できます。12分間にわたり江戸時代の和歌山城をCGで再現したビデオが放映されていて、見応えがありますね。また和歌山城が出来る前の雑賀衆の歴史資料も展示されていました。もちろん太田城の展示もありました。
城内の門以外に城から道をはさんだ岡山の上に時鐘堂が現存しています。作ったのは、あの徳川吉宗。鐘で時刻を知らせていました。この岡山には戦国時代に岡山城という山城がありましたが残念ながら遺構は残っていません。
日本三大水攻めの太田城
日曜日、ACT2020(パソコン通信時代からの中小企業診断士の集まり)は10時スタートでしたので、朝から太田城へ出かけてきました。
和歌山と言えば紀州藩の和歌山城が有名ですが、もともとは紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。平定する前にあったのが太田城でJR和歌山駅のすぐ東側にあり、来迎寺や玄通寺あたりが本郭でした。残念ながら城跡は残っていません。
小牧・長久手の合戦では大阪や和歌山も戦場となり、秀吉は太田衆、雑賀衆、根来衆の連合軍と戦っていました。太田城でも合戦が行われましたが、城はなかなか落ちません。そこで秀吉が行ったのが水攻め。備中高松城、忍城(「のぼうの城」で有名に)に並び三大水攻めの一つと言われています。
この時、秀吉が造った堤の一部が奇跡的に残っています。場所は”きのくに信用金庫 出水支店”近くで6メートルほどの高さの土塁が残っていました。昭和のはじめの頃には20ケ所ほど残っていましたが、今はここだけになってしまいました。
残っていてもタマ電車には勝てないので観光資源にはならないでしょうね。
至れり尽くせりの佐和山城
山城へ行くには事前準備が大変です。地図はもちろんのこと、城へ登る目印について記載された文章はないかを探します。直登しかないと書いてあると山道はあきらめるしかないですね。もちろん縄張図(曲輪や堀切の位置などを書いた地図)は必須です。
彦根にある佐和山城へ行ってきました。彦根駅からずっと登城口まで案内板があり、迷うことはありません。しかも登城口にはガイドがいて、山城マップを無料で配布しています。マップには縄張り図が写真入りで紹介され、いやあ至れり尽くせりの山城ですねえ。また山城で他の人に会うことはまずないのですが、さすがに佐和城!たくさんの人が登っていました。
■佐和山城
佐和山城は石田三成の城として有名ですが、もともとは浅井の方である磯野員昌の城で、信長が支配するようになってからは丹羽長秀が永らく城主を勤めていました。やがて石田三成が城主となり、失脚してからは佐和山城で家康との戦いを構想。上杉攻めの途中に佐和山城に立ち寄った大谷吉継を説得し関ヶ原の戦いを起こした話は有名です。
当時の落書には「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれました。嶋左近は平群の出身で、近鉄生駒線の竜田川駅近くにある西宮城と山城である椿井城が嶋氏の城になっています。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた後、井伊直政が佐和山城に入りました。来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎が育てたのが徳川四天王と言われた井伊直政です。新たに彦根城を築き佐和山城から移りますが、島津の敵中突破を阻止しようとして受けた傷がもとで亡くなってしまいます。