せっかく宮崎まで来たのでゆっくりするつもりが、お昼に大阪へ戻る用事ができたため、スケジュールを組み直し、朝早く宮崎バスで佐土原へ。
バスには通学する高校生も乗っているんですが、高校に着くと運転手が「寝ている生徒がいたら起こしてあげてください」とのアナウンス。けっこう郊外なので乗り過ごすとえらいことになるからでしょうえ。しばらく走ると交流センターというバス停があり、バス亭のすぐ近くに佐土原城跡があります。
佐土原城の麓には二の丸御殿の一部が復元されていますが、歴史資料館も含めて朝早くなんで当然、空いていません。まあ目的は山城なので御殿脇から山の中へ。道がきれいに整備されていますので、スーツ姿で登れる山城です。犬の散歩をしている地元の人もおりました。
主郭はめちゃくちゃ広く、天守閣もあったようです。南の城は虎口がなかなかすごく、堀切もしっかり残っていました。
佐土原城は昨日、行った宮崎城と同様、伊東氏の城の一つでしたが、島津が九州を席巻した時には島津義久の実弟である島津家久が城主として入っていました。関ヶ原の頃には島津豊久が城主。関ヶ原に島津義久と共に出陣し、島津の退き口で亡くなった武将です。
関ヶ原から無事に日向までたどりついた島津義弘は佐土原城に入ってから鹿児島に向かいました。
カテゴリー: 城・山城
宮崎城
宮崎でのセミナーが終わった後、路線バスに乗車し池内へ。
宮崎バスは11月からICカードが使えるようになったようでイコカで大丈夫でした。途中、平和が団地というところをグルグル回りながら池内にようやく到着。バス停のすぐそばに宮崎城という大きな看板が立っていました。これは分かりやすくてありがたいですね。
着いたのは夕方なので日没までに登らないと山の中で真っ暗になると強行軍でした。(笑)さすが南国・宮崎、17:30頃まで日がありました。山城なんですが地元の人が整備してくれるおかげで、とっても歩きやすい山道になっています。スーツ姿でも大丈夫でした!
宮崎城は南北朝時代に造られた山城です。戦国時代は工藤祐経の子孫で日向に下向した伊藤氏の居城で、関ヶ原の戦いの舞台にもなった山城です。黒田官兵衛もからんでいます。宮崎城には服部城、目曳城、本丸城、百貫城、彦左衛門城などの名前が各曲輪につけられています。曲輪の守将に由来するようです。
宇喜多秀家陣跡(関ヶ原)
関ヶ原シリーズの第五段、今回は宇喜多秀家陣跡。
大谷吉継、小西行長の陣の間にあったのが宇喜多秀家の陣。陣跡は少し高台にあり、西軍最大の1万7千人で関ヶ原の戦いに臨みましたが、戦力的にはいまいちだったようです。原因は宇喜多騒動。
宇喜多秀家がまだ子供の頃、親である宇喜多直家が死んでしまいます。秀吉が可愛がり、養女(前田利家の娘)の豪姫と結婚させます。また秀吉の猶子になっていたこともあり、畿内にいることが多く、領国経営は国元の重臣にまかせていました。ところが秀吉が没すると、重臣間の対立が表面化。
当主である宇喜多秀家に敵対し兵を率いるものも出る始末。調停に乗り出したのが大谷吉継と徳川四天王のひとり榊原康政ですが、家康としたら豊臣方の宇喜多家が分裂する方が好都合なので、榊原康政に手をひかせます。大谷吉継だけでは調停は難しく、結局は豊臣家の筆頭大老である徳川家康の裁断になります。宇喜多家では主だった重臣がいなくなり明石全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切ることになります。
調停で家康が恩をうった重臣は東軍側として関ヶ原に参戦。宇喜多秀家は東軍の福島正則隊と激戦しますが、小早川秀秋の裏切りで側面をつかれて敗退。明石全登が斬り死にしようとした秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めます。紆余曲折があり鹿児島に逃れた宇喜多秀家や八丈島に島流し。これが八丈島の流人第一号となります。キリシタンだった明石全登は大坂の陣で真田信繁、毛利勝永らと共に家康と戦い、散っていきました。
石田三成陣跡
関ヶ原シリーズの第四弾。
石田三成の陣跡、笹尾山です。佐和山城に隠居していた石田三成ですが、徳川家康が上杉攻めで大坂城を空けた時にクーデターを起こします。徳川家康は公儀(豊臣方)の仕事として福島正則など豊臣系大名を引き連れて東北に向かっていました。
ここで前田玄以・増田長盛・長束正家と組んで、徳川家康を弾劾する「内府ちかひの条々」を全国の大名に送ります。これで石田三成方が公儀(豊臣方)となり、徳川家康方が賊軍となりました。早い話が幕末に長州と薩摩が組んで起こしたクーデター「王政復古の大号令」と同じです。このクーデターで長州と薩摩が公儀(錦の御旗))となり徳川慶喜が賊軍となります。ただ違っていたのは鳥羽伏見の戦いなどで徳川軍が負けたこと。
