姫路城

himeji201109.jpgいつもは新幹線で通過する姫路駅に初めて下車。駅前商店街が長く、よく賑わっていました。商店街が元気な町はいいですねえ。姫路で午前中は仕事でしたが、午後は予定がなかったので国宝・姫路城へ行ってきました。

2014
年まで大天守保存修理工事ですので、外観は見えませんが天守閣にフードがかぶっていて、エレベーターで上まであがり修理の様子を見ることができます。天守
閣の屋根を外から見るというのは、修理中でないと見られないのでお値打ちです。ただし月曜でも、まあまあ観光客がいましたので土日はけっこう混むでしょう
ね。

巨大な城ですが、町に遺構がよく残っています。お城から少し行ったところに国道2号線が走っているのですが、ここが中堀跡。堀は道路
になっていますが土塁がずっと続いて、ところどころに門跡が残っています。ここまで外部の遺構が残っている城は見たことがないですねえ。家老屋敷跡が公園
になっていたり姫路の町は見どころ満載です。

姫路から長浜行きのJR新快速で大阪へ戻ってきましたが、秀吉はよくこの距離を大返ししましたね。山崎の合戦跡を越えて、秀吉の居城があった長浜までJRが走っているのは、なかなか面白いですなあ。

浜田城(四日市)

hamada201109.jpg四日市駅のすぐ近くにあるのが鵜の森公園。すぐ近くを近鉄内部線・西日野線が走っています。日本で現役で走っているナローゲージで、他には桑名から出ている三岐鉄道北勢線しかありません。

鵜の森公園の中に少し高くなって森になっているところがあり、中にあるのが鵜森神社。この神社、戦国時代は城でした。

戦国時代の城なので江戸時代の天守閣があるような城ではなく周りを土塁で囲んだ簡易な城でした。浜田城という名前で城主は浜田氏。すぐ近くにある
赤堀城主・赤堀氏の一族です。浜田氏は街道を城の東に移し替え、市を立てて四日市の基礎を築きました。城は織田信長の伊勢攻めで滝川一益に攻められ落城
し、廃城となりました。

とは言いながら神社を囲むように北、東、西に土塁が残っています。「私有地につき立入禁止」とあるだけなので土塁と気づいていない人も多いのですが、都会の中に戦国時代の城の遺構が残っているのは珍しいですねえ。

膳所城から瀬田の唐橋へ

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京都橘大学の講義を終え、スクールバスで山科駅へ。京阪電車に乗り換え逢坂山を超え浜大津駅へ向かいます。浜大津駅周辺では道路の真ん中を走る路面電車になります。関西ではだいぶ少なくなったので懐かしいですねえ。浜大津駅から2両編成の昔ながらの京阪電車に乗り換え、膳所(ぜぜ)へ。駅から少し歩くと琵琶湖があります。

この琵琶湖に突き出したようにあったのが膳所城。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、関ヶ原の合戦の舞台となった大津城をやめて東海道のおさえとして膳所城を作りました。当時は琵琶湖に城が映り、名所だったようです。明治になって廃城となり、現在は公園になっていますが、碑以外は残っていません。
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近くの神社には城の門が移築されていました。

なにもない膳所城から琵琶湖沿いを歩いてずっと南へ。琵琶湖沿いにずっと散歩道が整備されていて、なかなか快適ですね。ランニングしている姿や琵琶湖をカヌーで漕ぐ姿が見られます。

だんだん琵琶湖が狭まり、やがて瀬田川になります。瀬田川は宇治あたりから宇治川になり、やがて淀川になって大阪へ向かいます。瀬田川を進み、 JRなどの高架を過ぎていくと瀬田の唐橋があります。東海道新幹線から見える島にかかる2つの橋です。現在の橋の位置には織田信長が移したそうで、古代はもう少し新幹線寄りにありました。

壬申の乱では瀬田の唐橋が最後の激戦地に。この橋を落とされたら一気に大津京ですので、大友王子側も必死だったでしょう。京都を守る要所でもありますので、それ以降も戦いの舞台となっています。

淀君が住んでいなかった淀城へ

yodo2010101.jpg京阪電車の淀駅周辺で高架工事が行われており京都から大阪へ向う側は高架になっています。電車の窓から京都競馬場が見えますが反対側に見えるのが淀城。高架から一望できるようになると、かなり広いことが分かりました。気になっていたので、大学の講義の後に寄ってきました。

地下鉄東西線で六地蔵駅へ出て、宇治川沿いに走る京阪宇治線で中書島へ。ここは坂本竜馬とお龍で有名な伏見の船宿・寺田屋の最寄り駅なのでホームには竜馬の写真などがそこかしこに貼られていました。中書島で乗り換えて一駅目の淀駅へ。

yodo2010102.jpg淀駅のすぐ近くというか、すぐ隣にある淀城へ行ってきました。伏見の船宿ができるように水運の地で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる地です。徳川秀忠が廃城となった伏見城のかわりに建てた城で天主台もしっかり残っています。

淀君の名前の由来となった淀城は、この淀城のすぐ近くにあった淀古城で、こちらの遺構は残っていません。山﨑の合戦の舞台にもなりました。高架の淀駅から見ると村田製作所の本社がすぐ近くに見えました。本社近くに勝竜寺城があり、ここが山﨑の合戦で明智光秀の本城になったところですので、淀城あたりも山﨑の合戦の舞台になったんですね。幕末にも幕府軍瓦解の舞台になったところです。

楠城

専門家派遣というコンサルタントを派遣する制度が支援センターにあるのですが、今日は現場へ行って専門家が行っている支援の様子をチャックしてこいと要請があり、企業さんへ行ってきました。

