足利義昭も訪れたかもしれない越水城

越水城
西宮・廣田神社の南側にあったのが越水城。今も城山や、麓には城ケ堀町という地名が残っています。
近くを西国街道が通っており、交通の要衝でした。瓦林城や芦屋の鷹尾城を造った瓦林正頼が本城として越水城を造り、瓦林城を支城にしたようです。城跡は残っておらず現在は住宅街になっていますが、けっこうきつい急坂。ここに郭を配置したのでしょう。こんなところを自転車で登るのはめちゃくちゃ大変。瀬戸内海を見下ろせる高台で、いかにも空堀だったという跡が道路に残っています。 こんな住宅街をアチコチ見ながら歩いていますので、相当に怪しいオジサンです。(笑)
交通の要衝だったので、よく戦いに巻き込まれ、城は取ったり、取られたり。三好長慶が頭角をあらわすと越水城は三好長慶の拠点になります。三好長慶の地盤である阿波と京都を結ぶ途中にありました。三好長慶は高槻にある芥川山城を新しい拠点にし、信長より先に天下布武を果たします。13代将軍・足利義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害され、擁立された足利義栄は越水城に入城し、やがて摂津富田に移って14代将軍に就任します。
ところが足利義昭を擁した織田信長が岐阜を出立。近江の六角氏をけちらして摂津に進軍してきます。松永久秀は信長につき、三好三人衆勢は四国へと追っ払われます。越水城は義昭家臣の和田惟政が守ることになりました。義昭自身も入城したとの説があります。その後も越水城は戦乱に巻き込まれ、さすがに嫌気がさした住人が信長に頼んで廃城にしてもらい、これが西宮発展につながったようです。

瓦林城

瓦林城
午後から尼崎で仕事でしたので、少し早い目に出て西宮へ。
阪急・西宮北口から線路沿いに15分ほど歩くと武庫川の手前に日野神社があります。ここが瓦林城跡。阪急の線路のすぐ脇です。
城跡は何も残っていませんが昭和初期まで周辺に陣場、城ノ前、城ノ東などの字名が残っていたので、このあたりが城跡だったことは間違いないようです。境内の林が戦国時代から続く原生林になっています。
赤松氏の家臣である貴志義氏がこの城で戦った記録があり鎌倉時代末期には城があったようです。貴志氏は現在の三田市にあった貴志荘出身の武将になります。
やがて菅原道真を祖とする河原林氏(瓦林氏)が三河から移住してきました。河原林氏は足利尊氏の家臣でいた。河原林氏は、この瓦林城と近くにある越水城、芦屋にある高尾城、尼崎の富松城のあたりを支配していました。
日野神社は瓦林城の鎮守として城内に作られたようです。そこへ織田信長が摂津に進攻してきます。河原林氏は織田方を選びましたが、信長と敵対する阿波の三好勢に攻められ瓦林城は落城してしまいます。

家康のお祖父さんが殺された守山城

守山城
名鉄瀬戸線・矢田駅近くにあるのが守山城。矢田川沿いの高台に造られた城です。川の向こうにはナゴヤドームが見えます。城跡のほとんどは現在、宝勝寺境内になっていますが、郭の一部や空堀跡が見事に残っています。郭の上に立つと周りが一望できます。
三河を統一した松平清康(家康のお祖父さん)が尾張に進軍。織田信秀(信長のお父さん)の弟・信光が守る守山城を攻めます。もっとも信光とは話ができていて戦わず開城したという説もあります。松平清康は、この守山の陣の最中に家臣に殺害されてしまいます。この時に使われた刀が村正だったという説があります。25歳の若さでした。もっともなぜ殺されたのか詳しいことはよく分かっていません。これが守山崩れと後世、呼ばれるようになります。
松平軍は三河へ引き返しましたが、長男の松平広忠(家康のお父さん)はまだ13歳。弱体化したため、松平氏は今川氏の傘下に入ることになります。よくテレビや映画で今川の人質になった家康を三河武士が田を耕しながら待ちわびるシーンにつながります。(あのイメージは江戸時代に作られたものです)
家康のお父さんである松平広忠も24歳でなくなっています。死因はよく分かっていません。家康がなぜ、あんなに健康に気を使ったのは2代続けて若死にだったからでしょう。守山城ですが、桶狭間の戦いで織田信長が勝利し、今川の脅威もなくなり廃城となりました。

