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今日は午後から専門家派遣で、午前に少し時間があるので安濃城を見に行こうと津新町駅でバスを待っていましたが、待てど暮らせどバスは来ない(笑)
こんな大雪の日に時間通り来いといっても無理な話で、おまけに1日に何本かしかないバスなので帰りのことも考えて断念。早めに三重県総合文化センターへ移動して、奥にある上津部田城を見てきました。雪に埋もれたお城もいいもんです。
三重県総合文化センターにはホールや図書館があって有名で、来られる方も多いのですが戦国時代の城が今も残っていることはあまり知られていません。館内案内にも城跡は載っていないので知る人ぞ知る城です。と思ったら春風亭昇太氏のブログに三重県総合文化センターの落語会のついでに上津部田城をダッシュで見に行ったという記事があがっていました。
上津部田城(こうつべたじょう)は戦国時代の城ですが、城主については記録に残っていません。発掘の結果、戦国時代に作られて数十年使われたようです。三重県総合文化センターがあるあたりは丘陵地になっていて西には渋見砦があり、織田信長の伊勢進攻で滝川一益が兵を入れたという記事が信長公記に出てきます。
上津部田城のすぐ近くには峯治城があったのですが、こっちはマンションになっています。上津部田城もすべてが残っておらず主郭と取り囲む土塁と堀切、隣の郭の一部が残っています。戦国時代はもっと郭がありましたが、三重県総合文化センターが建てられる時に壊されてしまいました。虎口も残っていて深さ4mほどの堀切はなかなか見応えあります。でも安濃城、見に行きたかったなあ。
カテゴリー: 城・山城
桐ケ谷城 三重県・青山町
青山町駅の北側に城氏城がありますが南側にあるのが桐ケ谷城。
桐ケ谷城も青山町駅のホームから見えていて、鉄塔が建っている山です。坂を登り、山に着いたら道なきヤブの中を登っていきますが城氏城ほど急ではありません。ですがスーツ姿で登るのはあまり、おすすめしません、(笑)
頂上に方形郭で四方が土塁と堀に囲まれた城があらわれます。かなり崩れていますが土塁の高いところは5メートルぐらいありました。郭の中はけっこう広いのですが、ヤブ状態。木に青いパネルがつけられており、伊賀の山城ではこの青いパネルに城の名前が書かれていて本丸跡の目印になります。もっともパネルに桐ケ谷城の字は見えないぐらいになっていました。
城の記録は残っていないようですが、すぐ近くに初瀬街道(奈良と伊勢を結ぶ街道)があり、街道のすぐ山側に阿保城(あおじょう)があります。聖武天皇の阿保頓宮があったとことも言われています。
桐ケ谷城は阿保城のすぐ裏手の山なので阿保城の詰城か支城だったのでしょう。城氏城が初瀬街道の向こう側に見え、青山町の街道宿は城氏城、桐ケ谷、阿保城の3つの城が連携して守っていたのでしょう。
城氏城 天正伊賀の乱の舞台
専門家派遣の帰りに近鉄・青山町駅で下車。
青山町駅のホームからすぐ北に小山が見えていて日生学園の看板がかかっていますが、ここが城跡。低い山なのでスーツで大丈夫だろうと、登りはじめましたが、これが大きな間違い(笑)。途中からヤブだらけの崖をエッチラオッチラ登ることになってしまいました。
城を探索して帰りに分かったのですが、登るのなら山沿いの西に舗装されていない道の途中に山から水が流れているところがあり、ここからだと比較的、簡単に山に登れます。たぶん大手道だったんでしょう。本丸近くまで水の流れが続いていて、籠城するなら水の確保はとても重要です。現在まで水の流が続いているとなると、かなり考えて縄張したのでしょう。
この城は城氏の城ということで城氏城という名前になっています。城八太夫という人物がいて、信長と戦った天正伊賀の乱について書かれた伊乱記に名前がでてきます。城氏城も天正伊賀の乱の舞台だったようです。青山町は青山高原を超えたところにあり、伊勢から北畠(織田)信雄が攻めると、ちょうど伊賀への入口にあたりますので、いの一番で攻められたんでしょう。
いくつかの郭と本丸を取り巻く堀と土塁がなかなか見事でしたが本丸は狭かったです。歩いて15歩ほどしかありませんでした。
茶臼山古墳 真田幸村の陣跡
今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。
和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。
茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。
ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。
真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。
茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。
大坂国誕生の地 真田丸
人は見たいものしか見ない 鷹尾城跡
太平記の舞台 摩耶山城
暮もおしつまっているのに山城に登ってきました(笑)
場所は神戸にある摩耶山。王子公園駅で降りて、坂道をひたすら上がり、上野道という登山道を登ってきました。摩耶ケーブルの終着点「虹の駅」あたりから、ずっと城跡になっています。と言っても見た目は単なる山道です。山道横の丘を登ると、そこが曲輪跡になっていて、山道を上から攻撃できるようになっています。
大晦日前日なのに歩いているハイカーが多いですね。もっとも皆さん、山歩きを楽しんでいるようで山城跡を見ているような酔狂な人物はおりませんでした。山道からは六甲アイランドやポートアイランドなどが一望できます。
