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新幹線で掛川駅を通過する時、窓から見えるのが掛川城。駅のすぐそばの丘の上にあります。いつも新幹線で見かけるたびに、いつか行きたいなと思っておりました。
掛川城の城主は今川時代から変わっていきますが、一番有名なのが司馬遼太郎「功名が辻」の山内一豊。関東へ移した徳川家康を牽制するために秀吉が掛川城に配置します。秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは家康側で戦い、その功によって土佐の大名となりました。
掛川駅から商店街を少し歩くと掛川城の入口。太鼓櫓がみえ、脇を通ると天守への登り道があります。天守の上は眺めがよく、晴れた日には富士山も見えるようですが、あいにくの曇り。ただ風がよく通り、涼しいですね。
二ノ丸御殿が現存しており、こちらは江戸時代に再建されてもので重要文化財になっています。中を見学でき、御殿の裏側には当時の土塁が残っていました。
カテゴリー: 城・山城
駿府城
池田城
尼崎城
超昇寺城
佐紀城の横に御前池があるのですが、対岸にあるのが超昇寺城。室町時代に作られたようで戦国時代は筒井方、松永久秀方の争いに巻き込まれ松永方についたり、筒井方についたり大変だったようです。
大和西大寺駅からみると佐紀城も少し高台になっていますが超昇寺城は、それ以上の高台になっています。佐紀城は超昇寺城の出城だったのではという説もあります。
佐紀城を見てから対岸の超昇寺城へ行きましたが、こちらは竹藪だらけ。外から見たら森にしか見えませんが中には土橋、空堀、郭、土塁、櫓台が残っていました。ただし竹藪の中を押し入らないといけないので、大変。けっこう大きな城で、現在は住宅地になっているところも郭だったようです。まあ、スーツ姿で行くところではありませんなあ。
藪が大変なので、この手の城へ行くのはしばらく無理ですねえ。はやく寒くならないかなあ。
大極殿から徒歩3分のところにあると佐紀城
平城京跡には時々行っているんですが、まさか大極殿から徒歩3分のところに城があるとは知りませんでした。専門家派遣の後に時間があったので西大寺駅から歩いて行ってきました。
場所は大極殿のちょうど北側。平城京時代の柱跡が植木で再現されているのですが、その北側に佐紀神社があります。ここが佐紀城跡。あまり大きな城ではないのですが社殿があるところが郭で、櫓台らしきものの跡や空堀跡がありました。室町時代に作られた城です。
神社のすぐ南が佐紀幼稚園で、ここから大極殿がよく見えます。ちょうどお迎えの時間帯のようでお母さん方が子供を迎えに来ていたのですが、ヘンなおじさんがヤブなどを熱心に見ているので不審に思ったでしょうねえ。ヤブの奥に空堀があるんです。
それにしてもさすがは奈良ですね。奈良公園の中にも城があったし、平城京跡のすぐ近くにもあるんですね。
神戸の大都会にある花隈城
ひょうご産業活性化センターで窓口相談。
お昼休みに三宮駅からJR沿いに元町駅の方へ歩きました。元町駅の途中ぐらいから2階建分ぐらいの思いっきり坂になります。ずっと高台になっていて、少し行くと花隈公園。片道20分ぐらいですね。吉野家の牛丼を食べたらぴったし1時間でした。
花隈は鼻隈と言ったそうで、六甲山の丘陵が海に突き出ている様子を「鼻」と言ったそうです。ここが花隈城跡。誰が築いたかは分かりませんが織田信長が毛利氏対策として荒木村重に命じて築城させたようです。本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城で元町駅あたりはずっと城でした。
荒木村重が織田信長を裏切って有岡城の戦いが起きます。来年の大河ドラマが黒田官兵衛ですが、荒木村重を説得に行った黒田官兵衛ですが、うまくいかず、城の中に幽閉される事件が起きた戦いです。
