ようやく足の痛みが治ったので山城登りを再開。ただこの時期から山城はヤブ蚊がすごくなりますので、なるべくヤブの少ない山城を探したところ生駒にありました。
近鉄けいはんな線・学研北生駒駅から奈良交通バスに乗り西庄田で降りて、山を目指します。近畿自然歩道が通っているため、高山城への案内板もあり、また遊歩道も整備されています。高山は南都、山城、河内の三国の境界にあり、中世には鷹山庄という荘園がありました。この高山をおさめていたのが鷹山氏。
鷹山氏は高山氏とも書き、大和の国人の一人で戦国時代、江戸時代を生き抜き、鷹山氏の末裔が城跡を所有していました。平成18年に城跡を再整備するのにあわせ地元に寄贈。それで遊歩道ができたんですね。
遊歩道を登ると九頭龍王社が祀られている2郭に着きますが、主郭はどうも2郭ではなく尾根沿いに進んだ別の郭のようで、そちらに進出。さすがに遊歩道も何も整備されていないので、ヤブに分け入って土塁などを見てきました。井戸跡も残る郭で見応えがあり、おかげで堪能できました。
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市場城(朝倉城)
企業訪問が終わって三岐鉄道の北勢中央公園口へ行くと、電車は出たばっかりで、次の電車が来るまで約1時間。(笑)時刻表を見ると通常は1時間に2本なんですが12時台だけは1本になっていました。
近くのスーパーで弁当を買ってきて駅で食べたのですが、まだ30分あります。駅の地図に城跡の表記があったので城跡へ出かけてきました。(笑)
市場城というお城で駅から歩いて10分ぐらいの竹藪の中にあります。もともとは少し離れたところに朝倉城という城がありました。朝倉というと信長に滅ぼされた朝倉義景の越前朝倉氏が有名ですが、伊勢の朝倉氏は早期の分家のようで同じ朝倉氏一族でした。
この朝倉城を移築したのが市場城。城は地元で守られているようで珍しく城の碑が建っていました。朝倉城を移築したので、碑は朝倉城になっていました。さっそく城跡の竹藪に入ってみましたが、やぶ蚊がすごく、早々に退散。ただ堀跡とかなり高い土塁を見ることができました。ネットで調べると土橋もあり、かなり見応えがありそうなので冬にリベンジですね。
名古屋城がそこにあるワケ
名古屋のテレビ塔がある久屋大通公園から少し歩くと下り坂になっていて台地の上に建っていることがよく分かります。熱田台地と呼ばれている台地で、北の端にあるのが名古屋城。南の端にあるのが熱田神宮です。関ヶ原の合戦のあと、清洲を治めた徳川家康は一大プロジェクト「清洲越し」を決断します。清洲は湿地帯で地震による液状化の跡も残っていて、地震対策のために高台移転を決定したようです。
この時、参考にしたのが大坂城。大坂城の前は石山本願寺があり要衝の地で、信長も攻めあぐねました。石山本願寺は上町台地の北に位置し、北、東、西の守りが比較的にやりやすく、攻めるとすれば台地続きの南側。
大坂城では、ここに惣構を築きました。大坂冬の陣では真田幸村が惣構のさらに外側に真田丸を築き、結局、家康側は惣構の中に攻め込むことができませんでした。国土地理院の標高地形図を見ると一目瞭然ですね。
名古屋城の北側は崖になっていて、しかも湿地帯、江戸時代は矢田川が流れていました。西側には堀川、東側には精進川が流れ、天然の堀になっていました。大坂城と同様に南側に二の丸、三の丸をつくり惣構にしました。