明智光秀の最後

天正10年(1582)6月13日(西暦7月2日)に行われたのが山崎の合戦。中国大返しをしてきた秀吉と明智光秀がぶつかった戦いです。

勝竜寺城
勝竜寺城

夜半に明智光秀は勝龍寺城を脱出して近江の坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪で落ち武者狩りによって絶命したと伝わります。つまり本日です。大河ドラマ「麒麟がくる」では、おそらくラストシーンになるでしょう。

山崎は淀川と山に囲まれた隘路で、名神高速の天王山トンネル、新幹線、阪急、JRが通っています。京都を西から抑えるには最適な地ですね。山崎の合戦後、清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲ったため、秀吉は山崎城を造って、ここを本拠地にしました。交通の大動脈をおさえたことになります。

本能寺の変

♪本能寺の変 本能寺の変 本能寺の変...♪とエグスプロージョンが歌ったダンスが話題になりました。。

本能寺
本能寺

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反で織田信長が殺されました。先日、発表された「本能寺の変 原因説50 総選挙」では暴君討伐説(※信長非道説)が1位になっていましたが、最近は信長ちゃぶ台返し説が有力です。

【信長ちゃぶ台返し説とは】
明智光秀は将軍家の足軽時代から近江田中城などで三好と戦ってきました。やがて信長に仕え、信長も上洛に際しては三好の残党と戦っていました。四国政策では明智光秀は長宗我部元親の取次をつとめ、信長も長宗我部に四国は切り取り次第と約束しています。ところが秀吉の毛利攻めから瀬戸内海の水軍をおさえる必要がでてきたため信長は三好の残党と組むことになり、長宗我部に土佐以外は返せ、さもないと滅ぼすと通告します。

光秀にとっては面目を潰される動きで、信長に意見しますが足蹴にされてしまいます。ここでブチッと切れてしまうわけですなあ。やってられるけえ、と本能寺を攻めることになります。光秀の目的は信長だけで信忠は眼中になかった可能性もあります。

実際のところはよう分からんというのが本能寺の変です。

応天門の変と竹取物語

疫病シリーズ No4は応天門の放火犯とされた伴善男です。

朱雀門
朱雀門

貞観8年(866年)、応天門の変が起きます。応天門が放火され大納言・伴善男が犯人であるとされ伊豆に流罪となります。国宝「伴大納言絵詞」はこの事件を描いており応天門が燃えているのを見る群衆が日本史の教科書に出ていました。この時、事件の処理に当たったのが藤原良房。どうもうまく伴善男をはめたようで結局は古代からの名族だった伴氏(大伴氏)と紀氏の追い落としに成功しました。冤罪だったようです。

今昔物語には国中に疫病が流行った時に伴善男の幽霊が現れ、自身は行疫流行神となったが国に仕えた時の恩があるので本来は疫病で国中の者が病死するはずのところを咳程度でおさえていると言って立ち去ったそうです。

■藤原氏への憂さ晴らしだった竹取物語
藤原氏以外の氏族を追い落とすことで藤原氏は全盛時代を迎えます。そして出来上がったのが竹取物語。朝ドラの「エール」にもモチーフとして出てきます。かぐや姫に求愛する5人の公達がいますが4人は古代の官僚名簿「公卿補任」の文武5年(701)に出てくる名前と同じ。一人だけ違っているのが、くらもちの皇子です。この名前は公卿補任に出てきません。藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身で、語呂が似ているから隠語的に使ったのではという説です。藤原の全盛期に小説とはいえ、あからさまにはできなかったようです。竹取物語では「くらもちの皇子」をこき下ろし、ラストは、かぐや姫が汚きところから月へ戻るシーンですが、意味は藤原が支配する汚きところでしょう。竹取物語の作者は分かっていませんが紀貫之ら紀氏ではないかと言われています。

祇園祭

大好評の疫病シリーズ。誰も楽しみにしていないって!、という声は無視して第三段は祇園祭です。

綾傘鉾
綾傘鉾

今年は新型コロナのせいで中止となってしまいました。祇園祭のきっかけは貞観11年(869)の疫病流行です。5年前の貞観6年(864年)には富士山が噴火します。いわゆる貞観大噴火が起き、騒然とした時代でした。

祇園祭はもともと祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、神泉苑に66本(当時の国数)の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を繰り出して災厄の除去を祈ったことにはじまります。室町時代頃から山鉾巡行が始まりました。祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて参加します。

■蘇民将来子孫也
今も伊勢へ行くと軒先に注連縄が1年中飾られ木札にこの文字が書かれています。「蘇民将来子孫家門」という文字で、省略して「笑門」とも書きますが、昔は「将門」だったそうです。平将門との関係を言われることもあり、商売繁盛の面からも「笑門」に変更になりました。

旅の途中で泊めてほしいというスサノオに対し裕福な弟は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。後に再訪したスサノオは、蘇民の娘だけ茅の輪をつけさせ、蘇民の娘以外を滅ぼしてしまいました。なんちゅう神さんや!それ以来、ウチは”蘇民将来の子孫なんでよろしゅう”という札をつけることになります。

■祇園祭
山鉾や花笠は疫鬼対策の呪具、祭りの踊りは、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法で、これは今も相撲の四股として残っています。最終的に悪霊や疫鬼を八坂神社に集め、祭神のスサノオによって退散させます。