関ヶ原の戦いでは公儀の側である石田三成側が負けてしまいました。鍵をにぎったのが松尾山城を占拠した小早川秀秋。石田三成の当初の構想は大垣城の攻城戦で、関ヶ原の南宮山に布陣した毛利の軍隊を後詰にする予定で、松尾山城には総大将の毛利輝元に入ってもらう予定でした。ところが毛利輝元はこれで戦国の世に戻ると領地確保などを優先。もっとも関ヶ原の戦いが長びくと真田昌幸、黒田如水、上杉景勝ら、主だった武将は考えており、領地確保に動いていますので、まさか1日で終わるとは誰も思っていなかったようです。
徳川家康に通じている小早川秀秋が松尾山の城兵を蹴散らして陣取ったため、南宮山の後詰がきかなくなってしまいました。仕方がないので関ヶ原へ移動して布陣することになります。
大谷吉継陣跡(関ヶ原)
関ヶ原シリーズ・第三弾です。(笑)
大谷吉継は秀吉の天下統一に従軍し、やがて敦賀城主となります。白い頭巾姿で有名で敦賀市のゆるキャラ「よっしー」は大谷吉継をモチーフにしています。
秀吉が亡くなった後、前田利家と徳川家康が一触即発となった時、福島正則らと共に徳川家康の屋敷を守る方にまわっていますので、徳川派でした。上杉討伐軍に参加するために三成の居城である佐和山城に立ち寄った時に旗揚げの話を聞かされ、翻意するように三成が説得しますが、意志が固いので西軍に加わります。家康は大谷吉継が西軍に加わっていると聞いて、かなり驚いたようです。
敦賀に帰り、戦準備をするとともに東軍の前田利長を牽制するため、大谷の水軍が金沢を攻撃するぞと偽情報を流し、混乱させます。前田利長は実際、関ヶ原に来れませんでしたので、効果はありました。この大谷隊の陣ですが、まっすぐ松尾山の小早川秀秋の陣を見すえていますので、最初から裏切りに備えていました。ところが一緒に率いていた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が途中で東軍に寝返り、総崩れ。脇坂安治は同じ秀吉の御馬廻り衆の一員で同僚でしたが、うまくいかないものですね。朽木元綱は信長が金ヶ崎城からの撤退戦で絶体絶命の危機に陥った時に朽木越えを助けた武将です。
大谷吉継は自刃し、側近の湯淺五助が首を埋めます。この五助は勇猛な侍として有名でした。ところが埋め終わった時に藤堂隊の藤堂仁右衛門(藤堂高虎の甥)に発見されます。五助は自分の首の代わりに大谷吉継の首の場所を口外しないことと、供養を頼んで討たれました。約束通り藤堂仁右衛門は家康に聞かれても首のありかを口外せず、戦が終わってから墓を建てています。
来年の大河ドラマは「真田丸」ですが、大谷吉継は片岡愛之助が演じるんですね。真田信繁(幸村)の奥さんがこの大谷吉継の娘と伝わっています(諸説あり)。大谷吉継の息子は義兄弟となる真田信繁らとともに大坂城へ入城し、大坂夏の陣で討死。湯淺五助を討ち取った藤堂仁右衛門は大坂の陣の八尾・若江の戦いで長宗我部盛親隊に敗れ討死にしています。
黒田長政・竹中重門陣跡(関ヶ原)
新幹線からも見える小高い山の上に黒田長政・竹中重門陣跡があります。
関ヶ原をおおっていた霧が晴れた時、ここから狼煙が上げられ、東軍の攻撃がはじまりました。黒田長政は大河ドラマでは松坂桃李が演じていましたが黒田官兵衛の息子です。竹中重門は秀吉の軍師だった竹中半兵衛の息子。
荒木村重の謀反が起きた時、荒木村重がこもる有岡城(伊丹城)へ説得に行った黒田官兵衛は反対に捕えられて牢につながれます。幼い黒田長政は信長に人質に出されていましたが、なかなか帰ってこない黒田官兵衛を、さては裏切ったと思った信長は人質だった黒田長政を殺すように命じます。これを救ったのが竹中半兵衛。信長には殺したと言って、黒田長政を匿います。
というのが通説なんですが、ウソでしょうね。黒田官兵衛が帰ってこなくても黒田家の家臣は信長方として行動していますので、信長が次期当主となる黒田長政を殺す必要性はなく、そんなことをしたら黒田家も離反してしまいますので、まあ物語のたぐいでしょう。竹中半兵衛は黒田官兵衛が助けだされる前に三木城攻めの付城だった平井山で病死しています。
関ヶ原の戦いでは竹中重門は最初、西軍として行動していましたが、黒田長政の説得で東軍に寝返り、黒田軍の寄騎として戦いました。関ヶ原周辺は竹中氏が領主でしたので地理に明るく、家康から西軍諸将の探索と捕縛を命じられ、小西行長の捕縛に成功しています。また戦死者を埋葬し、これが首塚になっています。
桃配山(関ヶ原 徳川家康陣地)
