不思議な西枇杷島駅

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新幹線で新大阪から名古屋へ向かうと、名古屋駅の手前で変わった駅が左手に見えます。駅の名前は名鉄・西枇杷島駅。変なホームが一瞬だけ見れます。
2つの島式ホームがで、4線あるんですがホームは直角ではなく湾曲した変な形。屋根も階段もなく殺風景なホームで端はかなり狭くなっています。ホームの長さもあまりなく4両編成で目いっぱい。時たま6両編成の電車が止まっていますがホームからはみ出しています。調べると6両編成以上の列車が停車する場合はドアカットしているそうです。
皆、不思議に思うようで、実際に西枇杷島駅を訪れた人のレポートがいくつかネットに上がっていました。各駅停車しか止まらず名古屋駅から3つ目の駅なんですが30分に1本しか止まらないローカル駅です。おまけにホームが狭いため電車が来る前に係員がホームに誘導するシステムになっています。名古屋駅から3つ目と言えば都会なのに変な駅ですねえ。しかも先は2つの路線に分かれていてデルタ線になっています。
名鉄・名古屋駅は日本一、乗車するのが難しい駅だし、名鉄には変わった駅が多いんですね。

今池 地名の由来(名古屋)

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    今朝、ちょっと早く名古屋駅に着いたので地下鉄・桜通線で吹上の2つ手前にある車道駅で下車。地下鉄のすぐ近くをJR中央本線が走っていて千種駅があります。この千種駅から少し行ったところにあるのが高牟(たかむ)神社。 

    ■高牟神社 
    延喜式にも記載されている古い神社で、もともとは尾張物部氏の武器(牟は鉾のこと)を納めた倉があり、そこから高牟神社となりました。境内には「延命長寿」や「恋が生まれる」という名泉「古井の清水」があります。高牟神社のあるあたりは古井町と呼ばれていました。 

    この高牟神社前からゼロ戦を運んだ、郡道が走っていて今日は郡道を歩きながら吹上に出ようと思ったら1本、道を間違っていました。あとで古地図をみたら郡道は1本道なんですが、けっこう曲がっていて、現在は住宅地に変わってしまったため、行ったり来たりしないと郡道に出られないようになっていました。 

    ■今池 名前の由来 
    郡道と飯田街道が交差する近くにあるのが古井ノ坂(こいのさか)。このあたりも高牟神社と同様に豊富に湧き出る土地で、地下水脈は同じようです。この水があったのでサッポロビール名古屋工場ができました。現在はイオン千種になり、敷地の一部は名古屋ビール園・浩養園(こうようえん)になっていて名古屋市新事業支援センターの宴会でよく使っています。 

    郡道のすぐ近くに馬池という農業用のため池がありました。郡道を通る馬に水浴びさせるところから馬池と名づけられました。吹上の一つ先が今池ですが、今池の地名はこの馬池からきています。現在は埋め立てられ今池中学校になっています。

尾頭塚(金山)

otouduka201402.jpg金山・尾張元興寺跡のすぐ近くにあるのが尾頭塚。 

鎮西八郎と呼ばれた源為朝の墓なんだそうです。源為朝は保元の乱では崇徳上皇方に属して戦いましたが敗れ、伊豆大島へ流されます。ところが伊豆大島で暴れて、島を事実上支配したので、追討を受け自害しました。 

為朝には義経と一緒で英雄生存説があり、伊豆大島を脱出して琉球に渡り、琉球王になったという小説が滝沢馬琴の「椿説弓張月」。小説のもとになったのが琉球王国の正史「中山世鑑」でここに書かれていたのをネタにしたようです。この小説に熱田大宮司の藤原季範(為朝の親族)に船で会い、熱田の地に来ることを勧められます。誘いは断りましたが、子供を季範に託す話が出ています。 

どうも金山駅近くの古渡の地は源氏との関わりが昔から深かったようです。実際、大島、大矢、磯部という姓の住人が多く、これらの名前は為朝の一番信頼の置ける従者の名前でした。 

そういえば熱田神宮の前で源頼朝が生まれましたが、これはお母さんが季範の娘だったことからです。源氏との深い結びつきから為朝塚が作られたのでしょう。尾張元興寺も為朝の子である尾頭義次によって再興されました。尾頭橋などの名前はこの義次が由来になっています。 

