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100m道路は名前の通り、道路の幅が100m以上あります。100m道路は全国に3本あり、2本が名古屋にあります。1本は若宮大通でもう1本が久屋大通。久屋大通は名古屋の繁華街・栄にある通りで、真ん中が公園になっていてテレビ塔が建っています。名古屋市新事業支援センターが入っている吹上ホールの前に若宮大通が走っていますが片側5車線あり、その上、真ん中には4車線の高速道路が走っていて、つまり5×2+4=14で14車線もある道路になります。トヨタのお膝元の自動車王国なんで、車がビュンビュン走っています。
大阪の御堂筋は1発の信号で渡れますが100m道路を歩いて横断しようと思えば信号1つで渡りきれません。自転車でなんとか渡りきれるという状況で、なかには信号が変わると同時にダッシュする人がいますが、全力で100m走をしているのと同じです。そんな元気はさすがにないですね。郵便局が若宮大通の反対側にあり、郵便局に用事がある時はゆったり渡っていますが、目と鼻の先なのに時間がかかります。
お店の商圏分析する場合、道、川、線路があると商圏が切れ、2車線の道路で約10%の集客ダウンがあると言われていますが、14車線となると70%ダウンですかね。道路の向こう側のお客さんは、ほぼ見込めません。写真でマンションのあたりが向こう側の歩道橋になります。
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清州会議

映画「清州会議」を見てきました。
関東にいるはずの滝川一益が軍勢も連れず単身で清州まで駆け戻ってくるのかという話はおいておいて、なかなか楽しめる映画でした。映画「ステキな金縛り」に出てくる北条方の武士、更科六兵衛まで出てきました。
清州会議とは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興による信長亡き後の織田家宿老による会議です。前社長と後継者が不慮の事故でなくなってしまったので重役が集まって会社の行く末をどうするか、誰を次期社長にするか決める重役会議ですね。映画では織田家の跡取りをどうするかその駆け引きを描いていますが、実際には三法師の擁立はすんなり決まったようです。
その後のそれぞれですが
柴田勝家-賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市と共に自害<
丹羽長秀-賤ヶ岳の戦いで秀吉を援護。若狭、越前、加賀の大名となり病死
池田恒興-小牧・長久手の戦いで家康に負け戦死
池田恒興の顛末についてはこちらをどうぞ
→ 秀吉 小牧・長久手の戦い<
織田信雄-家康と組んで小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いますが、秀吉の御伽衆となり関ヶ原の合戦、大坂の陣もくぐりぬけ江戸時代まで生きています。
織田信孝-賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦い、勝家亡き後、自害させられます。
三法師-関ヶ原の戦いでは西軍として岐阜城に籠城しますが落城、高野山に送られましたが高野山から追い出され26歳で死去。
織田信包-映画では最後に秀吉に織田家を滅ぼし天下をとれと言っていた人物です。伊勢上野城の城主でもありました。秀吉の御伽衆となり、大坂城では秀頼を補佐しましたが、大坂冬の陣直前に大坂城内で死去。
古墳が大学の中に!
秀吉のお母さんの家
吹上駅の伝言板
名古屋市地下鉄・桜通り線の吹上駅の改札を出たところに伝言板が
「駅に着いたら電話する」と携帯を使って連絡するのが当たり前で
反対に「ごめん5分ぐらい遅れそう」と簡単に連絡できるので、遅
「シティーハンター」というコミックでは、駅の掲示板に「XYZ
あゆち 名古屋市
御器所駅(ごきそ)から名古屋市新事業支援センターがある吹上方面に歩いていく途中で見つけたのが阿由(あゆち)という知名。
「あゆち」って、まさかあの「あゆち」!
