「春の坂道」の舞台 柳生藩家老屋敷

柳生藩家老屋敷
柳生藩陣屋の近くにあるのが柳生藩家老屋敷。国家老・小山田主鈴の邸宅で江戸時代の武家屋敷がそのまま残っています。
明治まで子孫が住んでいましたが、その後、売られ、やがて手に入れたのが作家・山岡荘八。全26巻の徳川家康などで有名な作家です。ここで「春の坂道」の構想をねりました。
本が発売され、1971年にはNHKの大河ドラマとなりました。柳生但馬守宗矩(中村錦之助)、柳生十兵衛(原田芳雄)、柳生石舟斎(芥川比呂志)、徳川家康(山村聡)という俳優陣でした。柳生でロケが行われた写真の展示がありました。
知り合いの鎌田さん情報によれば、大河ドラマ「春の坂道」は唯一1話も映像がNHKに残っていない大河ドラマで、たまたま視聴者が録画していた最終回がDVDとして発売されたそうです。

柳生陣屋跡

柳生陣屋跡
柳生但馬守、柳生十兵衛といえば徳川将軍の剣道指南役で、柳生新陰流で有名です。
”新”という名前がついているので、もともとは陰流がありました。伊勢の五ヶ所浦出身の愛洲移香斎が編み出した流派です。柳生石舟斎(但馬守)が戦国時代の人を殺す剣法ではなく、人を活かす活人剣として発展させ、また無刀取りでも有名となりました。
柳生石舟斎は筒井氏に敗れ、柳生城などが落城し筒井順慶に従うことになりますが、やがて筒井を追い出して大和を支配した松永久秀の配下となります。ところが勢力を盛り返していた筒井純慶と松永久秀が辰市城でぶつかり松永久秀は敗退します。この時、柳生は久秀側で戦います。のちに筒井とは和睦しますが柳生の里に逼塞することになります。逼塞している時に新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい新陰流の奥意を極めることになります。自身も鍛錬していた家康との縁ができ、将軍指南役になっていきます。
柳生城のすぐ近くの丘の上にできたのが柳生陣屋。柳生石舟斎の子である柳生宗矩が築きました。ここが柳生藩の政庁となります。横は川が流れ、高台にあり城にはもってこいの立地でした。

柳生古城

柳生古城
柳生城から北側に少し歩いたところに古城山があります。城山という名前の通りに、こちらにも山城がありました。バス停の背後から剣塚に向かう山道を歩くと城跡にたどりつけます。剣塚があるところが主郭となっています。
柳生古城もいつできたのか分かりません。ひょっとすると柳生城と同じ時期に造ったのかもしれません。奈良から月ヶ瀬に抜ける街道を柳生城と挟撃する形になっています。
柳生城と違い、藪もなく整備されているので堀切などがよく分かります。手前の堀切はL字型になっていて食違虎口のようになっているのが特徴です。ただ北側は二重堀切で防御を固めていますが、ちょっと北へ行くと直ぐに山頂になっていて、なんでここに郭をつくらなかったのかが不思議です。北側の笠置方面からの攻撃はあまり想定していなかったようです。

柳生城

柳生城
今日は原稿書きの予備日だったんですが、思ったより早く原稿があがったので、奈良からバスに乗って柳生へ出かけてきました。
柳生氏の菩提寺である芳徳禅寺の東南の丘にあるのが柳生城。
ただ案内も何もないので登る道が分かりません。とりあえず坂を登っていくと堀切と曲輪の一つを発見。主となる曲輪は8メートルほど上がったところのようです。仕方ないので切岸、つまり崖を直登します。けっこう広い曲輪がありました。登った反対側に虎口があり、そこからだと直登しなくても、よかったのですが後の祭りです。
芳徳禅寺の前に石舟斎塁城跡の碑があります。柳生石舟斎とは柳生宗厳のことです。高台にある芳徳禅寺も曲輪の一つだったようです。
城が造られたのはいつか分かりませんが、天文13年(1544年)に筒井氏の大軍に攻められ、落城したとあるので、それ以前に城はあったのでしょう。柳生家巌・宗巌父子は筒井氏に降ることになります。

客坊城

客坊城
「応仁の乱」(中公新書)が話題になっています。
足利義政が弟の義視を後継者にしたところ、日野富子が子供(義尚)を生んだことで後継者争いに発展。それぞれ細川勝元と山名宗全がくっついて、応仁の乱が勃発したというのが一般的なイメージなんですが、そんな単純なものでは途中でクーデターが起ったりして波乱万丈な戦いでした。
■客坊城
京都だけでなく大和や河内国も戦乱に巻き込まれ若江城、天王寺城、八尾城と共に客坊城が舞台になりました。客坊って、ウチの近くの客坊町?
客坊城では畠山政長方(東軍)が守っていましたが、西軍の畠山義就に攻められて陥落したと大乗院寺社雑事記に記載されています。というわけで自転車に乗って出かけてきました。生駒山の山麓を登った東大阪市立郷土博物館 の北側に昔、客坊寺があり、そこが客坊城でした。遺構はなにも残っていませんが、眺めがよく大阪平野が一望できます。
西側を見ると若江城や天王寺城がよく見えます。こんなところも応仁の乱の戦場になったんですなあ。