尾張元興寺

owari_gangoji201402.jpg午後は名古屋ソフトウェアセンターで会議。日本一分かりにくい名鉄名古屋駅ホームから金山駅へ出かけてきました。東に向かう名鉄電車は全て金山駅に停車するので、とりあえず来た電車に乗ればよく、これなら迷うことはありません。 

金山駅のすぐ近くに尾張元興寺があります。元興寺というと奈良町にある寺が有名です。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最初の仏教寺院・法興寺が前身で、平城京遷都に伴い、法興寺を移転したのが元興寺と言われていましたが、どうも飛鳥の法興寺は移転せず、そのまま残って今の飛鳥寺になったようです。 

元興寺と言えば、有名なのが鬼。敏達天皇の頃。尾張国の農家に落雷と共に子供の姿の雷神が落ちてきました。やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産み、この子供が奈良の元興寺の童子となりました。元興寺の鬼退治をして、その後、出家し法師になったという伝説があります。 

日本霊異記などに書かれている話ですが、この法師が故郷の尾張・古渡に帰って建てたのが尾張元興寺。発掘調査では飛鳥地方と深い関係のある瓦が出土していて名古屋に初めてできた寺の一つです。金山駅周辺は高台になっていますので、ここに伽藍が建っていたらランドマークとなり、目立ったでしょう。、 

吹上の郡道をゼロ戦が通る

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    映画「風立ちぬ」で、名古屋港にあった三菱重工業株式会社・名古屋航空機製作所から牛車でゼロ戦を岐阜県の各務原飛行場まで運ぶシーンが出てきますが、名古屋市新事業支援センターがある吹上を通る郡道をゼロ戦が通っていたんですね。 

    郡道というのは明治42年に完成した道路で、愛知郡内の村々を結ぶ主要道として整備されました。大正期には愛知郡内に49本もの郡道がありましたが、都市化などによってどんどん消えていきます。吹上を通る道は今だに郡道と呼ばれ、飯田街道の古井ノ坂交差点から東海道の呼続を結んでいます。 

    郡道といっても幅3メートルほどの狭い道で吹上では100メートル道路に分断されています。郡道の両側には商店が並んでいましたが、だいぶ少なくなり吹上あたりでは吹上八幡社の写真にある吹上観音(吹上にあった古墳を祭る)の前を通って名古屋工業大学のキャンパス横をずっと通っていきます。 

    ここが昔の幹線道路でゼロ戦が通っていたとは誰も思わないでしょうね。ゼロ戦の輸送にはトラックも使ったのですが道路状況が悪く、機体が破損したりしたので牛車が使われるようになりました。

100m道路は信号1回で渡れない

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    100m道路は名前の通り、道路の幅が100m以上あります。100m道路は全国に3本あり、2本が名古屋にあります。1本は若宮大通でもう1本が久屋大通。久屋大通は名古屋の繁華街・栄にある通りで、真ん中が公園になっていてテレビ塔が建っています。名古屋市新事業支援センターが入っている吹上ホールの前に若宮大通が走っていますが片側5車線あり、その上、真ん中には4車線の高速道路が走っていて、つまり5×2+4=14で14車線もある道路になります。トヨタのお膝元の自動車王国なんで、車がビュンビュン走っています。 

    大阪の御堂筋は1発の信号で渡れますが100m道路を歩いて横断しようと思えば信号1つで渡りきれません。自転車でなんとか渡りきれるという状況で、なかには信号が変わると同時にダッシュする人がいますが、全力で100m走をしているのと同じです。そんな元気はさすがにないですね。郵便局が若宮大通の反対側にあり、郵便局に用事がある時はゆったり渡っていますが、目と鼻の先なのに時間がかかります。 

    お店の商圏分析する場合、道、川、線路があると商圏が切れ、2車線の道路で約10%の集客ダウンがあると言われていますが、14車線となると70%ダウンですかね。道路の向こう側のお客さんは、ほぼ見込めません。写真でマンションのあたりが向こう側の歩道橋になります。

