暮もおしつまっているのに山城に登ってきました(笑)
場所は神戸にある摩耶山。王子公園駅で降りて、坂道をひたすら上がり、上野道という登山道を登ってきました。摩耶ケーブルの終着点「虹の駅」あたりから、ずっと城跡になっています。と言っても見た目は単なる山道です。山道横の丘を登ると、そこが曲輪跡になっていて、山道を上から攻撃できるようになっています。
大晦日前日なのに歩いているハイカーが多いですね。もっとも皆さん、山歩きを楽しんでいるようで山城跡を見ているような酔狂な人物はおりませんでした。山道からは六甲アイランドやポートアイランドなどが一望できます。
摩耶山城を造ったのは赤松則村。南北朝時代に活躍した人物で、鎌倉幕府(京都の六波羅探題)を倒すため播磨国で挙兵。摩耶山麓に陣を構える六波羅探題軍を破り、摩耶合戦として太平記に書かれています。足利尊氏の湊川の戦にも協力し、足利幕府を支えることになります。
この赤松氏ですが室町幕府6代将軍足利義教を暗殺します。日本史で習った嘉吉の変(かきつのへん)ですが、恐怖政治を行っていた将軍でしたので、自分の側についてくるものがいるだろうという目算もありました。結局、誰も賛同せず幕府方討伐軍に敗れて討たれてしまいました。
カテゴリー: 城・山城
昔、観光エレベータがあった日和山の山城(鳥羽)
交通の要所だった田丸城(清州会議)
今は1時間に1本程度しか列車が止まらないJR田丸駅。田丸駅から少し歩いた所に田丸城跡があります。石垣や土塁が見事に残っています。
戦国時代は交通の要所でした。奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道(伊勢本街道)、そして紀州へと続く熊野古道が交わる所で、城からは伊勢の街がよく見え、伊勢神宮を抑える戦略的要衝でした。城を造ったのは伊勢国司であった北畠。
ところが織田信長の伊勢進攻によって北畠は敗退。養子として二男の織田(北畠)信雄が送り込まれ、田丸城は織田(北畠)信雄の居城となり、天守が造られます。
映画「清州会議」ではバカ殿として描かれた人物で妻夫木聡が演じていました。伊勢は尾張の隣ということもあり織田信長が美濃と同時におさえようとした国です。まずは鈴鹿の有力氏族だった神戸氏に、養子として三男の織田(神戸)信孝を送り込み、神戸城に天守を築きます。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。かしこい方です。
津城には信長の弟である織田信包が入り、城を整備し5重天守と小天守を造ります。映画「清州会議」では伊勢谷友介が演じていて、映画の最後では秀吉に向かって「織田家を乗っ取れ」とか格好いいセリフを言ったりします。映画に出てくる3人の織田家の人物が伊勢に揃っていたんですね。
まだまだ山城が中心の時代、伊勢には平城である神戸城、津城、田丸城に天守がそびえていました。
いざという時に砦になる寺 八事・興正寺
本丸に小学校校庭があった鳥羽城
鳥羽駅から歩いてすぐの所にある城山公園は昔の鳥羽城跡。
鳥羽城を造ったのは九鬼水軍で有名な九鬼嘉隆で海に浮かんだような城でした。城の大手門があったのが現在の鳥羽水族館のところで、当時は海。つまり海を向いた大手門になっていました。さすがに九鬼水軍です。城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城(錦城)とも呼ばれました。
本丸跡が一番高いところにあったのですが、以前は鳥羽小学校の校庭で自由に立ち入れませんでした。2009年に鳥羽小学校が校舎の老朽化を理由に移転したので、発掘調査が行われ天守跡などが確認され、九鬼水軍の城として整備されています。
校舎は一段低い、二の丸にあり、校庭が一番高い本丸にあります。本丸からの眺めは鳥羽が一望でき、神島なども見え最高です。考えてみたら毎日、城跡に通えなかなか贅沢な小学校だったんですね。もっとも平山城と言いながら階段を登って毎日、本丸まで行かないといけないので大変ですね。
民家が立ち並ぶ古墳にあった城(丹下城)