伊勢・金井城

伊勢・金井城
金曜日、桑名で午後から仕事でしたので、その前に西桑名駅から軽便列車の北勢線に30分ほど乗ると大泉駅へ。
場所はいなべ市員弁町になります。駅からちょっと歩くと北金井という地になり、ここに金井城跡があります。いろいろな山城に行きましたが、城用の駐車場があるのを見たのは始めて。手製の看板ですので、地元の人が作ったのでしょう。いつも城の入口を探すのが大変なんですが、とっても分かりやすくなっています。
看板近くに城の入口があり土橋を渡って城の中に入れます。主郭の中はヤブだらけですが、主郭を巡っている土塁を巡ることができ、ところどころに横矢がかかる張り出しがあり、なかなか見応えがあります。だた、スーツで行くのは、あまりおすすめしません。(笑)
金井城を造ったのは種付氏で、種付氏は近江国神崎郡種付郷が発祥です。近江守護だった佐々木が六角氏と京極に別れますが、近江南部を支配した六角氏の系統です。八風街道経由で八日市へ行けますし、鞍掛峠越えで多賀大社(彦根)へ抜けられました。
金井城は境目の城だったので美濃国守護の土岐氏とも2度ほど戦い、しりぞけました。最終的には織田信長に攻められ、滅びます。
→ 金井城の動画

環濠集落 大塚遺跡

  • 大塚遺跡
    先日、行った新横浜の大塚遺跡。
    横浜・地下鉄ブール―ライン線のセンター北駅近くにあります。大塚遺跡は弥生時代中期の遺跡で、環濠や竪穴住居などが復元されています。
    環濠集掠と言えば、まあ早い話が城の原形です。当時の環濠は土塁の内側に空堀を作っていて、戦国時代の城とは反対。土塁の外側に空堀を作った方が防御力が高まるはずですが、なんでこんな形にしたんですかねえ。ひょっとすると水堀にして灌漑用か非常用の水を確保したかもしれません。
    戦国時代、京都の西岡にあった物集女城は水堀になっていますが、村の灌漑に使われていた例があります。大塚遺跡は茅ヶ崎城址公園から、ちょっと行ったところにあり、同じような丘ですが戦国時代の城跡にはなっていません。大塚遺跡がある丘の上はけっこう広いので、戦国時代の城には不向きだったのかもしれません。

柴田勝家が生まれた下社城

下社城
織田信長の宿老である柴田勝家。
映画やドラマでは必ず出てきて、直情で猪突猛進な姿で描かれます。最後は秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いでは前田利家の裏切りにより敗退。しかし恨みがましいことを利家には言わず、北の庄城でお市の方と共に自刃します。その柴田勝家が生まれたのが下社城。
名古屋地下鉄・東西線の上社駅を降りて、高級住宅街などを抜け、20分ほど歩くと明徳寺があり、かなりの高台になっています。城の遺構は残っていませんが柴田勝家の生まれた下社城跡です。寺からは周囲がよく見え城跡ということがよく分かります。勝家は織田信秀(信長のお父さん)の家臣でしたが、信秀が亡くなると織田信行(信長の兄弟)の家老となります。
織田信秀が最後に住んだ末森城は信行が継承しました。勝家の下社城(上社駅)から末森城(本山駅)までは4駅と近いので、勝家は下社城から末森城まで通っていたのでしょう。やがて信行は信長と対立して自刃することになります。
勝家は信長に仕えることになりますが、信長の清州城は名古屋駅の向こうですので、この時は清洲の屋敷に住んでいたのでしょう。上社駅近くには上社城跡、一色城跡などが残っています。今は2つとも寺になっています。

