御器所駅(ごきそ)から名古屋市新事業支援センターがある吹上方面に歩いていく途中で見つけたのが阿由(あゆち)という知名。
「あゆち」って、まさかあの「あゆち」!
尾張には昔から「あゆち思想」の伝説があり、「あゆち」とは海から吹いてくる幸福の風のことをさしています。万葉集には「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし鶴鳴きわたる」という歌があり、愛知県の「あいち」も「あゆち」に由来していると言われています。
作家の童門冬二氏によると織田信長はこのこの「あゆち」の風を尾張だけでなく日本全国に吹かせたいと考えていたのではないか、と考えています。後に作った安土城も「あゆち」からきているのでは述べています。
吹上も昔は入海になっていて、風波が岸に吹き上げていたことに由来しますので万葉集に歌われた「あゆちがた」もこのあたりにあったんですかねえ。
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洲崎神社(名古屋)
プラネタリウムで有名な名古屋市科学館の近くにあるのが洲崎神社。
場所は若宮大通(100m道路)が堀川を渡るところにある新洲崎橋のたもとにあります。名古屋駅からも割と近く、御園座がそばにあります。860年頃の創建なので、めちゃくちゃ古い神社です。応天門放火の罪で大納言伴善男が流罪となる応天門の変が起きた頃です。
大昔、このあたりは入江で洲崎になっていました。つまり昔の海岸線。名古屋駅周辺には笹島、亀島などの地名が残り、少し離れたところには枇杷島、津島、長島があります。ですので大昔、名古屋駅も海の底。大雨が降ると洪水などで名古屋がボロボロになるのは必然ですね。
戦国時代には那古野城今川氏の家臣だった、中村氏の廣井城が神社の北側にあり、織田家と争っていました。神社の入口に廣井城跡と書かれていました。
名古屋城を築城する時に境内の一部が堀川になってしまいましたが、尾張藩御船手役所ができ、尾張、三河、伊勢、志摩の防備に尾張藩があたっていました。いまだとさしずめ海軍基地です。
名古屋大学・食堂
名古屋大学へ
名古屋市新事業支援センターで来年1月25日(金)に大学発ベンチャー ビジネスプラン・グランプリ発表会を行いますので、名古屋大学へ打ち合わせに行ってきました。発表会の場所は名古屋市中小企業振興会館(吹上)。
名古屋大学ですが台地の上にあるので、けっこう起伏があり、いたるところに坂があります。打ち合わせが終わったら、ちょうどお昼前でしたので、そのまま学食へ。入ったのは丼、麺専門のこじんまりとした学食。広いキャンパスなので、食堂もいろいろな所へ分散しているようです。頼んだのはから揚げネギ丼(380円)+サラダ(84円)。おいしゅう、いただきました。
名古屋にある桑名、長島、伊勢
名古屋は城下町ですので中心街は碁盤の目になっています。その中に桑名町、長島町、伊勢町というお隣の三重の地名がついた町名があります。
先日、鶴舞の古本屋で「花の名古屋の碁盤割」という本を買ってきたので、調べてみると、これらの町はもともと清州にありました。織田信長の息子である信雄は本能寺の変の後、伊勢を領有していましたが、その後、清州城主になったので引っ越し。この時、家臣の移転に商人もついてきたようです。
藤堂高虎が伊予から伊勢の津へ国替えした時に伊予の商人が移り住んだ伊予町や松阪には日野から移った蒲生氏郷についてきた商人の町、日野町があります。城下町の多くには同様の事例があります。
やがて家康が水害が多かった清州から名古屋へ住民ごと引っ越す、清州越しを行います。この時に住民と一緒に町の名前も移ってきました。同様にクリスマスイルミネーションが美しい名古屋の大津町は大津から移ってきた住民の町で、清州越しで移ってきました。伏見町は清州越しではなく、名古屋城ができてから伏見から移ってできた町です。
名古屋のテレビ塔近くに武平町がありますが江戸時代に古墳が発見されました。壬申の乱で大海人皇子の元へ2万人の兵をひきつれた少子部連錯鉤。壬申の乱が終わった後に自殺した謎の人物です。古墳は江戸時代に埋め戻したそうで、名古屋の街中の地下に今も残っています。
飯田街道
若宮八幡社
名古屋名物と言えば道路幅が100m以上もある100m道路。若宮大通と久屋大通の2本あります。
名古屋市新事業支援センターが入っている吹上ホールの前を走っているのが若宮大通。一度の信号では対岸に渡れません。時々、ダッシュして渡る人を見かけます。この若宮大通の名前の由来になったのが若宮八幡社。
めちゃくちゃ古い神社で、武内宿禰などを祭っています。もともとは那古野城(名古屋城)の近くにあったのですが家康が現在地に移して、名古屋総鎮守としました。つまり名古屋の守り神さんです。名古屋で仕事や住むなら熱田神宮と若宮八幡社ははずせませんね。
昔、境内には200歳を超える狐夫婦が住んでいたそうです。この狐の家用に洞穴を用意して祠を建てたのが連理稲荷。2本の木の枝が連なる連理木があるそうで、縁結びのパワースポットになっています。
世界の山ちゃん
津で建設業なんでも相談会を行ってから名古屋へ移動。
名古屋名物「世界の山ちゃん」へ。名古屋はよく来ていますが、入ったのは初めてです。まずは生ビールを頼もうとしたら、メニューに銀河高原ビールがあるじゃないですかあ!
