有岡城(伊丹城)

arioka201205.jpg法事が伊丹市であったので朝から出かけてきました。法事が終わってからJR伊丹駅の目の前にある有岡城へ。

織田信長に所属していた荒木村重が突然謀反を起こし、伊丹城の戦いとなりましたが、この舞台となったのが有岡城です。と言っても本丸跡が公園として少し残っているぐらいですが、堀跡や土塁跡を見ることができます。都会のど真ん中によく残っていますね。

荒木村重を説得に有岡城へ行った黒田官兵衛が捕えられてしまい城の中の牢獄に1年間投獄されてしまいます。黒田官兵衛は息子の黒田長政を信長に人
質に出していましたが、信長はなかなか帰ってこない黒田官兵衛を裏切ったのではないかと考え秀吉に、人質の黒田長政を殺すように言います。この時、竹中半
兵衛が信長の命に逆らって黒田長政を匿うというシーンはよく時代劇などで描かれています。

有岡城は城下町を含めた惣構えになっていて、町の周りが土塁や堀で囲まれた大きな城でした。今のところ日本最初の惣構えのようです。さすがの信長も攻めあぐね、最後は城内からの裏切りで落城します。

北の端には「岸の砦」があり、現在の猪名野神社と考えられています。行ってみると神社の中には土塁跡が残っていました。JR伊丹駅と阪急伊丹駅のちょうど真ん中が惣構えの範囲にすっぽり入っています。

清洲城

kiyosu201204.jpg新大阪から新幹線に乗って名古屋駅の手前に見えるのが清洲城。

いつも気になっていたので名古屋へ行ったついでに寄ってきました。信長が10年間、居城にした城で、ここから桶狭間の戦いに出陣しました。信長が
本能寺の変で倒れたあとに行われた、織田家の跡目について話し合う清洲会議もここで行われ、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀などが出席していました。

清洲城は織田信雄が継ぎ、天守などを整備しましたが場所は現在の城の対岸側で、当時の石垣の一部が残っていますが、遺構は残っていません。現在の
清洲城は復元され博物館になっていて、発掘された金箔の瓦などが展示されています。名古屋城の櫓の一つに清須櫓があり、これは清洲城にあった天守を移した
ものと言われています。

この清洲城から桶狭間までは距離にして24km。時速6kmで行くと4時間の距離になります。ここで敦盛を舞って出陣する信長は時代劇の定番ですねえ。

物集女(もずめ)城

mozume201111.jpg午前中は向日市で仕事。

午後から向日市をウロウロ。結局、有名な竹の径から戦国時代の城、物集女城まで行ってきました。竹の径は竹林を切り開いた道で、ずっと竹林が続くのは見事でした。ただ舗装ではなく土の道ならもっと風情があるんですが、農道目的なので無理でしょうね。

物集女は「もずめ」と呼び、古い土地です。少し前に「京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城」(文理閣)という本を読んだのですが、室町時代から戦
国にかけて村を統括する土豪が作った城がこの地域にたくさんあり、その一つです。室町幕府の配下で意気盛んでしたが信長の進出で細川藤孝が支配することに
なり、物集女城の主であった物集女氏は勝竜寺で殺されてしまいました。

城跡は住宅地の真ん中にあるのですが主郭は畑の形で残っています。周りには土塁と堀の一部が残っていて、よく現代まで残りましたね。近くに物集女公民館があり、係員に声をかけると復元模型がありますと案内してもらえ、パンフレットをもらいました。

ちょっと離れたところに寺戸城跡がありましたが、こちらは遺構は残っておらず児童公園に碑がたっていました。古城という字が残っているそうです。

開田城跡から勝龍寺城へ

nagaoka201101.jpg午前中は長岡京市でお仕事。名前の通り、平安京の前に作られた長岡京のあったところです。安倍晴明の陰陽師では早良親王の怨霊の舞台となったところです。さすがに長岡京の痕跡は残っていません。

昼過ぎに終わったので阪急長岡天神駅近くの商店街を歩いていたら、バス停のすぐ近くにちょっと変わった公園がありました。公園といってもポケット公園でイスが置いてあるのですが名前が開田城跡公園!

