肥田城 水攻め

水攻めというと秀吉による備中高松城、紀州太田城、武蔵忍城城が有名ですが、肥田城でも行われました。六角氏側についていた高野瀬氏ですが、敵対していた京極氏を取り込んで勢力を伸ばしていた浅井氏へ鞍替えします。

肥田城 水攻め
肥田城 水攻め

肥田城を六角義賢が水攻めします。肥田城を囲む形で長さ6.3キロメートルの堤防を築き、宇曽川と愛知川の水を引き込んで水攻めしました。秀吉の備中高松城水攻めより23年前のことになります。ところが堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。これは忍城と同じですね。

浅井長政が救援にかけつけ肥田城の西にある野良田一帯で六角氏とぶつかり(野良田表の合戦)勝利します。これで浅井の勢力が拡がります。肥田城近くに水攻めで使った堤の一部が残っています。

浅井長政が信長によって滅びると高野瀬氏は柴田勝家に仕えますが越前一向一揆に敗れて自害し、ここに高野瀬氏嫡流は断絶となります。

肥田城

雪の中に碑だけ残っているのが肥田城です。城を造ったのは高野瀬氏で近江国愛智郡にあった高野瀬村が本貫でした。

肥田城
肥田城

応仁の乱の頃、近江では六角氏と京極氏が争っていました。源流は同じ近江源氏の佐々木氏なんですが仲が悪いんですね。

大永年間(1521~1528)の頃に六角氏の命で高野瀬隆重が肥田城を築きます。宇曽川の湿地帯に築かれた肥田城は典型的な平城で、宇曽川と愛知川を天然の濠としていました。愛知川を境として北を京極氏が、南を六角氏がそれぞれ支配下におきましたので、肥田城は境目の城となり京極氏に対する六角氏の最前線の城になります。

尼子城

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったのが山中鹿介。山中鹿介が奮戦したのが尼子氏再興です。出雲を中心に最盛期には中国八カ国を支配していましたが、毛利に敗れ流浪。織田信長と手を結ぶことになりますが上月城の戦いで滅亡してしまいます。

尼子城
尼子城

戦国大名として有名な出雲尼子氏の祖先は宇多源氏・佐々木氏です。婆沙羅大名として有名な佐々木(京極)道誉の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住したことから、名字を尼子と称しましたので、ここが尼子氏の本貫になります。

尼子城の土塁や堀の一部が残っていますが、折からの豪雪で何も見えず(泣)。雪が降りすぎるのも問題ですねえ。最寄り駅はガチャコン(近江鉄道)の尼子駅です。

応昌寺城

近江塩津駅周辺をGoogleマップで検索すると応昌寺城という文字が!山城だ~あ!

応昌寺城
応昌寺城

ということで情報を調べて出かけてみました。標高146mの小山で塩津小学校の右手に散策道があり、それを登ると公園施設になっていて、そこが城跡という情報です。近江塩津駅から延々と歩いて、塩津小学校へ。情報通り山に登る道がありました。さっそく登るとジャングルジムがあり、どうみても郭跡です。

これは期待できると、先に進むと獣害防止のフェンスに突き当たります。どっかに入口はないかと探し回りましたが、どこにもなく断念。獣害対策で公園どころじゃなくなったんでしょうね。結局、本郭などは見つけられずトボトボと帰りました。

賤ヶ岳砦

賎ヶ岳砦は七本槍で有名な賤ヶ岳の戦いの由来になった場所で余呉湖や琵琶湖が一望できます。現在は展望公園になっていてリフトであがれますが3月はまだリフトが動いておらず、エッチラオッチラと頂上まで登りました。公園整備で城跡はだいぶ破壊されていますが、3つの郭跡が分かり、北側には堀切や土塁もよく残っています。

賤ヶ岳砦
賤ヶ岳砦

賎ヶ岳砦は信長と浅井・朝倉軍が戦っていた時は浅井・朝倉軍が布陣していました。賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉方の砦となり但馬竹田城主の桑山重晴らが守っていました。

賎ヶ岳砦の北側にある大岩山砦を佐久間盛が落城させてから、賤ヶ岳砦の桑山重晴らと対峙していたところに、大垣から急ぎ戻った秀吉軍主力により佐久間軍は撤退します。ところが柴田軍側で参加していた前田利家が戦場離脱をしたことから柴田軍は総崩れとなります。賎ヶ岳砦が戦場になったわけではないのですが一帯が戦場になったため賤ヶ岳の戦いと呼ばれています。

岩崎山砦

中川清秀が守っていた大岩山砦から尾根道をずっと行くと余呉湖近くに岩崎山砦があります。大岩山砦より北側なので柴田勝家との前線に近い砦ですが、ここも大岩山砦と同様に第二次防衛ラインでした。