花隈城も荒木村重の支城でしたので、織田方に攻められ落城。その後は兵庫城が海沿いに作られ花隈城は廃城になりました。城跡といっても碑しかなく模擬石垣や模擬天守があるだけです。ですが、けっこうな高台ですので、今はビルで見えませんが当時は海もよく見えたでしょうね。神戸ポートタワーの先が見えていました。
飯盛山城
昨日は野崎城を見た後、そのままハイキングコースに入って飯盛山頂上へ登ってきました。
天気予報は曇りでしたので、雨はそのうち止むだろと思っていたら、だんだんひどくなってきます。引き返すのもしゃくだし、ぬかるんだ山道をえっちら登っておりました。さすがに誰も登っていません。
飯盛山山頂には四条畷の戦いで戦った楠木正行の銅像が建っています。この頂上付近が飯盛山城の本丸で、郭跡が残っていますが、飯盛山城は連郭式になっていて、かなり広大。所々には崩れた石垣が残っていました。
こんな日に誰もいないと思っていたら雨の中をもう一人登っているおじさんがいて、一般人は絶対に気にしない郭跡などを見ていました。飯盛山城を見にきたようで同好の士ですなあ(笑)
飯盛山城は河内平野を見下ろす山城のため、太平記の時代からありました。有名な四条畷の戦いもここが舞台の一つでした。飯盛屋城は歴史の舞台にたびたび登場し、信長よりも先に京都を掌握した三好長慶の居城になったり、最後は織田信長によって落城させられ廃城になったようです。
野崎城
野崎と言えば桂春團治の十八番「野崎詣り」、上方落語の舞台です。野崎観音のある慈眼寺への参詣を野崎詣りと言いました。
JR学研都市線の野崎駅から少し歩くと野崎詣りの慈眼寺があります。。寺の入口はえっちらおっちら石段を登った高台にあります。寺の裏側からハイキングコースがあり、寺の裏山へ登ることができます。少し登ったところにあるのが野崎城跡。野崎詣りをする人は多いのですが、こんな雨の日に城跡に登っている酔狂な人間はさすがにいませんね(笑)
城跡は何も残っていないんですが郭跡などはそのまま見晴らし台になっています。堀切があるのですが、かなり深くなっていました。
太平記に南朝側の楠木正行に対峙するための北朝側が陣をひいたと記録があります。戦国時代にもいろいろな文献に登場しますので合戦の舞台によくなったようです。確かに城跡からは四条畷や野崎が一望でき、戦略上の要害だったようです。
筒井城
近鉄・大和八木駅から西大寺駅に向かう途中、筒井駅という普通しか止まらない駅があります。高架駅になっています。
駅の横が商店街になっていますが、かって一帯は筒井城という平城でした。室町時代~戦国時代の筒井氏の居城。筒井氏で有名なのが筒井順慶です。洞ヶ峠の逸話で有名ですが実際は山崎の合戦への強力を頼んだ筒井順慶を明智光秀が洞ヶ峠で待っていたのが真相のようです。筒井康隆が小説「筒井順慶」を書いていますが筒井一族というわけではなく同じ姓だからのようです。
筒井城は大和の中心地にありますので、しばしば戦場の舞台となり攻城戦が5回もありました。信貴山の松永久秀などともよく争っていました。
筒井城の中心部は蓮根畑になっていて「シロ畠」という名前がついています。筒井の殿様が住んでいたので遠慮して家を建てないと伝承され、現在も畑のままです。ちょうど発掘調査をしていました。城跡は残っていませんが、堀の跡が水路になっているなど、現在も当時の城の様子をうかがえる箇所がいくつかあります。
筒井順慶は織田信長の部下となり筒井城から大和郡山城に移ります。筒井順慶は若くして亡くなりますが、筒井氏は秀吉の時代に伊賀上野に移封。やがて藤堂高虎が大坂の陣に備えて、伊賀上野城を築きますが、その前にあったのが筒井の伊賀上野城。現在も筒井時代の天守閣があった場所などが伊賀上野城に残っています。ちょっと分かりにくい場所なので、誰も行きません(笑)