名張藤堂家(名張城)

名張藤堂家
名張駅から5分ほど行ったところが、けっこうな高台になっています。この高台にあるのが名張藤堂家の屋敷。昨日、セミナー前に寄ってきました。
伊勢・伊賀をおさめたのが藤堂高虎ですが、養子に藤堂高吉がいました。もともとは織田信長の重臣・丹羽長秀の三男。藤堂高虎に子どがいなかったので秀吉が養子に斡旋したようです。
藤堂高吉は藤堂高虎と共に文禄、慶長の役や関ヶ原、大坂の陣と戦い続けました。高吉が高虎の後を継ぐはずでしたが、高虎に実子が生まれて、実子が継承することになります。つまり藤堂高吉は後継者から家臣の地位になってしまい、これがために津藩本家とはその後もいろいろと騒動が起きるようになります。この藤堂高吉が名張藤堂家の初代。
もともとは藤堂高虎が入るまで伊賀を支配していた筒井定次(筒井順慶の養子)の部下だった松倉重信が名張を領していて、この地に名張城を造りました。この名張城の跡に屋敷が作られ、発掘調査の結果、名張城の石垣跡などが残っています。
名張藤堂家の屋敷の一部しか残っていませんが、江戸時代の上級武家屋敷がそのまま残っている稀有な例になっています。

関地蔵城(新所城)

城山
JR関駅構内に観光案内所があり、関宿巡りのマップをゲット。マップを見ると「西の追分」近くに城山という文字を発見。
城山って...「三重県の山城ベスト50を歩く」に出てきた関地蔵城(新所城)だ~あ~!
のんびり関宿を散策というプランを急遽、山城登りに変更。関宿の宿場町を抜けて、「西の追分」へ。すぐ近くに小山があり、これが城山。でも登り道が分かりません。地元の人に物流倉庫の裏から登れると聞いて、城山に登り石垣跡や郭跡を見てきました。もっとも帰ってから「三重県の山城ベスト50を歩く」の縄張図を見ると1/3もまわっていませんでした。こりゃ、またリベンジしなくては。
「西の追分」から東海道、大和街道が出ていますが城山はちょうど見下ろす位置にあります。古代の鈴鹿関時代には頂上に見張り台があり、鈴鹿関を守る部隊が城山に駐屯していたようです。戦国時代には関氏の関地蔵城がありました。関氏は織田信長の伊勢侵攻では一族の神戸氏などが和睦するなか近江の六角氏と組んで抵抗しますが、最後には降伏。関地蔵城は賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉方の蒲生氏郷と織田信孝方の滝川一益とで城の取り合いになりました。
関氏は伊勢平氏(清盛)から出た氏族で家紋は揚羽蝶。「天地明察」で和算の関孝和が出てきますが、もともとは内山氏で若い頃に関家に養子に入ります。この関氏の家紋もはじめは揚羽蝶。どうも伊勢の関氏の系統だったようです。

岸岡城

岸岡城
鈴鹿サーキットの玄関駅である近鉄・白子駅から1駅だけ名古屋よりにある駅が千代田駅。普通しか止まりません。駅に止まる手前の西側に見える丘が岸岡。現在は岸岡山緑地公園になっています。ここにあったのが岸岡城。
鈴鹿地域を地盤としていた神戸氏の城の一つです。神戸氏は関氏の一族でした。2つの丘からなっており、鈴鹿市の遺跡情報では北の岡を城跡としているので、まずそちらに行ってみましたが。丘の上には古墳があり、ここが城跡のようです。ついでにもう一つの丘に登ると、こっちの方が城らしく堀らしきものも残っていました。日本城郭大系ではこちらを岸岡城跡にしていますので、こちらが正解でしょう。丘の上には見晴らし台がありましたが、伊勢湾や街道筋を見下ろせるので、主郭にするなら絶対にこっちですね。伊勢上野城と同じようなロケーションです。
織田信長の伊勢侵攻で神戸氏は高岡城で、侵攻をくいとめましたが織田信長の三男(信孝)を迎えて和睦することになります。神戸信孝と名乗り、結局は織田家に乗っ取られてしまいます。