開田城(かいでんじょう)!以前に「京都 乙訓‥西岡の戦国時代と物集女城」という本を読んだのですが、その本で紹介されていた城です。こんな商
店街のど真ん中にあったんだあ!遺構は土塁の一部だけが残っています。後で調べたら敷地跡に建つマンションの1階に開田城の復元模型があるそうで、今度
行ったら見てこよう!

阪急長岡天神駅から少し歩くとJR長岡京駅で、駅前にはムラタ本社があります。ここから少し歩くと勝龍寺城があります。信長の時代は細川藤孝が拠
点としており、ガラシャ夫人が輿入れした城で、11月には長岡京ガラシャ祭が行われるということで城の周りにはノボリが立っていました。

山崎の合戦では明智光秀の拠点となった城で、すぐそばが天王山です。敗れた光秀は勝龍寺城に戻り、夜陰に乗じて城を出て坂本城に向かったのですが途中の山科で殺されてしまいました。

姫路城

himeji201109.jpgいつもは新幹線で通過する姫路駅に初めて下車。駅前商店街が長く、よく賑わっていました。商店街が元気な町はいいですねえ。姫路で午前中は仕事でしたが、午後は予定がなかったので国宝・姫路城へ行ってきました。

2014
年まで大天守保存修理工事ですので、外観は見えませんが天守閣にフードがかぶっていて、エレベーターで上まであがり修理の様子を見ることができます。天守
閣の屋根を外から見るというのは、修理中でないと見られないのでお値打ちです。ただし月曜でも、まあまあ観光客がいましたので土日はけっこう混むでしょう
ね。

巨大な城ですが、町に遺構がよく残っています。お城から少し行ったところに国道2号線が走っているのですが、ここが中堀跡。堀は道路
になっていますが土塁がずっと続いて、ところどころに門跡が残っています。ここまで外部の遺構が残っている城は見たことがないですねえ。家老屋敷跡が公園
になっていたり姫路の町は見どころ満載です。

姫路から長浜行きのJR新快速で大阪へ戻ってきましたが、秀吉はよくこの距離を大返ししましたね。山崎の合戦跡を越えて、秀吉の居城があった長浜までJRが走っているのは、なかなか面白いですなあ。

浜田城(四日市)

hamada201109.jpg四日市駅のすぐ近くにあるのが鵜の森公園。すぐ近くを近鉄内部線・西日野線が走っています。日本で現役で走っているナローゲージで、他には桑名から出ている三岐鉄道北勢線しかありません。

鵜の森公園の中に少し高くなって森になっているところがあり、中にあるのが鵜森神社。この神社、戦国時代は城でした。

戦国時代の城なので江戸時代の天守閣があるような城ではなく周りを土塁で囲んだ簡易な城でした。浜田城という名前で城主は浜田氏。すぐ近くにある
赤堀城主・赤堀氏の一族です。浜田氏は街道を城の東に移し替え、市を立てて四日市の基礎を築きました。城は織田信長の伊勢攻めで滝川一益に攻められ落城
し、廃城となりました。

とは言いながら神社を囲むように北、東、西に土塁が残っています。「私有地につき立入禁止」とあるだけなので土塁と気づいていない人も多いのですが、都会の中に戦国時代の城の遺構が残っているのは珍しいですねえ。

膳所城から瀬田の唐橋へ

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京都橘大学の講義を終え、スクールバスで山科駅へ。京阪電車に乗り換え逢坂山を超え浜大津駅へ向かいます。浜大津駅周辺では道路の真ん中を走る路面電車になります。関西ではだいぶ少なくなったので懐かしいですねえ。浜大津駅から2両編成の昔ながらの京阪電車に乗り換え、膳所(ぜぜ)へ。駅から少し歩くと琵琶湖があります。

この琵琶湖に突き出したようにあったのが膳所城。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、関ヶ原の合戦の舞台となった大津城をやめて東海道のおさえとして膳所城を作りました。当時は琵琶湖に城が映り、名所だったようです。明治になって廃城となり、現在は公園になっていますが、碑以外は残っていません。
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近くの神社には城の門が移築されていました。

なにもない膳所城から琵琶湖沿いを歩いてずっと南へ。琵琶湖沿いにずっと散歩道が整備されていて、なかなか快適ですね。ランニングしている姿や琵琶湖をカヌーで漕ぐ姿が見られます。