茅ヶ崎城跡

茅ヶ崎城
新横浜駅から地下鉄ブルーラインに乗ると、北新横浜駅を過ぎたあたりから地上に出て4つ目の駅がセンター南駅。センター南駅の東側にこんもりとした森が見えますが、ここが茅ヶ崎城跡。今は城址公園になっていて、近くの交差点の名前も茅ヶ崎城址入口になっています。
入口は北側に2ケ所あり、空堀、郭、土塁などが良好な状態で残っています。要所要所には丁寧な説明看板があり、これだけ整備されているのは、すごいですね。山城といえば藪をかきわけ、かきわけ土塁の中に入り、どうやらここらへんが主郭のようだと探しまわるのが定番ですが、茅ヶ崎城では看板で一目瞭然です。
城を造ったのは誰か分かりませんが、室町時代に相模・南武蔵を支配した上杉氏、その後を支配した後北条氏が関わっていたのは間違いないようです。小机城とは3.5km離れており、櫓から小机城が見えるので、小机城と一体で運用されたのでしょう。郭は西郭、北郭、中郭、東郭があり、帯郭も残っています。城址跡は公園になっていますので中郭ではキャッチボールや散歩している人がいましたが、城巡りをしている人はいませんでしたね。もったいないなあ。
写真の左側は中郭の土塁で真ん中の道が堀跡です。右の土塁が西郭になります。
横浜の古い地名は武蔵国都筑郡で、戦国時代は44の城がありましたが、遺構が確認されているのが寺尾城・茅ヶ崎城・小机城・篠原城の4城。とりあえず茅ヶ崎城・小机城・篠原城の3城を巡ることができました。

篠原城(金子城)

篠原城
小机城跡を訪れた後、新横浜駅に戻り、次に目指したのが篠原城(金子城)。
新横浜駅のホームから見える小山が城山です。城山という名前がついている通り、戦国時代のお城がありました。今は住宅街になっていますが、頂上部分などには土塁などが残っているそうです。ただし金網の向こうで保護のため立入禁止になっています。金網ごしに空堀が見えました。城跡なので、けっこう急坂の住宅街になっています。
2011年に一部、発掘調査が行われ説明版などが整備されていました。金網をよく見ると3月7日(土)に城跡を見学できる見学会を先着30名で行うと書かれていました。城に行ったのは先週の土曜日でしたが、うーん、来週はさすがに来れないなと断念。
篠原城が最初に造られたのは15世紀で、やがて後北条氏が支配するようになります。城を守っていたのは小机衆の金子氏だったようです。小机城からそう離れていないので、一帯で運用していたのでしょうね。
しかし新幹線と横浜線に囲まれた都会の一角に戦国時代の城が残ったというのはすごいですね。目の前には新横浜プリンスホテルのタワーがあります。

篠原城(金子城)

小机城跡を訪れた後、新横浜駅に戻り、次に目指したのが篠原城(金子城)。
新横浜駅のホームから見える小山が城山です。城山という名前がついている通り、戦国時代のお城がありました。今は住宅街になっていますが、頂上部分などには土塁などが残っているそうです。ただし金網の向こうで保護のため立入禁止になっています。金網ごしに空堀が見えました。城跡なので、けっこう急坂の住宅街になっています。
2011年に一部、発掘調査が行われ説明版などが整備されていました。金網をよく見ると3月7日(土)に城跡を見学できる見学会を先着30名で行うと書かれていました。城に行ったのは先週の土曜日でしたが、うーん、来週はさすがに来れないなと断念。
篠原城が最初に造られたのは15世紀で、やがて後北条氏が支配するようになります。城を守っていたのは小机衆の金子氏だったようです。小机城からそう離れていないので、一帯で運用していたのでしょうね。
しかし新幹線と横浜線に囲まれた都会の一角に戦国時代の城が残ったというのはすごいですね。目の前には新横浜プリンスホテルのタワーがあります。

小机城(新横浜)

小机城
新横浜駅から日産スタジアムを超えて歩くと小机という土地があります。
小机に丘があり、ここが小机城。もともとは関東管領上杉氏の城でしたが、家臣が反乱を起こして籠城しました。この小机城を攻撃したのが江戸城を造った太田道灌。見事に落城させました。その後は廃城になったそうですが、やがて後北条氏の城となります。
後北条氏の家臣団に小机衆がいました。昔、読んだ後北条氏を扱った本に本領ではない遠くの城で小机衆が城番を勤めるという記述があり、兵農分離や方面軍(北陸の柴田勝家、丹波の明智光秀、中国の羽柴秀吉、関東の滝川一益)が信長の専売特許のように言われますが、そんなことはなく後北条氏でもやっていたという内容で、妙に印象に残っています。
昔、読んだ本に出てきた小机衆の城が、横浜の都会に残っているんですね。城の西側は道路などで破壊されていますが、中心部は小机城址市民の森として整備されていて、大きな空堀や郭跡などが見事に残っています。郭の一つは、ほぼ四角形で野球グラウンドになっていました。
山城好きは増えているようで、小机城に行くと、せっせと郭跡を歩いているオジサンがおりました。もっとも、こっちもオジサンなんですが(笑)、山城跡で人に会うことは、ほぼないので、なかなか新鮮でした。