小机城(新横浜)

小机城
新横浜駅から日産スタジアムを超えて歩くと小机という土地があります。
小机に丘があり、ここが小机城。もともとは関東管領上杉氏の城でしたが、家臣が反乱を起こして籠城しました。この小机城を攻撃したのが江戸城を造った太田道灌。見事に落城させました。その後は廃城になったそうですが、やがて後北条氏の城となります。
後北条氏の家臣団に小机衆がいました。昔、読んだ後北条氏を扱った本に本領ではない遠くの城で小机衆が城番を勤めるという記述があり、兵農分離や方面軍(北陸の柴田勝家、丹波の明智光秀、中国の羽柴秀吉、関東の滝川一益)が信長の専売特許のように言われますが、そんなことはなく後北条氏でもやっていたという内容で、妙に印象に残っています。
昔、読んだ本に出てきた小机衆の城が、横浜の都会に残っているんですね。城の西側は道路などで破壊されていますが、中心部は小机城址市民の森として整備されていて、大きな空堀や郭跡などが見事に残っています。郭の一つは、ほぼ四角形で野球グラウンドになっていました。
山城好きは増えているようで、小机城に行くと、せっせと郭跡を歩いているオジサンがおりました。もっとも、こっちもオジサンなんですが(笑)、山城跡で人に会うことは、ほぼないので、なかなか新鮮でした。

矢田城跡

矢田城
桑名商工会議所でのセミナー前に矢田城跡に行ってきました。
桑名駅から少し行ったところに三岐鉄道・北勢線の馬道駅があります。この駅の向こうに見えているのが走井山公園で、ここが矢田城跡。土塁などは残っていませんが、三段の郭跡が広場になっています。伊勢湾が見えて眺めがよいですね。境内にあるお菊稲荷神社が一段高くなったところにあり、櫓があったようです。
この矢田城の麓にあったのが刀鍛冶・村正の屋敷。水が走り出すほどの井戸があったことで走井山という名前になり、刀鍛冶に水はかかせなかったので村正の屋敷があったようです。家康が怖れたという妖刀・村正ですが、これは単なる伝説のようです。
矢田城は北畠の城でしたが、滝川一益の伊勢平定で落城し、長島一向一揆攻めに使われました。近くに愛宕山城もありましたが、こっちは住宅地になってしまいました。

七松城 荒木村重の舞台

七松城
尼崎のJR立花駅近く商店街を向けた住宅地にあるのが七松八幡神社。境内には「荒木村重ゆかりの地」という幟がひるがえっています。
昨年、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、信長に精神的に追い詰められた荒木村重が謀反したように描かれていましたが、戦国時代に領主の独断専行だけで事をすすめられるわけがなく、中川清秀や高山右近など摂津衆の突き上げと十分に勝機があったため、摂津衆の総意のもとでの信長に対する謀反だったのでしょう。
ところが中川清秀や高山右近をいち早く荒木村重から遺脱させ取り込んでしまった信長が一枚上手でした。信長によって伊丹にある有岡城と有岡城の支城である尼崎城攻めが始まります。尼崎城攻めの付城として織田信忠が作ったのが七松城。城は現在の七松八幡神社一帯にありました。奈良などに多い、環濠型の城で近くの住宅地には水路が残っています。
■荒木村重の家臣などを処刑
荒木村重が神戸の花隈城へ、毛利の後詰を依頼するために有岡城から脱出しますが、その後、落城した有岡城の家臣や家族が処刑されたのが、この七松城。七松八幡神社境内に慰霊碑が建っています。
荒木村重につき従い花隈城に向かった荒木五郎右衛門という武将が、自分の妻が処刑されるのが分かり、身代りになると明智光秀に申し出ましたが、信長は許さず夫婦ともども処刑されたと信長公記に出てきます。七松八幡神社は商店街のすぐ近くにあり、住人は400年ほど前にそんな歴史があったとは、ほとんど知らないでしょうね。