だんだん琵琶湖が狭まり、やがて瀬田川になります。瀬田川は宇治あたりから宇治川になり、やがて淀川になって大阪へ向かいます。瀬田川を進み、 JRなどの高架を過ぎていくと瀬田の唐橋があります。東海道新幹線から見える島にかかる2つの橋です。現在の橋の位置には織田信長が移したそうで、古代はもう少し新幹線寄りにありました。

壬申の乱では瀬田の唐橋が最後の激戦地に。この橋を落とされたら一気に大津京ですので、大友王子側も必死だったでしょう。京都を守る要所でもありますので、それ以降も戦いの舞台となっています。

淀君が住んでいなかった淀城へ

yodo2010101.jpg京阪電車の淀駅周辺で高架工事が行われており京都から大阪へ向う側は高架になっています。電車の窓から京都競馬場が見えますが反対側に見えるのが淀城。高架から一望できるようになると、かなり広いことが分かりました。気になっていたので、大学の講義の後に寄ってきました。

地下鉄東西線で六地蔵駅へ出て、宇治川沿いに走る京阪宇治線で中書島へ。ここは坂本竜馬とお龍で有名な伏見の船宿・寺田屋の最寄り駅なのでホームには竜馬の写真などがそこかしこに貼られていました。中書島で乗り換えて一駅目の淀駅へ。

yodo2010102.jpg淀駅のすぐ近くというか、すぐ隣にある淀城へ行ってきました。伏見の船宿ができるように水運の地で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる地です。徳川秀忠が廃城となった伏見城のかわりに建てた城で天主台もしっかり残っています。

淀君の名前の由来となった淀城は、この淀城のすぐ近くにあった淀古城で、こちらの遺構は残っていません。山﨑の合戦の舞台にもなりました。高架の淀駅から見ると村田製作所の本社がすぐ近くに見えました。本社近くに勝竜寺城があり、ここが山﨑の合戦で明智光秀の本城になったところですので、淀城あたりも山﨑の合戦の舞台になったんですね。幕末にも幕府軍瓦解の舞台になったところです。

楠城

専門家派遣というコンサルタントを派遣する制度が支援センターにあるのですが、今日は現場へ行って専門家が行っている支援の様子をチャックしてこいと要請があり、企業さんへ行ってきました。

もっとも単なるオブザーバーなんで、黙って見ているだけです。自分でコンサルティングしている方がよっぽど楽ですねえ。

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場所は四日市の南になる楠町というとこなんですが、近くに楠城があると案内があり行ってきました。川に囲まれ、また昔は海が現在の近鉄線路ぐらいにあり要害の地にあった平城でした。今は碑が残っているだけです。築城は南北朝時代で、最初は信濃の諏訪一族がやがて楠木正成の子孫である楠一族が引継ました。楠町と言う名前はこの楠から来ているそうです。

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城は小牧・長久手の戦いの時に秀吉に攻められて落城しています。

勝龍寺城

都橘大学でWOC認定看護師の講座がスタート。

WOCとは創傷・オストミー・失禁のことで、現役の看護師さんが認定看護師の資格取得のために半年間缶詰状況で勉強をします。全国から来ていて、今日の講座で出身を聞いてみたら北海道から九州までいました。ほんまに全国ですね。年齢は20歳代から40歳代までこちらも様々。

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情報処理の講座は午前中だけでしたので、午後はJRで長岡京駅へ。昔は神足駅(こうたり)と言っていましたが。、1995年に改称されています。駅前には村田製作所のビルが建っています。

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駅から少し歩くと神足神社で、神社の境内に勝龍寺城の土塁や堀跡がそのまま残っています。神社から少し歩くと本丸跡が公園になっています。公園にはなっていますが、よく遺構が残っていますね。勝龍寺城は細川藤孝の城で、境内には細川忠興・細川ガラシャの銅像がありました。

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JR長岡京駅の次の駅が山﨑で、秀吉と光秀が争った山﨑の合戦が行われたところです。勝龍寺城は明智光秀の城になっていました。山﨑は目と鼻の先で、敗れた明智光秀は勝龍寺城の北門から逃げ、山科の小栗栖で亡くなりました。