河内松原にある古市古墳群の巨大前方後円墳「大塚山古墳」。全長335メートルあり日本で5番目の大きさの古墳です。昔は丹下城が墳丘内に築かれていました。
古墳が城に使われることは多く、古市の高屋城もそうですし、山崎の合戦では明智光秀が恵解山古墳に本陣をかまえました。大坂冬の陣では茶臼山古墳が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村が本陣にしていました。継体天皇陵ではないかと言われている摂津の今城塚古墳も織田信長が三好家を攻める時に築いた城と言われています。それで今城という名前がついています。
丹下城ですが北朝側に組みする丹下氏の城郭で、南北朝時代から戦国時代まで使われていたようです。織田信長によって城は壊されました。
江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には村の氏神さんである天満宮が祀られました。古墳の中に民家が立ち並んでいたんですね。ところが、大正14年に陵墓参考地になってしまい民家は古墳の外に立ち退きとなってしまいました。古墳に民家が立ち並ぶところは見てみたいですね。
住宅街に土塁が残る高屋城(古市)
阿倍野で仕事でしたので、阿部野橋駅から近鉄南大阪線で古市駅へ。阿倍野橋駅の横にあるのがアベノハルカスです。
古市駅から少し歩いたところにあるのが安閑天皇陵。この古墳が戦国時代は高屋城の本丸でした。高屋城はもともと応仁の乱後に畠山義就が築いた城です。古市は河内長野から高野山へ抜ける道、穴虫峠から奈良へ抜ける道の接点でもあり、交通の要所でしたから30回以上も城主が入れ替わっている城です。
奈良から大阪へ大勢の軍隊が入ろうとすると生駒山脈が連なっていますので、北の枚方方面から入るか南の穴虫峠からしか入れません。ですので壬申の乱では近江軍と大海人皇子軍との戦いや大坂夏の陣では後藤又兵衛が敗れた戦いなどが行われました。最後は織田信長に攻められて落城し、廃城になりました。
城跡ですが天皇陵以外はすっかり住宅地になっています。本丸以外に二の丸、三の丸がありましたが、こちらも住宅地。ただ地名は城山になっています。不動坂という近鉄の踏切があるところがありますが、ここだけは土塁が残っていました。写真の左手は5メートルほど。右手はほとんど残っていませんでしたが、こっちは10メートル以上の土塁でした。ここに不動坂門があり、信長にこの門を突破されて落城してしまいました。
踏切近くで写真を撮っていたら、ドライバーが怪訝な顔をして見ておりました(笑)まあ単なる土の山ですからねえ。
信長が清洲城から小牧城に移った理由
織田信雄が伊賀攻めの拠点にしようとした丸山城
近鉄・伊賀神戸駅から北上する伊賀鉄道に乗ると3つ目の駅が丸山駅。駅のすぐ近くにこんもりとした山があり、ここが丸山城跡。
信長が伊勢国司だった北畠を攻め、むりやり織田信雄を北畠に養子に送り込み伊勢を支配しました。織田信雄は映画・清州会議では妻夫木聡が演じていたバカ殿です。
丸山城はもともと北畠が城を作っていましたが、伊勢の次に伊賀を領国にしようと家臣である滝川雄利に命じて、大幅修正します。天守まである大きな城でした。
驚いたのが伊賀の郷士達。城が完成するまでに攻めようと総攻撃を開始。不意を突かれた滝川雄利は伊勢へ逃げ帰ります。翌年、織田信雄は軍を伊賀へ進めますが、敗退してしまいます。第一次天正伊賀の乱です。
敗戦を知った信長は激怒。勝手に軍を動かして、しかも敗退するとは親子の縁を切るとまで言われています。織田信雄がバカ殿と言われるゆえんの一つになっています。ですが京都に近い伊賀をそのままにするわけにもいかず、信長は伊賀の殲滅戦を行います。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀は焦土になりました。
丸山城は曲輪跡もよく残っていて、天守のあった所には丸山城の碑が建っています。石垣もあったのですが伊賀鉄道を通すときに持ち運ばれたそうです。道も割と整備されて山城にしては歩きやすいのですが、蜘蛛の巣だらけなのが難点。