本能寺への道

沓掛への山道
沓掛への山道

峰ヶ堂城は丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあります。

天正10(1582)年6月1日、丹波亀山を出発し、沓掛(京と西国へ分岐点)から京都へ向かう軍団がありました。本能寺へ向かう明智光秀軍です。従来は発見されにくい山道を通ったのではないかという説がありましたが、以前、NHKが歴史探偵「本能寺の変」という番組をやっていて山道コースと街道コースを通った時の実験をやっていました。

結論はたくさんの軍勢を通すには街道を行くしかないということで、この写真の山道は使われなかったんですね。

東山山頂公園

東山山頂公園
東山山頂公園

東山霊山城があるんですが、霊山に最短で登る道が封鎖されていて、とりあえず隣山の東山山頂からバイパス道を探すしかなさそうです。長楽寺横からの山道で東山を目指します。途中、京都一周トレイルに合流するのでハイカーが多くなります。

東山山頂には公園があって京都市街と反対側の山科が一望できます。ここには将軍塚もあり、桓武天皇が和気清麻呂の進言で、王城鎮護のために甲冑で身を固めた武将像を埋めた場所と伝わっています。京都タワーなどがよく見えます。

御陵衛士の屯所(新選組)

御陵衛士の屯所
御陵衛士の屯所

東山にあるのが御陵衛士(ごりょうえじ)の屯所。

高台寺塔頭の月真院を屯所にしていたので高台寺党とも呼ばれています。慶応3年に新選組・参謀だった伊東甲子太郎が一派を率いて新選組を離脱します。新選組は基本的に佐幕で伊東甲子太郎は勤王倒幕だったので思想の違いがあったのは事実ですが、単純に近藤や土方のやり方が気にくわなかったのかもしれません。

伊東甲子太郎と一緒に離脱した15名のなかには池田屋事件で活躍した藤堂平助も入っていました。またスパイのため斎藤一も入っています。伊東甲子太郎は藤堂平助と一緒に近江屋にも行き、坂本龍馬に見廻組等が狙っているので土佐藩邸に移れと忠告していますが、ほどなく中岡慎太郎とともに近江屋で暗殺されてしまいました。

結局、新選組は伊東甲子太郎を騙し討ちし油小路七条に遺体を放置します。遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せて藤堂平助ら3名が討死し、これが世に名高い油小路事件です。

御陵衛士の何名かは生き残り、伏見街道の民家で近藤勇を狙撃し、右肩に重傷を負わせます。また近藤勇が偽名を使って流山で捕まった時に新政府軍に入っていた元御陵衛士に正体を見破られ斬首となりました。

銅閣

銅閣
銅閣

金閣、銀閣が有名ですが京都には銅閣もあります。

東山に大雲院があり、ここに銅閣があります。建てたのは大倉財閥の設立者である大倉喜八郎で、渋沢栄一らと鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した実業家です。大倉財閥というとホテルオークラや札幌の大倉山スキー場などがあります。

出来たのは昭和3年で3階建てになっています。屋根は銅板葺きで祇園祭の鉾を模した形をしています。

八坂の塔

八坂の塔
八坂の塔

八坂の塔。正式には法観寺の五重塔です。

戦国時代、上洛すると八坂の塔に定紋入りの旗を掲げて誰が京都を支配するか現す習わしがありました。これが「都に旗をたてる」です。

豊臣秀次もやっています。
93歳の時に関ケ原合戦の大垣城攻めにも加わった生涯現役の武士・大島光義という人物がおり、弓の名手でした。豊臣秀次に仕えた時、秀次は都の主が代わったことを示すため八坂の塔に旗を掲げ、それだけでなく八坂の塔の窓に、矢を放つよう家臣に命じました。皆が失敗を恐れて尻込みする中、当時、84歳だった大島光義が名乗り出て、一町以上離れた五重の窓に10矢全てを射込んで喝采を浴びます。

弓という一芸を磨き、どんな時代でも生き残ることができることを示した大島光義は97歳で亡くなります。

冥府への入口があった小野篁旧宅

小野篁旧宅
小野篁旧宅

六波羅探題の近くにあるのが六道珍皇寺で、小野篁の旧宅があった所です。そう閻魔大王の裁判の補佐をしていた人物です。

昼間は朝廷で官吏をしていますが、夜になると庭の井戸から冥府に入り、閻魔大王に仕え、帰りは嵯峨の井戸から出てきました。本堂背後の庭に、小野篁が冥土へ通うのに使ったという井戸が残っています。

小野篁は小野妹子の子孫で実在した公卿ですが、いろいろな書物に不思議な話が伝わっています。もともとは母親が亡くなった時、親孝行だった小野篁は、母に会うために冥土に通い始めます。苦しむ母をなんとか救おうとして閻魔大王に直談判したのが始まりでした。やがて命を落とした人間を裁こうとする閻魔大王に、その人間を弁護し、とりなすようになります。

小野篁の上司である藤原良相が他界した時にも、裁こうとした閻魔大王に、小野篁がなんとか助けてやってもらえるようにと掛け合ったことで、藤原良相は蘇生できた話が伝わっています。