笠置山城

笠置山城
鎌倉幕府打倒計画が漏れ、危なくなった後醍醐天皇は京都を脱出。三種の神器を持って挙兵したのが笠置山です。
ところが圧倒的な鎌倉幕府軍に囲まれ、笠置山は落城。後醍醐天皇は捕らえら隠岐に流されます。その間に楠木正成や赤松円心などの反幕勢力が勃興し、隠岐を脱出した後醍醐天皇と合流。足利尊氏、新田義貞を巻き込んで南北朝時代へ突入していきます。
全ての発端となったのが笠置山。ICカードが使えないJR笠置駅からすぐ見える山で、頂上に寺があり、ここが山城になっていました。あまり山城の遺構は残っていませんが稲荷神社や六角堂跡付近は高台で郭になっていました。ところどころに竪堀もあります。それはよいのですが笠置寺の住職が”猿が4匹、山の中を走りまわっているので気をつけて”と言っておりました。どう気をつけたらいいんだか。(笑)
笠置山の北、東、西は急峻な崖になっており、南側(柳生方面)は少しなだらかになっています。東海自然歩道から一歩入ると郭が5つほど並んでいました。こちらは戦国時代に造られたもののようです。

明石城

明石城
JR明石駅の目の前に見えるのが明石城。2つの櫓が見えるお城です。
築城したのは小笠原忠真で、最初は高山右近の船上城に入りましたが、新たに築城するよう徳川秀忠に言われ明石城を造ります。船上城から使える部材を運び、現存している巽櫓は船上城の移築櫓といわれています。
4つの櫓と天守閣がある豪勢な本丸でしたが、現在残っているのは2つの櫓です。ただ天守閣は結局、建てられませんでした。築城と並行して城下町の町割りが実施されます。小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したといわれています。

船上城(明石)

船上城
キリシタン大名・高山右近といえば高槻城が有名ですが、高槻の後に築城したのが明石の船上城(ふなげじょう)で明石川の河口に造られた水城です。
吉が関白になった時に全国的に国替えが行われ、高山右近は高槻から明石に国替えとなりました。明石は目の前が淡路島で現在は明石海峡大橋がかかるぐらい狭いところなので瀬戸内航路を監視するにはもってこいの場所です。当時は堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていました。
船上城ですが堀跡が小さな水路として残っているだけで、住宅地に埋没してしまいました。主郭のあったところだけは、こんもりとして丘になっています。近くの児童公園に船上城の説明版がありました。一国一城令が出て明石城が造られる時に船上城の部材がリサイクルで使われました。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓といわれています。
高山右近ですが、この船上城時代にバテレン追放令が出ます。
その後、右近は天正15年(1587年)に発令されたによって船上城を追放されてしまった。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地などを捨てることを選んで、世間を驚かせます。

小谷城

小谷城
小谷城といっても近江にある有名な浅井長政の小谷城ではなく堺にある小谷城です。
泉北高速鉄道の泉が丘駅にあるので周辺は住宅街です。ここに鎌倉時代から続く山城跡があり、平政有が城を築いたといわれています。
今や住宅街のど真ん中なんですが、阪和第一泉北病院を作る時に、病院が山城跡を残すことを決定。英断ですねえ!というわけで病院の横から階段を登ると小谷城の主郭跡にたどりつきます。住宅街なんでスーツ姿で登れる山城です。
■平氏一門・小谷氏
鎌倉時代の終わりになると、楠正成の軍に加わって南朝方で戦っていました。小谷城は千早・赤坂から狼煙火の中継点として使われていたようです。
やがて織田信長の根来攻めの時に、あたり一帯が根来側だったため攻められ落城してしまいます。子孫は小谷氏として郷士となり、大坂の陣では家康側で戦っていました。

岡城(畑城)

岡城
大津皇子の墓が二上山の雄岳にありますが、ちょうど雄岳に登る登山口近くの尾根にあるのが岡城(畑城)です。登山口から山城に入る道がなく、仕方なく切岸、早くいえば崖を登って先端の曲輪に入りました。帰りに給水タンクの裏側から登れたことを発見します。
尾根沿いに曲輪がずっと続いており、曲輪と曲輪の間には堀切もあります。写真は堀切の一つですが、遠くからみたら単なる土の塊ですね。別の尾根にも曲輪が続いているので、かなり大きな山城ですが、曲輪のなかは藪でした。
■国人・岡氏
山城では珍しく造った人が判明しており、国人・岡氏の山城です。大和の地には守護がおらず興福寺が支配し、国人が属していましたが一乗院傘下の筒井氏・越智氏、大乗院傘下の十市氏・古市氏に分かれて争われていました。岡氏は応仁の乱では越智方に属していたようです。
戦国時代に入ると松永久秀に属することになります。曲輪の端から見てみたら、すぐ先に信貴山城がみえますので、松永久秀に属さないわけにはいかないでしょう。松永久秀が信長に滅ぼされる前に信長に寝返りますが、許されず焼き討ちされたようです。