五山送り火

加茂川
今日は五山送り火。
”大文字焼き”なんて言うと京都人に心の中で馬鹿にされます。たぶん若草の山焼きと結びついた言葉でしょう。ちなみに奈良でも大文字送り火が前日の8月15日に行われます。
送り火の伝統を維持するのは大変で、少子高齢化の影響である保存会では男系のみとする世襲制の会員資格を女系の男子にも広げるようにしたという記事が掲載されていました。皇室問題みたいですね。
京都に勤めていた頃、同僚が下鴨近くに住んでいて「妙」か「法」の字の担当でした。午後には山に登って準備に入り、夜になって点火。周りは火だらけになり、おかげで送り火を見たことがないと言っておりました。そら見えないでしょうね。写真は賀茂川で遠くに西加茂の船形が映っていますが、見えませんね。
■大が犬になったことがあった
昔は馬鹿なことを考えた京都の学生がいて、山に入って茂みに隠れ、「大」の点火と同時に一斉に懐中電灯を点け「犬」にしてしまいました。あの時の学生は今は何をやっているんでしょうなあ。

3年の短命だった恭仁京

恭仁京
先日、笠置山城へ登ったついでに加茂駅で降りて恭仁京跡へ行ってきました。駅から木津川を超え、高台に大極殿跡があります。三方が山に囲まれて南側は木津川が流れていますので、守りやすい要害の地になります。
恭仁京は藤原広嗣の乱が起きた後、聖武天皇が平城京から遷都した都です。ところが都づくりをしている最中に一山超えた紫香楽宮に移り、次に難波京、最終的には、もとの平城京へとめまぐるしく変わります。なぜ遷都を繰り返したのか古代史不思議の一つになっています。国分寺国分尼寺造立の詔は、この恭仁京で出されました。
造られた大極殿は、その後、山城国分寺が建てられた時に、そのまま金堂として利用されることになります。隣に七重の塔が建てられます。写真は、この塔の礎石になります。

蛤御門

蛤御門
昨日、京都まで行ったので久しぶりに蛤御門を見てきました。地下鉄・丸太町駅を上がると、すぐ御所ですので、少し歩いたところに蛤御門があります。
幕末に禁門の変(蛤御門の変)が起きたところです。政変で京都を追放された長州藩が、御所の会津藩、薩摩藩を攻めた事件ですが、結局、長州は負けてしまい、朝敵となってしまいます。松下村塾の久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司邸で自害。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られます。大河ドラマ「花燃ゆ」では東出昌大が久坂玄瑞、鈴木伸之が寺島忠三郎、要潤が入江九一役でした。
蛤御門の周辺が長州との激戦地となり、門柱には弾痕が残っています。結局、京都市街も焼けてしまい、”どんどん焼け”と呼ばれています。京都人が”先の戦”というと太平洋戦争ではなく、蛤御門の変と答える逸話が生まれることになります。
主戦派だった真木和泉は敗残兵と共に天王山で戦いましたが敗退し、自害します。JR山崎駅から秀吉が造った山崎城へ登る途中に「十七烈士の墓」があります。

日本酒フェスティバル(京都)

日本酒フェスティバル
奥さんのお供で京都へ。
お目当ては京都市役所前で行われた平安日本酒フェスティバル2016です。お酒は1杯300円ですが、6枚つづりのチケットを1500円で買うと1杯、お得になっています。
各店では日本酒と酒のアテを売っています。京都らしくハモのフライもありました。それにしても今日の京都は暑かったですね。冷たい日本酒を飲んでも、すぐ喉が渇きます。

都をどりの収支

都をどり
祇園・花見小路にある祇園甲部歌舞練場へ都をどりを見に行っておりました。
会場は848席で指定席券は4,200円です。学生割引もありますが、お茶券付きになると4,800円になります。全部埋まらないので稼働率を80%にすると
4,200円×848席×80%=2,849,280円
1日4講演ありますので
2,849,280円×4回=11,397,120円
1100万円ほどが1日あたりの収入です。

舞をしているのが40名、三味線が8名、太鼓や笛などで8名、裏方が50名ほどはいますので人件費は110人ほど。これに稽古にかかる人件費、光熱費、設備維持費や減価償却費、パンフレット代や予約システム代などがかかるので、経費もけっこうかかりそうです。
もともとは明治維新で関西が地盤沈下したため明治5年に始まったのが歴史で今年で144回目となります。フィナーレはなかなか艶やかでした!

