豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。
いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。
神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。
戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと
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城巡りシーズン到来
生きている間に日の目を見ない修理記録
松江城

せっかく出雲まで行ったので荒神谷遺跡まで足をのばそうという話があったのですが出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館へ行ったら、荒神谷遺跡の鉄剣がずらっと壁一面に並んでいました。おまけに加茂岩倉遺跡の銅鐸も勢揃い。こりゃ、現地まで行かなくてもいいなとなったので行先を松江に変更。
まずは定番の松江城へ。昔、三重県中小企業診断協会の旅行で松江へ行ったのですが時間の都合で城が見られなく、そのリベンジです。もっともAll Aboutのガイド記事「戦国武将とシステム作り」シリーズのイメージ写真になりそうな所ばかり撮っていました。
名古屋城 本丸御殿
名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ

名古屋の中心部を斜めに走るのが飯田街道。
主要道路を斜めに横切るので都会では珍しい五道の辻がいたる所にできています。これが名古屋で道に迷う遠因にもなっています。飯高街道は飯田ろ結ぶ目的があるのですが別名、駿河街道、岡崎街道とも言われ、徳川家康の命により軍事・産業用道路として整備されました。
まっすぐ進むと岡崎に行きますので、いろいろと考えられていて、まずは飯田街道沿いの八事(やごと)。近くには名城大学があります。地下鉄の八事がありますが、ここが名古屋から一番近い峠になります。興正寺など寺が整備されていますが、万が一西国から攻められて名古屋城が抜かれた時に迎撃する拠点でした。
尾張藩の重臣を有事の際に陣を構えることがきまっていたそうで興正寺には土塁が残っています。
御器所西城(尾陽神社)
贄崎砲台(津藩のお台場)
津市の岩田川の河口にあるのが贄崎地区。昔は競艇場があり、子供の頃に父親に連れられて行ったことがあります。今はヨットハーバーや、セントレア行きの船が出たりと様変わりしています。
この贄崎から少し川をあがった所に船溜まりがあり、この船溜まりをのぞむ丘の上に贄崎砲台がありました。いわゆるお台場です。戦後まで丘には松が生えていたそうですが、今は影も形もなく青果市場になっています。
ペリー来航以来、国防が意識され、津藩では、幕命を受けて度会郡の二見町に3ケ所砲台を築いていました。志摩は鳥羽藩が台場を築いていました。また津藩は岩田川と塔世川に囲まれた地に城下地がありましたので海の玄関口を守るために贄崎砲台が築かれました。塔世川にかかる塔世橋近くにも西浦砲台が作られます。現在の市町村会館あたりだそうで、こちらも何の痕跡も残っていません。