清州会議

清須
映画「清州会議」を見てきました。
関東にいるはずの滝川一益が軍勢も連れず単身で清州まで駆け戻ってくるのかという話はおいておいて、なかなか楽しめる映画でした。映画「ステキな金縛り」に出てくる北条方の武士、更科六兵衛まで出てきました。
清州会議とは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興による信長亡き後の織田家宿老による会議です。前社長と後継者が不慮の事故でなくなってしまったので重役が集まって会社の行く末をどうするか、誰を次期社長にするか決める重役会議ですね。映画では織田家の跡取りをどうするかその駆け引きを描いていますが、実際には三法師の擁立はすんなり決まったようです。
その後のそれぞれですが
柴田勝家-賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市と共に自害< 丹羽長秀-賤ヶ岳の戦いで秀吉を援護。若狭、越前、加賀の大名となり病死 池田恒興-小牧・長久手の戦いで家康に負け戦死 池田恒興の顛末についてはこちらをどうぞ → 秀吉 小牧・長久手の戦い< 織田信雄-家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いますが、秀吉の御伽衆となり関ヶ原の合戦、大坂の陣もくぐりぬけ江戸時代まで生きています。 織田信孝-賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦い、勝家亡き後、自害させられます。 三法師-関ヶ原の戦いでは西軍として岐阜城に籠城しますが落城、高野山に送られましたが高野山から追い出され26歳で死去。 織田信包-映画では最後に秀吉に織田家を滅ぼし天下をとれと言っていた人物です。伊勢上野城の城主でもありました。秀吉の御伽衆となり、大坂城では秀頼を補佐しましたが、大坂冬の陣直前に大坂城内で死去。

古墳が大学の中に!

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    名古屋市新事業支援センターがある吹上ホールから少し歩くと名古屋工業大学があります。 

    大学の校舎が立ち並んでいる真ん中に通常ですと中庭があるんですが、名古屋工業大学には古墳があります。直径36メートル、高さ8メートルの円墳ですが、もともとは前方後円墳だったのが方墳が失われてしまったようです。 

    大学内には時計台などの目印になるランドマークがあるんですが、古墳がランドマークの大学は名古屋工業大学ぐらいでしょうね。古墳を残しながら、うまく校舎配置したものです。 

    一本松古墳と名付けられていますが大学のあるのは御器所台地という高地になり、古代は眺めがよかったでしょうね。近くの鶴舞公園横には東海地方最大の円墳・八幡山古墳があり、吹上ホールのあったあたりにも2つの古墳がありましたが、前身の名古屋刑務所を作る時に壊してしまったようです。古墳の霊を追悼する吹上観音しか残っていません。 

    大学には古墳に登ると留年する(単位を落とす)という伝説があるそうです。

秀吉のお母さんの家

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    豊臣秀吉は名古屋駅から少しいった中村で生まれました。現在は中村公園になっていて秀吉清正記念館があります。 

    秀吉のお母さんは仲(なか)という名前ですが、秀吉が出世しちゃいましたので大政所と呼ばれています。織田家の雑兵だった言われる木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、秀吉が生まれます。夫が死んだあとは竹阿弥と再婚し、堺屋太一が「ある補佐役の生涯」として描いた豊臣秀長が生まれます。 

    竹阿弥とソリがあわなかった秀吉は15歳の時に家出。秀吉が生まれた尾張の織田家といえば、まだまだ中小企業で、武士を目指すのなら、大企業であった今川家への仕官が王道。浜松では、今川家の幕下であった松下加兵衛に運良く仕えることができました。 

    紆余曲折があって織田信長に仕えることになりますが、秀吉は桶狭間の合戦以来、零落していたかつての主君、松下加兵衛を遠江久能城1万6千石の大名にしています。最初の武家奉公を教えてくれた、その恩義に報いています。 

    さて秀吉のお母さんの大政所ですが、出身地は御器所だと言われています。住宅地の真ん中に小さな公園があり御所屋敷跡とありますが、まあ伝説にちかいでしょうね。

吹上駅の伝言板

dengonban201307.jpg名古屋市地下鉄・桜通り線の吹上駅の改札を出たところに伝言板があることを発見。よく前を通っているのに、なかなか気づかないものですね。

「駅に着いたら電話する」と携帯を使って連絡するのが当たり前で、すっかり出番がなくなった掲示板です。昔は事前に、何時にどこで待ち合わせると事前に連絡して確認しあうのが当たり前で、もし遅れた場合はどうするなどの取り決めまでしていました。掲示板に書くなんてのも一つの手段。考えてみたら便利な世の中になったものです。

反対に「ごめん5分ぐらい遅れそう」と簡単に連絡できるので、遅刻する人が増えた気もします。

「シティーハンター」というコミックでは、駅の掲示板に「XYZ」と書いて依頼するシチュエーションがありましたが、昭和の漫画になってしまいましたね。