志村城跡 板橋に残る城跡

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    都営三田線の西高島平駅から少し行くと志村三丁目駅があります。志村三丁目駅から少し歩くと、かなりの高台があり、ここが志村城跡。 

    といっても城の遺構はほとんど残っていなく熊野神社の社殿横に空堀や土塁などが残っている程度。熊野神社は古墳の上に建っているようで、古代から眺めのよい一等地だったようです。この熊野神社を勧請したのは戦国時代で、志村城に当時からずっとあった神社のようです。 

    城の遺構は残っていませんが周辺を歩いていると道路がすごい坂になっていたり、当時の城から見た景観を楽しむことができます。熊野神社の横に日本電産コパル株式会社がありますが、ここからも坂になっています。郭の一つだったようです。 

    西高島平にある赤塚城の支城だったようで、千葉自胤の一族である千葉信胤が城主で入っていました。、北条氏綱に攻められ落城したからは北条氏が支配しましたが、秀吉の小田原攻めで赤塚城ともども廃城になったようです。

赤塚城(高島平に残る城跡)

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    高島平と言えば東京の一大団地。団地の開発と同時に、東京都が都営地下鉄・三田線を整備して都心とのアクセスを確保しました。高島平という名前の由来は江戸時代の砲術家・高島秋帆に由来し、この地で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったため高島秋帆の名前から高島平と名づけました。 

    都営三田線の終着駅、西高島平駅から15分ほど歩くと板橋区立郷土資料館があります。ここに郷土の城である赤塚城について展示があると事前にホームページで調べていたので、さっそく行ってみると「板橋と馬」という特別展をやっていました。サラブレッドが導入される前の小さかった日本の馬にまつわる展示などがあり、面白かったのですが肝心の赤塚城の展示がない。入口で

    聞いてみたら特別展でスペースを使ったので常設展はないとのこと、残念。気を取り直して板橋区郷土資料館を出ると、横にかなり急こう配の丘があり、ここが赤塚城跡。 

    下総千葉氏の内紛で遺児となってしまった実胤・自胤兄弟はかろうじて城を脱出、武蔵に逃げ込み、太田道灌を頼ります。太田道灌が二人を庇護し、兄の実胤は石浜城に弟の自胤がこの赤塚城に入ります。その後は太田道灌の配下として、石神井城を攻めたりしましたが下総奪還はできず、太田道灌の死後は北条氏の配下になります。秀吉の小田原攻めで北条氏と運命をともにし、この時に赤塚城も廃城となったようです。 

    城跡は公園化されて土塁などは残っていませんが主郭などが拡がっていてなかなか見事。郭のまん中は梅林になっていました。戦国時代、一帯は湿地帯だったようで水堀状態になっていました。板橋区郷土資料館の横の池がその名残だそうです。 

田原城跡(四条畷)

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    四条畷と言っても生駒山の東側、奈良側にあります。生駒市との境界あたりで感覚的には生駒。 

    生駒駅の南口バス乗り場2番からバスに乗って池谷(いけのたに)バス亭で下車。バス亭から田原団地に上がる広い道ではなく右側の細い道に入ると左手に見える丘が田原城跡。川を渡った橋の近くに城の入口の看板が出ています。 

    30メートルほどの丘に残る城跡ですが、郭や土塁などがよく残っています。竹藪が多いのですが、よく整備されていて藪こぎしなくてもよいのがありがたいですね。田原城は城主の名前が分かっていて田原対馬守という人物。ルイス・フロイスの書簡にも登場する人物でキリシタンだったようです。田原対馬守は三好長慶の傘下にあったようで、近くにある飯盛山城が三好長慶の居城になり、田原城は大和をおさえる支城として機能していました。 

    織田信長の摂津進攻によって飯盛山城ともども廃城になったようです。現在は住宅団地の中にある田原城ですが、戦国時代は大和から京・河内に通じる3本の街道が近くを通っており、交通の要衝でした。関ヶ原の合戦で島津が敵中突破した退き口がありますが、この近くを通って飯盛山から大阪に入ったようです。