小牧山城

小牧山城
織田信長が美濃攻めのため家臣ともども引っ越ししたのが小牧山城。
四日市の岡田家(イオン)には「大黒柱に車をつけよ」という家訓があります。店の屋台骨を支える大黒柱に車をつけておいて、いつでも動かせるようにしておけという家訓ですが、戦国時代に実行したのが織田信長。清洲→小牧山→稲葉山→安土と居城を常に狙う市場近くに変えていきました。もっともお父さんの織田信秀も尾張国内だけでしたが、次々と居城を移していました。
小牧山城は遺構の残りがよく堀切や郭跡が随所に残っています。麓には屋敷跡が見つかり土塁や堀が復元されています。その中で他に比べて格段に広い屋敷跡があり、これが織田信長の居館跡と言われています。麓の居館と山上の城、稲葉山城(岐阜城)とまったく同じ構図です。織田信長は岐阜攻めに際してシュミレーションしていたのかしれません。
写真は主郭跡に建つ城風の博物館。その下に見える石垣は織田信長時代のものです。

織田信長居館跡

織田信長居館跡
岐阜へ行った時に一番楽しみにしていたのが織田信長居館跡。
場所は金華山ロープウェイの裏側にあります。ここにあったのが織田信長の居館跡。と言っても観光客はほとんどいません。発掘された虎口(入口)が復元され、他は発掘中です。
後奈良天皇の法会の財源問題で岐阜へ赴いた山科言継の日記が残っていますが、信長に連絡をとろうと右筆(秘書)の武井夕庵に頼むと、信長は山上の城にいて、「老人の身で山登りは大変だろうから、明日、麓の邸宅で会おう」、と信長から返事がありました。
山科言継と織田信長が会ったその邸宅が織田信長居館跡です。しかも、三河の徳川家康にも頼みにいくという山科言継に、「老人の身でこの酷暑のなか、三河まで行くのは大変だから家康には飛脚をとばして資金を調達するから、この岐阜で待っておればよい。」と飛脚で資金調達を助けてくれました。織田信長の実像について見直しが行われていますが、こまやかな気遣いをする人物だったようです。
山科言継の後、この邸宅を訪れたのがポルトガルの宣教師ルイス・フロイス。キリスト教布教の許しをえます。最初に会ったのが邸宅跡で、美しい庭園がいくともあると本国に報告しています。この庭園が、現在も行われている発掘で見つかり、邸宅跡からは金箔瓦も出土しています。安土城以前に金箔瓦を使っていたんですね。迎賓館のような存在だったようです。

稲葉山城(岐阜城)

稲葉山城
先週、セミナー前に行った稲葉山城(岐阜城)。
さすがにセミナー前に金華山を登るのはやめてロープウェイに乗りましたが、高所恐怖症にはたまりませんね。岐阜城は昭和31年に造られたお城で、中は史料展示室になっています。一番上は展望台になっていて、濃尾平野が一望できます。名古屋駅前のツインビルもよく見えますので、戦国時代は織田軍の動きもよく分かったでしょう。
稲葉山城は難攻不落の城といわれた割には、よく落城しています。まずは竹中半兵衛に策略で落とされ、次は織田信長。「絵本太閤記」では秀吉が稲葉山城攻めで戦功をあげ、これ以降、瓢箪を馬印にしたという話があり、岐阜城にも千成瓢箪発祥の地という岩がありましたが、眉唾モノでしょう。
最後の落城は関ヶ原合戦の前哨戦で、織田秀信(三法師)が守る岐阜城を池田輝政と福島正則に攻められて落城。池田輝政は岐阜城の城主だったこともあったので、有利でした。
城のあちこちに戦国時代の跡があり、ちょっと脇に入ると野面積みになっている古い石垣があり、堀切も残っていました。昔の郭跡はレストランなどが建てられていますが、そう大きな城ではないですね。

加納城

加納城
岐阜のお城と言われて、まず思い出すのが岐阜城。金華山にある山城です。加納城と聞いても岐阜市以外の人には通じません。
岐阜城は関ヶ原の戦いの前哨戦で落城し、廃城となってしまいました。代わって江戸時代に整備されたのが加納城。岐阜駅のずっと南が城下町になっていて加納城がありました。加納という地名は古く、織田信長が初めて楽市楽座を出したのが加納市場。加納は美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」で有名な柳ヶ瀬商店街あたりから、ずっと南に拡がっていました。
北側(金華山の麓)には斎藤道三や信長が作った戦国時代からの城下町がありましたが、関ヶ原の戦いなどでさびれ、加納が新しい城下町として発展します。岐阜駅でレンターサイクルを借りて、さっそく加納城へ行ってきました。加納大手門という地名があり、ここから入っていくと本丸跡があります。
加納城は水堀で囲まれたお城で現在は本丸の土塁・石垣が残っています。土塁で囲まれた中心部は公園になっていて、グラウンドなどで使われていましたが、けっこう広く、篠山城の主郭ほどあります。石垣も古い時代の野面積みでした。都会に土塁がきっちり残っているのがいいですねえ。