富松城

富松城
今日は午後から尼崎で仕事でしたので少し早い目に出て富松城へ。
富松城は阪急・神戸線の武庫之荘駅から少し歩いた交差点のすぐ横にあります。阪神地域の古称を武庫と言いますが、ヤマト朝廷から見て大阪湾の向こう側にある山を「むこうやま」と呼んだ説と神宮皇后が武器をおさめた武庫に由来するという説があります。
住宅地のど真ん中に富松城の土塁の一部と堀跡が残っています。住民の方々がしっかり保存しており、近くのバス停は富松城跡。交差点の名前も富松城跡になっています。
富松城は伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、たびたび戦火に見舞われています。城主はころころと変わり、細川高国やら三好長慶など戦国時代の中心地でした。

多治見国長邸

多治見国長邸
多治見にある「ぎんざ商店街」の中間に多治見国長邸跡(多治見城)があります。
といっても碑が建っているだけで、多治見国長は土岐氏の流れを組む一族でした。建武の新政って歴史で習いましたが、あの前に後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加。
後醍醐天皇側近の日野資朝が諸国をめぐって倒幕を呼びかけました。これに呼応して国長は京都に入りますが、企てが六波羅探題に漏れ、六波羅探題の急襲を受け、国長は奮戦しましたが破れ自害します。日野資朝は佐渡に流され、後醍醐天皇は釈明書を鎌倉に提出し、とりあえず不問となります。(正中の変)
鎌倉幕府を倒した楠正成、足利尊氏、新田義貞らはすぐに名前が出てきますが、それ以前にこんな武将がいたんですね。
多治見国長は多治見市では今も人気があるようで、「多治見まつり」の武者行列では、主役の扱いを受けています。また市内を流れる土岐川にかかる橋の名前も国長橋になっています。

美濃池田城(多治見)

池田不動
昨日、多治見まで企業相談に行っておりましたが、少し早い目に行って美濃池田城に登ってきました。
多治見市池田町の池田不動と池田稲荷神社がある場所が美濃池田城跡です。土塁などは残っていません。山の上まで車道が続いていますのでスーツ姿で登れる山城です。
裏山に登ると小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興と池田元助(長男)の墓標があります。池田恒興は恒興の母が信長の乳母だったので乳兄弟であり側近でした。本能寺の変の後の清州会議でもメンバーの一人です。他のメンバーは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉。
小牧・長久手の合戦では秀吉方として家康と戦いましたが、こう着状態が続くため、岡崎に奇襲をかけようと秀吉に進言して軍を進めます。ところが家康に見破られえ長久手で襲われ、戦死してしまいます。池田恒興は美濃の池田町の出身という説があり、それで墓標が建てられたんですかねえ。池田家は次男の輝政が継ぎ、播磨を領した時に、修復工事がまもなく終わる姫路城を造りました。
ネットで美濃池田城を調べると遺構はないとなっていたのですが、あきらめがわるく裏山に登ったりしていました。帯郭かなと思えるところもありましたが、不確か。ところが稲荷神社の脇から登れるところを見つけ、上がってみると、まあまあ大きい郭跡があり、しかも帯郭までありました。今まで来たマニアは見逃したのかなあ。

家から90分で登れる山城(鷲尾山城)

鷲尾山興法寺
東大阪コミュニティニュース「ふれあい東大阪」に地名の連載記事があり、今回は上石切の記事。
■鷲尾山興法寺
読んでいると生駒山中腹にある鷲尾山興法寺が南北朝時代に南朝側の城砦になっていて楠木氏や水走氏がゲリラ戦を展開していたとあります。四条畷の戦いでは足利軍の高師直に焼かれてしまいます寺を復興したのが若江城を築いた畠山基国。南朝勢力圏の一番北にあった城でした。
家の近くに山城があったんだ!
と登ってきました。まずは石切神社にお参りして参道を通って上之社へ。ここから川沿いの細い道を登っていくとやがてハイキングコースになります。
生駒山から降りてくるハイカーと行き交うと、こちらは息も絶え絶えで登っているので
「頂上まで行きなさるのか?」
「いや途中の寺までです」
「じゃあ、もう少しがんばれば着きまっせ」
「おおきに」
■鷲尾山城
山城を見に行くというと奇異な目で見られますので、とりあえず寺が目的と答えます(笑)寺は山の中腹にあると記事にありましたが、ほとんど頂上近くにありました。家から歩いて90分。確かに城砦になるような寺でした。
寺の裏山に登る道があり、途中から山に入ってみると見事な土塁や堀切跡のようなものがありました。ネットで城跡について調べましたが、この情報は出てきません。どう見ても土塁と堀切なんですがねえ違うのかなあ。こりゃ東大阪の発掘資料などにあたってみないといけませんなあ。