芥川山城 天下人・三好長慶の城

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    高槻にある芥川山城へ出かけてきました。 

    JR高槻駅2番乗り場から塚脇行きのバスに乗って、終点の塚脇で降ります。(210円)バス亭近くから古墳と寺の案内が出ている小道があり、これをえっちらおっちら登ると社会福祉施設の大きな建物の脇に出ます。この脇をさらに登っていくと田園風景になって「三好山へ40分 三好長慶1553年入城」という立札がありますので、立札の道に入って登っていきます。 

    山城の入口に案内板があるのがいいですね。ほとんどの山城には案内板がなく、下調べをして、あとは勘をたよりにヤブをつっきたり崖を登るしかありません。(笑)芥川山城はハイキングコースにもなっているので楽に登れました。 

    登っている途中に石垣があらわれて、そこから先は郭や土塁、堀のオンパレード。なかなか見応えのある山城です。土橋もしっかり残っていました。主郭もきれいに整備されていて虎口も残っています。主郭からは高槻の町から梅田あたりまで一望できます。 

    芥川山城は代々、城主が変わったのですが、一番有名なのが三好長慶。全盛期には摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨を支配下においていて、事実上の天下人でした。その居城が芥川山城。やがて息子に芥川山城をゆずって自身は飯盛山城に移ります。 

    ところが息子が22歳でなくなり、軍事的に支えてきた勇将である弟の十河一存の急死。部下だった松永久秀の造反などで三好家は衰退。三好長慶は飯盛山城で病死します。その後を率いたのは三好三人衆と松永久秀。織田信長と敵対することになります。大河ドラマ「黒田官兵衛」では、ここらたりをすっとばしています。(笑) 

    ただ織田信長が天下取りの手本にしたのが三好長慶で、うまくいった施策などいろいろと研究していたようです。

雪の上津部田城(津市)

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    今日は午後から専門家派遣で、午前に少し時間があるので安濃城を見に行こうと津新町駅でバスを待っていましたが、待てど暮らせどバスは来ない(笑) 

    こんな大雪の日に時間通り来いといっても無理な話で、おまけに1日に何本かしかないバスなので帰りのことも考えて断念。早めに三重県総合文化センターへ移動して、奥にある上津部田城を見てきました。雪に埋もれたお城もいいもんです。 

    三重県総合文化センターにはホールや図書館があって有名で、来られる方も多いのですが戦国時代の城が今も残っていることはあまり知られていません。館内案内にも城跡は載っていないので知る人ぞ知る城です。と思ったら春風亭昇太氏のブログに三重県総合文化センターの落語会のついでに上津部田城をダッシュで見に行ったという記事があがっていました。 

    上津部田城(こうつべたじょう)は戦国時代の城ですが、城主については記録に残っていません。発掘の結果、戦国時代に作られて数十年使われたようです。三重県総合文化センターがあるあたりは丘陵地になっていて西には渋見砦があり、織田信長の伊勢進攻で滝川一益が兵を入れたという記事が信長公記に出てきます。 

    上津部田城のすぐ近くには峯治城があったのですが、こっちはマンションになっています。上津部田城もすべてが残っておらず主郭と取り囲む土塁と堀切、隣の郭の一部が残っています。戦国時代はもっと郭がありましたが、三重県総合文化センターが建てられる時に壊されてしまいました。虎口も残っていて深さ4mほどの堀切はなかなか見応えあります。でも安濃城、見に行きたかったなあ。

桐ケ谷城 三重県・青山町

horagatani201401.jpg青山町駅の北側に城氏城がありますが南側にあるのが桐ケ谷城。 

桐ケ谷城も青山町駅のホームから見えていて、鉄塔が建っている山です。坂を登り、山に着いたら道なきヤブの中を登っていきますが城氏城ほど急ではありません。ですがスーツ姿で登るのはあまり、おすすめしません、(笑) 

頂上に方形郭で四方が土塁と堀に囲まれた城があらわれます。かなり崩れていますが土塁の高いところは5メートルぐらいありました。郭の中はけっこう広いのですが、ヤブ状態。木に青いパネルがつけられており、伊賀の山城ではこの青いパネルに城の名前が書かれていて本丸跡の目印になります。もっともパネルに桐ケ谷城の字は見えないぐらいになっていました。 

城の記録は残っていないようですが、すぐ近くに初瀬街道(奈良と伊勢を結ぶ街道)があり、街道のすぐ山側に阿保城(あおじょう)があります。聖武天皇の阿保頓宮があったとことも言われています。 