尾張には昔から「あゆち思想」の伝説があり、「あゆち」とは海から吹いてくる幸福の風のことをさしています。万葉集には「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし鶴鳴きわたる」という歌があり、愛知県の「あいち」も「あゆち」に由来していると言われています。
作家の童門冬二氏によると織田信長はこのこの「あゆち」の風を尾張だけでなく日本全国に吹かせたいと考えていたのではないか、と考えています。後に作った安土城も「あゆち」からきているのでは述べています。
吹上も昔は入海になっていて、風波が岸に吹き上げていたことに由来しますので万葉集に歌われた「あゆちがた」もこのあたりにあったんですかねえ。
洲崎神社(名古屋)
プラネタリウムで有名な名古屋市科学館の近くにあるのが洲崎神社。
場所は若宮大通(100m道路)が堀川を渡るところにある新洲崎橋のたもとにあります。名古屋駅からも割と近く、御園座がそばにあります。860年頃の創建なので、めちゃくちゃ古い神社です。応天門放火の罪で大納言伴善男が流罪となる応天門の変が起きた頃です。
大昔、このあたりは入江で洲崎になっていました。つまり昔の海岸線。名古屋駅周辺には笹島、亀島などの地名が残り、少し離れたところには枇杷島、津島、長島があります。ですので大昔、名古屋駅も海の底。大雨が降ると洪水などで名古屋がボロボロになるのは必然ですね。
戦国時代には那古野城今川氏の家臣だった、中村氏の廣井城が神社の北側にあり、織田家と争っていました。神社の入口に廣井城跡と書かれていました。
名古屋城を築城する時に境内の一部が堀川になってしまいましたが、尾張藩御船手役所ができ、尾張、三河、伊勢、志摩の防備に尾張藩があたっていました。いまだとさしずめ海軍基地です。
名古屋大学・食堂
名古屋大学へ
名古屋市新事業支援センターで来年1月25日(金)に大学発ベンチャー ビジネスプラン・グランプリ発表会を行いますので、名古屋大学へ打ち合わせに行ってきました。発表会の場所は名古屋市中小企業振興会館(吹上)。
名古屋大学ですが台地の上にあるので、けっこう起伏があり、いたるところに坂があります。打ち合わせが終わったら、ちょうどお昼前でしたので、そのまま学食へ。入ったのは丼、麺専門のこじんまりとした学食。広いキャンパスなので、食堂もいろいろな所へ分散しているようです。頼んだのはから揚げネギ丼(380円)+サラダ(84円)。おいしゅう、いただきました。
名古屋にある桑名、長島、伊勢
名古屋は城下町ですので中心街は碁盤の目になっています。その中に桑名町、長島町、伊勢町というお隣の三重の地名がついた町名があります。
先日、鶴舞の古本屋で「花の名古屋の碁盤割」という本を買ってきたので、調べてみると、これらの町はもともと清州にありました。織田信長の息子である信雄は本能寺の変の後、伊勢を領有していましたが、その後、清州城主になったので引っ越し。この時、家臣の移転に商人もついてきたようです。
藤堂高虎が伊予から伊勢の津へ国替えした時に伊予の商人が移り住んだ伊予町や松阪には日野から移った蒲生氏郷についてきた商人の町、日野町があります。城下町の多くには同様の事例があります。
やがて家康が水害が多かった清州から名古屋へ住民ごと引っ越す、清州越しを行います。この時に住民と一緒に町の名前も移ってきました。同様にクリスマスイルミネーションが美しい名古屋の大津町は大津から移ってきた住民の町で、清州越しで移ってきました。伏見町は清州越しではなく、名古屋城ができてから伏見から移ってできた町です。
名古屋のテレビ塔近くに武平町がありますが江戸時代に古墳が発見されました。壬申の乱で大海人皇子の元へ2万人の兵をひきつれた少子部連錯鉤。壬申の乱が終わった後に自殺した謎の人物です。古墳は江戸時代に埋め戻したそうで、名古屋の街中の地下に今も残っています。
飯田街道

名古屋は城下町なので基本的に碁盤の目になっているはずなんですが、ちょっと町中をはずれると微妙に曲がっている道ばかり、例えば道を間違えた時、左に4回まわっても同じ場所にはたどりつきません。(笑)
町中でも碁盤の目になっていないところがあり、中心部にある久屋大通から碁盤の目に斜めに走る道があります。これが飯田街道、徳川家康が作った尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道です。
飯田街道の起点は堀川にかかる伝馬橋。国際センターと丸の内の間で、ここから名古屋駅のツインタワーが見れます。伝馬橋から栄の繁華街までまっすぐ進むのですが、久屋大通から斜め45度に道が曲がります。この斜めの道が吹上を超えて八事の方まで続きます。碁盤の目の道に斜めの道が通るので、必然的に交差点では6つの道が交差。空港線や錦通など広い道路と交差すると信号が複雑怪奇なことになります。
飯田街道を歩いていて青になったので空港線の交差点を渡ろうとすると道路の真ん中に待避所があり、そこまでが青で、その先は赤、つまり待避所で待てということです。名古屋名物の100m道路でもない普通の道なのに、向こう側まで一発で渡れません。歩行者でこの騒ぎですから、車はもっと複雑怪奇な流れになります。6つの道の信号をコントルールしなければなりません。名古屋の道がわかりにくいのは、こういったことが原因するんですね。