もっとも単なるオブザーバーなんで、黙って見ているだけです。自分でコンサルティングしている方がよっぽど楽ですねえ。

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場所は四日市の南になる楠町というとこなんですが、近くに楠城があると案内があり行ってきました。川に囲まれ、また昔は海が現在の近鉄線路ぐらいにあり要害の地にあった平城でした。今は碑が残っているだけです。築城は南北朝時代で、最初は信濃の諏訪一族がやがて楠木正成の子孫である楠一族が引継ました。楠町と言う名前はこの楠から来ているそうです。

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城は小牧・長久手の戦いの時に秀吉に攻められて落城しています。

勝龍寺城

都橘大学でWOC認定看護師の講座がスタート。

WOCとは創傷・オストミー・失禁のことで、現役の看護師さんが認定看護師の資格取得のために半年間缶詰状況で勉強をします。全国から来ていて、今日の講座で出身を聞いてみたら北海道から九州までいました。ほんまに全国ですね。年齢は20歳代から40歳代までこちらも様々。

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情報処理の講座は午前中だけでしたので、午後はJRで長岡京駅へ。昔は神足駅(こうたり)と言っていましたが。、1995年に改称されています。駅前には村田製作所のビルが建っています。

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駅から少し歩くと神足神社で、神社の境内に勝龍寺城の土塁や堀跡がそのまま残っています。神社から少し歩くと本丸跡が公園になっています。公園にはなっていますが、よく遺構が残っていますね。勝龍寺城は細川藤孝の城で、境内には細川忠興・細川ガラシャの銅像がありました。

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JR長岡京駅の次の駅が山﨑で、秀吉と光秀が争った山﨑の合戦が行われたところです。勝龍寺城は明智光秀の城になっていました。山﨑は目と鼻の先で、敗れた明智光秀は勝龍寺城の北門から逃げ、山科の小栗栖で亡くなりました。

 

戦国の城 渋見城

1日中小企業庁が行われた三重県総合文化センターの裏にはあまり知られていませんが戦国の城「上津部田城」があります。郭が一つ残っているだけですが土塁や堀跡が残っていて、なかなか見応えがあります。ただ案内も何もないので、知る人ぞ知る城になっています。

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すぐ近くに峯治城があったのですが、こっちは完全に破壊されて今はマンションになっています。また三重県総合文化センターから少し行くと三重テレビやFM三重があるのですが、この近くにあったのが渋見城です。津を支配していた工藤氏の城で、織田信長の伊勢侵攻に備えて作られました。

sibumi2.jpg伊勢侵攻では織田信包の軍に包囲され破れました。ちょっと昔の写真を見ると堀跡なども残っていたようですが、今は住宅地になって完全に破壊されています。公園があって碑だけが残っています。

織田信長が元服した古渡城

昼から名古屋ソフトウェアセンターで会議

金山駅で降りて、駅近くでセルフサービスの讃岐うどんを駆け込んでから、時間があったので歩いて10分ぐらいのところにある東本願寺名古屋別院へ。

でっかい山門と本堂がありました。大きいですね。
境内に入って左手を見ると、ありました! 古渡城の碑が。
古渡城は織田信長の父親である信秀が作った城です。当時は東西140メートル、南北100メートルで周囲に二重の堀を巡らせていたそうです。今は碑だけで何も残っていません。

信長が13歳の時、ここで元服をしました。 信長の生まれた那古野城(名古屋城の前身)から、そんなに遠くない所にあったんですね。少し行ったら熱田神宮です。 そういえば若い女性に戦国武将や三国志が流行っているそうですが、こんな場末の城まで来るモノ好きはさすがにいないでしょうね。(笑)

津にある戦国のお城跡(上津部田城)

今日は津駅から少し山手に入った三重県総合文化センターに行ってきました。
三重県総合文化センターは県文(けんぶん)と略称で呼ばれており、文化会館、生涯学習センター 、男女共同参画センター、三重県立図書館、放送大学三重学習センターからなる複合施設で、えらく近代的な建物です。
私も最近まで知らなかったのですが県文の横に戦国時代のお城跡が残っています。少し時間があったので、男女共同参画センターの奥にある上津部田城を見てきました。 男女共同参画センターから遊歩道を進んでいくと下り坂があります。これが堀跡です。土塁を登ると主郭のあったところで、ここが城の中心でした。
虎口には門も築かれていました。主郭の周りには土塁が築かれ、周りは空堀になっています。誰が城主だったかは分かっていませんが、築かれたのは戦国時代ですので、信長の伊勢侵攻の舞台になったかもしれません。 <発掘後、整備され建物跡には柱の位置や井戸を復元されています。それにしても近代的な建物の横に、こんな戦国時代の城が残っているんですね。

戦国時代の土塁が残る(京都・山科)

京都橘大学、秋期講座の最終日。

今日は2講時目からで、時間があったので山科中央公園へ寄ってきました。

山科駅から地下鉄で一駅目が東野駅です。地上に上がると国道1号線と新幹線が走っています。

この東野駅から北西に少し行ったところが山科中央公園で、ここに山科本願寺の土塁が残っています。蓮如の時代です。寺といっても戦国時代ですので土塁や堀に囲まれた城で、中は寺内町になっていました。公園の一角が小山になっていて、これが戦国時代の土塁です。今もしっかり残っていて遊歩道として整備され歩くことができます。堀跡もありグラウンドになっています。土塁はけっこう高いですね。7mぐらいの高さで50mほど続いています。
戦国時代はこの土塁がずっと新幹線の高架を越えた向こうまで続いていました。山科本願寺は延暦寺、近江守護,法華一揆などの連合軍の猛攻によって陥落。これ以降は大阪の石山本願寺に移りました。すぐ近くには蓮如のお墓もあります。