大垣城

大垣城
大垣駅を降り、駅前商店街を5分ほど歩き、商店街からすぐ入った所に大垣城があります。商店街からは城は見えず、商店街の途中にある津城とよく似ています。
天守や櫓がありますが、全て復元されたものです、本丸の縄張りは残っていて埋門跡などがあり、二の丸は公園になっています。
大垣城と言えば関ヶ原の戦いの舞台となった城。、石田三成らが入城して西軍の本拠地となりました。対する東軍は清洲城を本拠とし、まずは織田秀信が守っていた岐阜城を攻めて、落とします。大垣城で東軍と対する案もありましたが。結局は関ヶ原に移動しての戦いになります。
総大将の毛利輝元をいれるつもりだった松尾山を守っていた伊藤盛正を追い出して、小早川秀秋が陣を構えたのに対抗するためなどの理由で、関ヶ原へ移動したようです。石田三成が関ヶ原に移動せず大垣城の籠城戦になっていたら歴史は変わっていたかもしれません。
西軍は大津城を落とした小早川秀包や立花宗茂ら1万5,000の兵で東宮を挟撃できたし、東軍は中山道をすすんだ徳川秀忠が間に合ったかもしれません。

犬山城

犬山城
全国にたくさんのお城がありますが、個人が所有しているお城として有名だったのが犬山城。
江戸時代、犬山城の城主だった成瀬家が明治以降も代々、所有していたのですが、現在は財団法人犬山城白帝文庫が所有・管理しています。成瀬家の時代、不動産登記には「城郭」と記載されていたんですかねえ。
30年ぶりぐらいに犬山城を訪ねました。天守に上がると遠く稲葉山城(岐阜城)が見れます。川をはさんだ向こう側にこんもりとした山が見え、ここの頂上にあったのが伊木山城、また犬山公園駅を出て川を渡った岩山には鵜沼城がありました。
犬山城は国宝の天守が有名ですが、三光稲荷神社の裏手に戦国時代の空堀が残っています。あれだけ見事な空堀が残っているのも珍しいですね。ただ案内板もないので、観光客は素通り、もったいないなあ。もっとも案内板があってもタダの土の堀ですので、結局は素通りするだけでしょう。(笑)
■犬山城城主
犬山城を造ったのは織田信康(織田信長の叔父)。目的は美濃攻めで、犬山城の下を流れる鵜飼で有名な長良川を超えれば美濃で。犬山城は国境に造られたお城でした。
織田信康が稲葉山城攻めで討死にすると、信康の子である織田信清が城主となります。ところが途中で信長と仲たがいし美濃の斉藤龍興と手を結んだことから、犬山城は丹羽長秀に攻められて落城。美濃攻めの拠点となります。
小牧・長久手の合戦では秀吉方の池田恒興が犬山城を攻略して入り、小牧山城の家康と対峙しました。池田恒興は美濃攻めの後、犬山城の城主でしたので勝手知ったる城だったのでしょう。

松ヶ島城

松ヶ島城
松阪にある松ヶ島城跡。
畑のど真ん中に小山が残っていて、ここが天守閣跡。松ヶ島という名前がついていますが、、現在の海岸線は500mも先。戦国時代には海のそばにあって島になっていたとは、とても思えません。
松ヶ島城を造ったのは織田軍に備えた北畠氏。やがて織田と北畠で和議が結ばれ、北畠(織田)信雄が城主となります。本能寺の変の後に織田信雄は清州城に移り、家臣の津川義冬にまかせますが、秀吉と織田信雄が対立すると、秀吉は信雄の家臣が吉に寝返った流言を流し、まんまと信じた信雄は津川義冬を殺してしまいます。
次に松ヶ島城をまかされたのが滝川雄利。北畠家の一族、木造氏でしたが、北畠と織田の和睦を斡旋。また滝川一益に気に入られ娘婿として迎えられます。これで名前が滝川になります。織田信雄の家老となりますが、信雄が没落した後も秀吉に気に入られ、豊臣秀次事件も乗り切り、関ヶ原の戦いでは西軍で戦い、敗れて出家。ところが家康に呼び出されて領地をもらい御伽衆の一人になっています。戦国時代を見事に乗り切った武将です。
滝川雄利は小牧長久手の戦いの時は織田信雄の家老でしたので、秀吉軍と松ヶ島城に籠城して戦いましたが落城。秀吉の命で蒲生氏郷が入ります。やがて蒲生氏郷は現在の松坂城を造り城下町ごと移転、松ヶ島城は廃城になります。松ヶ島城から山の方を見ると松坂城の森を見ることができます。