スーツで登れる筒井順慶陣城(名張)

筒井順慶陣城
名張川の北側にある山を切り開いてできた住宅地が梅ヶ丘。けっこうな高台になっていて、梅ヶ丘の住宅地から山に分け入ると山城「短野(みじかの)城」が残っています。山道は伐採されていて藪がほとんどなく、スーツ姿でも楽勝でした。短野城には郭が2つあり、主郭は虎口に横矢がかかるよう土塁が飛び出していて見ごたえがあります。空堀跡もしっかり残っていました。
短野城は信長軍の筒井順慶が本陣をおいたと伝わる山城です。天正伊賀の乱で信長軍と伊賀勢最後の拠点となった柏原城(赤目)の攻防戦があり、この時に使われたようです。横堀の外側に広い平坦な土地があり、軍を逗留させるには最適で、けっこうな人数を収納できたでしょう。尾根沿いに伊賀勢の黒田城がありますので、この短野城から攻め入ったかもしれません。伊賀の城を巡ると主郭に青いプレートがつけられていますが、短野城にもしっかりついていました。
筒井順慶は大和の国人で、筒井城、大和郡山城を根城にしていましたが、秀吉の時代に伊賀へ国替えとなります。伊賀上野城にはちょっと分かりにくいところですが、筒井時代の天守閣跡が残っています。

スーツで登れる青蓮寺城(青木城)

青蓮寺城(青木城)
名張駅からバスに乗って百合が丘へ。丘の上に造成された団地で、けっこう高低差があり、こんな所で自転車通勤になったら、とっても大変。巡回バスの最終である百合が丘で降りると、すぐそばに小高い丘があり、ここが青蓮寺城(青木城)跡です。
丘の上に地蔵院があり、地蔵院を囲むようにコの字型の土塁と空堀が巡っています。遺構が見事に残っていて、しかも土塁は高い所なら8メートル以上もあります。よく現代まで残りましたね。一帯は青蓮寺公園になっていて地蔵院まで階段もあり、スーツ姿で登れる山城です。写真は「コ」の字の角部分。土塁の高さは3メートルほどです。
最期の城主は青木信定という人物で、近くの城と連携作戦をとりながら織田信長勢と戦いましたが落城しました。近くには織田軍と伊賀の国人衆との最後の決戦が行われた柏原城があるので決戦間近だったのでしょう。

黒田城(名張)

黒田城
リバーナ(イオン名張店)を過ぎ、名張大橋を越えたところの山裾にあるのが黒田の里で、裏山にあるのが黒田城。昨日、セミナー前に登ってきました。まあ、スーツ姿での山城登りはあまりオススメしません。
黒田の里から山上まで九十九折の山道が続いていて、山上にあがると石垣の跡がいくつかあります。これは後に建てられた愛宕神社跡の石垣のようで、黒田城自体はいわゆる土の城でした。
黒田城の主郭跡には櫓台跡が残っています。虎口がどこにあったのかはよく分かりません。主郭と北にある郭との間や北尾根との間に深い堀切が3本あり、これが見事。帯郭もいくつか点在し、遺構がよく残っていました。
黒田城は延木氏が黒田に築城したと伝えられています。天正伊賀の乱で織田信長方の筒井順慶に攻められ落城。今は木々で見えませんが織田信長軍と伊賀軍が最後の決戦を行った柏原城も見える位置に黒田城はあります。