岩崎山砦
岩崎山砦

砦というより城の規模ですが、土塁などもあまり高くなく郭も整備されていない状態です。案内板に書いていますが最前線でなかったので造っている最中だったかもしれません。守っていたのは中川清秀と同じ摂津衆の高山右近。高槻城の城主です。

大岩山砦を急襲し、中川清秀を討死させた佐久間盛政が次に狙ったのが岩崎山砦。造成中で守りきれないと判断したのか高山右近はさっさと逃げて、田上山城の羽柴秀長軍に合流しました。

大岩山砦(中川清秀 終焉の地)

摂津の茨木を治めていたのが中川清秀。高山右近のイトコでもあります。

中川清秀 終焉の地
中川清秀 終焉の地

荒木村重、高山右近、中川清秀を中心に摂津を治めていましたが、荒木村重の謀反が起きると、信長の説得を受けいれて信長側につきます。本能寺の変が起きた時には高山右近と共に秀吉側につき山崎の戦いで活躍します。翌年、秀吉と柴田勝家との間で賤ヶ岳の戦いが起きた時は二番手として大岩山砦を守っていました。

賤ヶ岳の戦いでは北国街道の両側の山に砦を築いて封鎖しますが大岩山砦はちょうど中間ぐらいの位置でした。油断していたせいか佐久間盛政が余呉湖を迂回し、側面から大岩山砦に攻めあがってきます。中川清秀など摂津衆はここで戦い討死しました。大岩山砦には中川清秀の供養塔が建っています。不思議なのは山の上の砦なので迂回してきた佐久間軍を見つけられなかったのか、東側に山を下って逃げる手もあったのになぜしなかったのかですね。

田上山城

小谷城の北側にあるのが田上山城。

田上山城 角馬出
田上山城 角馬出

■朝倉義景が布陣した城
浅井氏を支援していた朝倉義景が田上山に城を築いて布陣していました。嵐の中、織田信長が親衛隊を率いて朝倉方が守っていた大嶽城を襲撃、落城させます。

朝倉義景は小谷城の浅井長政と連携を取り合うことができなくなったため、撤兵を決意。ところが信長は撤兵を予想しており田部山城から撤退する朝倉軍を追撃し、越前の一乗谷まで追い込んで朝倉家を滅亡させます。

■静ヶ岳の戦いの本営 羽柴秀長が布陣
静ヶ岳の戦いでは秀吉の弟である秀長が布陣しました。現在の城跡はこの時に改修され、大きな4つの郭が造られます。最新の技術も導入されており角馬出(写真)が残っていました。横矢がかかる土塁が整備されており、技巧的な城になっています。

磯山城

彦根駅から米原駅に向かうと右手に見えるのが佐和山城で、対面の左手には磯山城が見えます。JRは2つの城に囲まれた間を通っています。

磯山城
磯山城

琵琶湖に面した南北に長く続く独立丘陵が磯山で、ここに磯山城が築かれています。北峰のピークが虎ヶ城と呼ばれており、南端のピークは南城で一城別郭形式の山城です。北側の磯崎神社から城に入れ、案内では遊歩道が整備されていると書いてありますが、しっかり山道でした(笑)。

■磯山城の城主
琵琶湖に当時あった朝妻湊などがよく眺められます。もともとは彦根市松原を本拠として浅井氏に従った松原氏の居城だったようです。ただ境目の城だったので。六角氏が落城させ陣所に使ったりしていました。織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時に六角氏を追い出したので浅井氏家臣・磯野員昌が城主として入ったようです。

信長と浅井氏が敵対するようになった時、磯野員昌は佐和山城に移っており、この時は佐和山城攻めで磯山城が織田軍の陣所になったようです。ただ虎御前山城のように凝った縄張りにはなっておらず、古い形態もままなので本当に織田軍の陣所になったかどうかは不明です。

太尾山城

米原駅のすぐ東側にあるのが太尾山城。駅からよく見えます。

太尾山城
太尾山城

麓に中山道の宿場があり、湯谷神社脇から山道を登ると、南城と北城を分ける堀切に入れます。堀切から南側に向かって尾根を歩くと南城に着き、反対側には北城があります。いわゆる一城別郭ですが、眺めは抜群で琵琶湖が一望できます。北側からは小谷城や北国街道が一望です。

太尾山城は鎌刃城と同様に「境目の城」で京極氏と六角氏の勢力争いが繰り返されました。永禄四年(1561年)に浅井長政が六角氏方だった太尾山城を攻めましたが、うまくいきませんでした。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し六角氏が追いやられると、今度は同盟を組んだ浅井氏に属することになります。ところが浅井が朝倉と手を組んで信長に敵対したことから、元亀三年(1572年)織田信長が佐和山城を攻め、次いで朝妻城、太尾城を攻撃し太尾城はついに落城しました。