摩耶山城を造ったのは赤松則村。南北朝時代に活躍した人物で、鎌倉幕府(京都の六波羅探題)を倒すため播磨国で挙兵。摩耶山麓に陣を構える六波羅探題軍を破り、摩耶合戦として太平記に書かれています。足利尊氏の湊川の戦にも協力し、足利幕府を支えることになります。
この赤松氏ですが室町幕府6代将軍足利義教を暗殺します。日本史で習った嘉吉の変(かきつのへん)ですが、恐怖政治を行っていた将軍でしたので、自分の側についてくるものがいるだろうという目算もありました。結局、誰も賛同せず幕府方討伐軍に敗れて討たれてしまいました。
昔、観光エレベータがあった日和山の山城(鳥羽)
子供の頃、鳥羽へ行くと楽しみは観光船で行くイルカ島と日和山展望台の観光エレベータ。観光エレベータは鳥羽駅のすぐ横にありました。10名ぐらいは乗れたと思いますが、ヨーロッパにあるような鉄製の外から丸見えで風通しのよいエレベータです。これで50メートルほど上がると日和山展望台につき鳥羽の海が一望できました。調べたら昭和9年にできたエレベータなので戦前のもの、よくエレベータなんか作りましたねえ。残念ながら昭和49年に鳥羽駅が火事となり、この時にエレベータも燃えてしまって撤去されてしまいました。
江戸時代、鳥羽を出航すると一気に遠州灘を渡りきり、伊豆の下田まで避難できる港がなかったため天候を見定める必要がありました。白子を出航した大黒屋光太夫は暴風に巻き込まれて、遠くアリューシャン列島まで流されてしまいました。鳥羽で天候を見定める場所だったのが日和山。
観光エレベータがなくなったので今は登山口を登らないといけません。鳥羽駅の裏側からも登れますが、鳥羽市街の賀多神社からも登れます。こちらから登ると鳥羽城が見え、やがて登山道の横に藪だらけの廓がいくつも見えます。上まで登ると高台になっているところがあり、ここが戦国時代の城の本丸跡。泊浦城(取手山砦)で九鬼嘉隆が志摩を平定する前、志摩地域に勢力を持った海賊衆の盟主的存在であった橘宗忠の城。鳥羽が一望できますので出入りする船から関銭を徴収する監視場所にしていたようです。九鬼嘉隆が平定した後は居城にしていたようで、後に鳥羽城を造り、居城を移しました。
日和山の尾根沿いに曲輪が拡がっており、よくみると櫓が建っていたような跡や虎口が見えます。一番先に行くと見晴台になっていて、ここが観光エレベータで上がって来た時に鳥羽の海を見た場所。よく見ると曲輪になっていて、ここで戦国時代に船を監視していたんですなあ。
交通の要所だった田丸城(清州会議)
今は1時間に1本程度しか列車が止まらないJR田丸駅。田丸駅から少し歩いた所に田丸城跡があります。石垣や土塁が見事に残っています。
戦国時代は交通の要所でした。奈良と伊勢を結ぶ初瀬街道(伊勢本街道)、そして紀州へと続く熊野古道が交わる所で、城からは伊勢の街がよく見え、伊勢神宮を抑える戦略的要衝でした。城を造ったのは伊勢国司であった北畠。
ところが織田信長の伊勢進攻によって北畠は敗退。養子として二男の織田(北畠)信雄が送り込まれ、田丸城は織田(北畠)信雄の居城となり、天守が造られます。
映画「清州会議」ではバカ殿として描かれた人物で妻夫木聡が演じていました。伊勢は尾張の隣ということもあり織田信長が美濃と同時におさえようとした国です。まずは鈴鹿の有力氏族だった神戸氏に、養子として三男の織田(神戸)信孝を送り込み、神戸城に天守を築きます。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。かしこい方です。
津城には信長の弟である織田信包が入り、城を整備し5重天守と小天守を造ります。映画「清州会議」では伊勢谷友介が演じていて、映画の最後では秀吉に向かって「織田家を乗っ取れ」とか格好いいセリフを言ったりします。映画に出てくる3人の織田家の人物が伊勢に揃っていたんですね。
まだまだ山城が中心の時代、伊勢には平城である神戸城、津城、田丸城に天守がそびえていました。
いざという時に砦になる寺 八事・興正寺
名古屋の繁華街・栄から城下町を斜めに走っているのが飯田街道。碁盤目の街を斜めに通っているので、城下町では珍しい3方向の道が交差する複雑な交差点がそこらへんに生まれます。
飯田街道は徳川家康が作った、尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道で、途中の豊田から南下すると岡崎に到達します。つまり西から攻められ名古屋城が落城すると飯田街道を通って次に岡崎城が狙われます。そこで一気に岡崎を攻められないよう八事に砦が作られました。大坂の陣は終わりましたが、まだまだ戦国時代の気風が残っている頃です。
飯田街道は栄から吹上を通り、最初の山が八事山。八事と言えば現在は高級住宅街ですが、江戸時代は名古屋の東の端でした。八事にあるのが五重塔で有名な興正寺。五重塔は愛知県では興正寺にしかありません。
興正寺は西山と東山に分かれていて五重塔など主要な伽藍は西山にありますが、東山が小高い山になっていて、こちらが砦の役割をもっていました。峠道(飯田街道)に面した所には東山門(黒門)があります。名古屋城から移築された出丸門で、両側が格子になっていて弓や鉄砲が撃てるようになっています。門の前には堀がありましたが、現在は埋め立てられて飯田街道の一部になっています。
東山門を入ると坂になっていて、まっすぐ侵入されないようS字の蛇腹道になっています。もっとも名古屋城を落城させるような敵なら、興正寺は小さな平山城程度ですので簡単に落とされるので岡崎で戦闘準備を整える時間稼ぎにしかなりません。東山は公園となり散歩コースになっています。
興正寺の近くには隼人池があり、江戸時代に尾張藩の家老成瀬隼人が新田開発のために整備したため池です。成瀬家と言えば、犬山城城主で明治維新後も、そのまま城主を勤め、2004年まで国宝・犬山城を代々私有していたことで有名です。