地ビールブームの頃はいろんな店に置かれていたんですが、鮮度が短いので。最近、扱っている酒屋がほんとんどない中、なんと生ビールがありました。迷わず、大ジョッキーを注文。久しぶりの銀河高原ビールでした。おいしかった!
ビールのあてには定番の幻の手羽先を頼みましたが、これはメニューにある通り辛いですねえ。個人的にはもうちょっとコショウ抑え目でもよさそうです。味噌カツやらなんやら頼んで純米酒まで飲んでいたので、けっこう会計は高め。名古屋への出張族などが狙えるので、この値付けのいいんでしょうね。
2分間隔で電車が来る東山線
名古屋市新事業支援センターへ行くのに近鉄名古屋駅で降りて、地下鉄・桜通線に乗り換えています。今日は朝から名古屋大学の研究室へ行く用事があったので近鉄を降りて、桜通線への連絡口ではなく東山線へ。
朝の地下鉄東山線・名古屋駅って行ったことがなかったのですが、めちゃくちゃ混雑しています。改札の前に行列ができているのにまずビックリ。改札の先がつまっていて、行列はずっと続きホームに降りる階段もずっと行列です。ただし地下鉄は2分間隔で走っているので、そう待たずにホームに降りることができました。
この2分間隔は東山線全区間で、この短さは日本一なんだそうです。東京のメトロ丸ノ内線は1分50秒間隔ですが、これは一部区間になります。東山線って、めちゃくちゃすごいダイヤなんですね。あれほどの行列でしたが車内は御堂筋線のようにギュウギュウではなく、少しゆったりしています。すぐに電車が来ることもあって、一杯になりそうになると待つ乗客が多いことが影響しているようです。
東山線の本山駅で乗りかえて、環状線のように1周している名城線へ。一駅乗ると名古屋大学という駅です。ここの3号出口は名古屋大学キャンパスに直結。濡れずに大学構内に入れます。
駅から大学まで学生街が広がるというのが定番なんですが、3番出口にそんな風情はありませんねえ。
断夫山古墳(熱田神宮)
熱田神宮のすぐ近くに熱田公園があり、公園の中には熱田球場があります。公園にはこんもりとした森になっているところがあり、これが東海地域最大の前方後円墳「断夫山古墳」。6世紀初頭に築造されたと言われています。
先日、行ってみましたが東海地域最大と言いながら全長151メートルほどと、こじんまりした古墳でした。堺の大仙山古墳のように1周2.7kmもあって、1周するだけで息も絶えだえになることはありません。断夫山古墳の外周をまわると、きちんと円や方墳の形が分かり、なかなか見応えがあります。
古墳に葬られているのは、どうも尾張氏の首長であった尾張連草香(おわりのむらじくさか)のようですね。熱田神宮は尾張氏の本拠地で、宮司は代々、尾張氏が勤めていました。
壬申の乱の時には桑名まで来た大海人皇子に協力して、大友皇子を倒すのを手伝いしました。と言言うよりも、尾張氏を当てにして吉野を脱出したのが真相のようです。大海人皇子の乳母は尾張の大海氏の娘で、大海氏は尾張氏の同族です。
昔の熱田神宮と言えば、熱田台地の端にあり、すぐそばが海だったため、断夫山古墳は船から見るよいランドマークになったでしょうね。
源頼朝が生まれたのは名古屋
今日は日曜なので大河ドラマ「平清盛」ですなあ。
あまり知られていませんが源頼朝が誕生したのは名古屋です。
源義朝の正室は藤原季範の娘・由良御前で、この藤原氏は熱田大宮司。熱田神宮の目の前に平安時代、別邸がありました。由良御前は身ごもった後、実家(熱田)へ戻り、ここで源頼朝を産んだそうです。現在は誓願寺というお寺になっています。最寄駅は地下鉄・神宮西駅です。
寺の前に右大将頼朝公誕生舊地の碑があります。頼朝のお父さんふだった源義朝は平治の乱で敗軍の将となり、亡くなったのは尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で裏切りが原因でした。源氏は愛知県と深い縁があるんですね。
源頼朝、織田信長、豊臣秀吉は3人とも名古屋生まれながら、鎌倉、安土、伏見を本拠地にし、名古屋とはあまり縁がないですね。