桐ケ谷城は阿保城のすぐ裏手の山なので阿保城の詰城か支城だったのでしょう。城氏城が初瀬街道の向こう側に見え、青山町の街道宿は城氏城、桐ケ谷、阿保城の3つの城が連携して守っていたのでしょう。 

城氏城 天正伊賀の乱の舞台

sirosijyo201401.jpg専門家派遣の帰りに近鉄・青山町駅で下車。 

青山町駅のホームからすぐ北に小山が見えていて日生学園の看板がかかっていますが、ここが城跡。低い山なのでスーツで大丈夫だろうと、登りはじめましたが、これが大きな間違い(笑)。途中からヤブだらけの崖をエッチラオッチラ登ることになってしまいました。 

城を探索して帰りに分かったのですが、登るのなら山沿いの西に舗装されていない道の途中に山から水が流れているところがあり、ここからだと比較的、簡単に山に登れます。たぶん大手道だったんでしょう。本丸近くまで水の流れが続いていて、籠城するなら水の確保はとても重要です。現在まで水の流が続いているとなると、かなり考えて縄張したのでしょう。 

この城は城氏の城ということで城氏城という名前になっています。城八太夫という人物がいて、信長と戦った天正伊賀の乱について書かれた伊乱記に名前がでてきます。城氏城も天正伊賀の乱の舞台だったようです。青山町は青山高原を超えたところにあり、伊勢から北畠(織田)信雄が攻めると、ちょうど伊賀への入口にあたりますので、いの一番で攻められたんでしょう。 

いくつかの郭と本丸を取り巻く堀と土塁がなかなか見事でしたが本丸は狭かったです。歩いて15歩ほどしかありませんでした。 

茶臼山古墳 真田幸村の陣跡

cyausuyama201401.jpg今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。 

和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。 

茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。 

ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。 

真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。 

茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。 

大坂国誕生の地 真田丸

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    今年は大阪冬の陣から400年。 

    大坂城は総構えで防御していましたが弱点は南側。堀はありましたが上町台地沿いに攻められる地形になっていました。冬の陣で真田幸村が作ったのが真田丸。出城になっていて堀(現在の空堀町)の外側、現在の宰相山公園から真田山公園の一帯が真田丸跡地と言われています。 

    遺構はなにも残っていませんが、公園はかなりの高台にあり見晴らしのよい所にあります。真田は武田二十四将の一人で、武田の特徴と言えば丸馬出。真田丸は巨大な丸馬出だったようです。結局、徳川家康軍はこの真田丸を破れず、総構えから侵入できないため和睦になります。 

    真田丸のあった宰相山公園にあるのが三光神社。ここに真田の抜け穴があります。大坂城まで続いていて豊臣秀頼の遺児・国松はここから無事に脱出しました。以来、秀吉が造った大坂城の痕跡をなくし、巨大な盛り土をして新たな大坂城を造ったタヌキ親父のやり方に不満を抱いた大坂の町人が、この国松の子孫を現在まで守り通しています。大阪の人間なら誰もが知っている秘密です。(笑)

人は見たいものしか見ない 鷹尾城跡

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    20代の頃、阪急・上新庄駅近くに住んでいたので、休みになるとハイキングに出かけていました。よく行ったのが阪急・芦屋川駅から高級住宅街を歩き、城山(鷹尾山)、岩梯子、荒地山、雨ヶ峠、東お多福山から六甲山を超えて有馬温泉へ向ける縦走ルート。有馬温泉で市営の有馬温泉会館に行って、金泉、銀泉に入り、帰りは六甲ロープウェイとケーブルで帰ってきました。最後に温泉でさっぱりできるので、なかなかおすすめのハイキング・コースです。 

    城山(鷹尾山)は芦屋の住宅街から見えている小山で何度も登っているのですが、ここに城跡があったとは全然気づかず、先日確かめるために登ってきました。山頂近くのハイキングコースの近くにあったのが二重の堀切。土橋もしっかり残っていました。何度も通っている道なのに全然、気がつかないものなんですね。人は見たいものしか見ないというのはまさしくです。 

    室町幕府の時代、摂津守護の細川高国が1511年に瓦林正頼に命じて造らせた城で、築城後すぐに赤松氏に攻められ(芦屋河原の合戦)、落ち延びることになります。