壬申の乱で関東(鈴鹿関の東側で現在の桑名)に逃れた大海人皇子は尾張氏を味方につけ、大友皇子の近江軍と激突したのが関ヶ原の土地。
この時、関ヶ原を見渡せる山に登り兵士に魔除けの桃を配りました。それ以来、桃配山という名前となります。近江軍を破った大海人皇子は軍勢を二手に分け、湖東と湖西から大津京を目指します。
若き家康が今川義元のもとで人質生活をおくっていた時に教えを受けたのが大原雪斎。雪斎は今川軍の指南役でもあり、今川義元の教育係も務めた禅僧です。薫陶を受けた家康が読んでいたのが論語、中庸や史記などの歴史書、六韜などの兵書です。当然、壬申の乱などの過去の歴史についても学んでいました。
関ヶ原に布陣することになった時、まっさきに思い出したのが桃配山の故事。関ヶ原の戦いをもとに天武天皇となった大海人皇子にあやかり、最初の陣地としました。
福井城
水曜日、せっかく福井へ行ったので駅近くにある北庄城の後に福井城へ行ってきました。
こちらも福井駅のすぐそばです。福井というと剣神社はぜひ行きたいんですが、なかなか機会がないですね。別名を織田明神といい、もともと織田家はここの神官の出です。神社は越前町織田にあり、ここの地名を家名にしました。朝倉家は守護・斯波氏の重臣で名門でした。織田家といえば斯波氏の家来の家来という家柄で朝倉義景が信長と争ったのも「何であんな家柄のやつに」という意識があったんでしょう。
柴田勝家が築城した北庄城の近くに家康の次男である結城秀康が築城した平城。大きな城でしたが現在は本丸の内堀、石垣、天守台が残されています。天守台にあるのが”福の井”という名前の井戸。ここから福井という名前がついたという説があります。明治維新の後、各地の城は鎮台や役所に使われましたが、福井城には今も県庁、警察本部があります。
いろいろと復元をしていて、御廊下橋は復元されていましたが山里口御門(枡形虎口)を復元中ということで工事中で通れませんでした。和歌山城の廊下橋によく似ていますね。福井市立郷土歴史博物館のすぐ北には舎人門が復元されていました。
柴田勝家の北庄城
浅井・浅倉連合軍の一角だった朝倉義景が信長に滅ぼされます。この時、稲葉山城を奪われ美濃を失い逃亡した斉藤龍興も滅ぼされています。斉藤龍興は逃亡後、長島一向一揆や三好三人衆と組んで、ことごとく信長に刃向っており、最後は朝倉義景と組んでいました。今川氏直のように今川家がなくなってから父親(今川義元)の敵の前で蹴鞠をするような人物もいたなか、首尾一貫した生き方でしたので、すごいですね。
朝倉に代わって越前をおさめたのが柴田勝家。越後の上杉氏に備えるためが目的です。柴田勝家が一乗谷でなく、新たに作ったのが北庄城です。天守もあった大きな城だったようで、工事中に訪れた宣教師ルイス・フロイスの記録にも出てきます。ところが建設途中で賤ヶ岳の合戦が起きてしまいます。初戦は勝っていましたが前田利家の敵前逃亡もあり、負けて北庄城は落城、炎上してしまいます。
以前に来た時は柴田神社の横に柴田勝家の銅像があるだけでしたが、その後、発掘調査が行われ柴田神社ちかくで石垣跡が発見され展示されていました。家康の次男である結城秀康が新たに福井城を造る時に石垣などを再利用し、三の丸になって破壊されてしまい、こちらの遺構もきれいに展示されていました。
大和郡山城 天守台石垣工事説明会
大和郡山城の天守台石垣工事説明会があったので行ってきました。
大和郡山城、戦国時代は砦でしたが本格的な大和郡山城を造ったのが信長の命をうけた明智光秀で城は筒井純慶が守りました。豊臣秀吉の時代に筒井家は伊賀上野へ転封。代わりに入ったのが秀吉の弟で偉大なる補佐役と呼ばれた豊臣秀長です。
秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石の領主になったので、それにふさわしい城に大改造します。現在に残る天守台の石垣などは、この当時のものになります。この秀長に仕えていたのが後に津をおさめる藤堂高虎です。
400年も前に造られた天守台の石垣ですが、崩れているところもあり、解体して修復が行われています。石垣に墓石や石仏(地蔵)までが使われていることは前からわかっていましたが、今回の解体でもけっこうな数の五輪塔や墓石が見つかり現場に置いてありました。
自然石を使った野面積ですが5%ほどの石は割れてしまっているそうです。そのままでは使えませんので型をとって、四日市・菰野の石を加工し交換するそうです。
説明会は今日と明日、10時~15時に1時間起きに行われています。石垣というと表面しか見られませんが中の盛土から裏込め石まで見られるチャンスです。