都をどりでワンウェイコントロールを学ぶ

都をどり
奥さんのお供で観光客で一杯の祇園・花見小路へ 祇園甲部歌舞練場へ都おどりを見に行ってきましたが、行ったのは初めてで、きちんとワンウェイコントロールになっていました。
ワンウェイコントロールというのは 入口から出口までの通路を一方向で設計することで、スーパーなどで導入されています。東京ディズニーランドなどの遊園地のアトラクションもワンウェイコントロールになっています。 まず入ると土産物を提供している会社の説明と庭園をまわるようになっています。次に150名ぐらいづつ順番でお茶席に通されます。
一番前で舞妓さんがお茶をたてていますが、配られてきたお茶とお菓子をいただくだけ。お菓子を入れていた皿は持ち帰れるようになっています。家に変な皿があるのは、ウチの奥さんが都をどりに来るたびに皿をもらってきているからなんですなあ。 次に土産物コーナーに通されます。”出口は別になりますので後では買えません”と心理学をうまく考えた張り紙がありました。
最初に見た土産物提供会社の商品が売られています。なるほど!思わず納得して猫の扇子を買ってしまいました。(笑) ようやく劇場に入って舞台です。城南宮の曲水の宴など春夏秋冬のいろいろな舞台が演じられ、最後の背景は城でした。京都で城!まさか聚楽第!と思ったら姫路城でした。(笑)外国人には日本情緒満載でうけるでしょうねえ。 しっかりとしたワンウェイコントロールですので、劇場を出ると観光客で一杯の花見小路でした。

扇の芝

扇の芝
天気がよかったので奥さんと宇治の平等院へ。
平等院の入口にあるのが有名な扇の芝。鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政が自害した場所です。以仁王の平家打倒の綸旨をうけて挙兵した源頼政。平等院に籠って戦いましたが平氏に宇治川を突破され多勢に無勢で自害します。
能「頼政」では、宇治に立ち寄った僧を呼び止め、頼政の幽霊があらわれ回向を頼んで、扇の芝の草蔭に消えていきます。能では、よく「扇の芝」という言葉が出てきますが、その場所が何の変哲もないココ。ただし観光客のほとんどはまっすぐ平等院鳳凰堂を目指して、誰もいません。
平等院は修復工事をしていますが、創建当時からある扉絵「日想観図」の復元扉が博物館に展示されていました。12月6日まで公開され、その後はお堂に取り付けられるそうで、間近で目にすることができるのは今だけ。ラッキーでした。

今も残る御土居

ブラタモリ
「笑っていいとも」が終わって復活したのがブラタモリ。レギュラー放送は4月からですが、さっき京都編の特別番組をやっていました。
インクライン、新京極などがテーマでしたが、よかったのが秀吉が作った御土居。京都を外敵から守るのと洪水対策もあって土塁で囲んだのが御土居です。番組では特別に御土居の上をタモリが歩いていましたが、いいなあ(笑)。
洛中・洛外と呼ぶのは、この御土居の中か外かをあらわします。洛は平安京が作られた時に左京を洛陽城、右京を長安城と称していましたが右京は湿地帯で衰退し、左京が栄えたため京都のことを洛というようになります。御土居には出入口がいくつか設けられ、これが丹波口や荒神口などの地名で今も残っています。
都市化によって御土居は一部をのぞいて消えてしまいましたが、昔、勤めていた専門学校の本部が河原町通りの廬山寺近くにあり、裏の窓を開けるとだいぶ低くなっていましたが、この御土居が残っていました。見ても単なる土の山ですが、初めて見た時は「御土居が残っている!!」と興奮したものです。
→ 御土居マップ 今も京都の街に残っています

あとの祭り 関の山

綾傘鉾
京都では祇園祭がスタート。
今年の見どころは「あとの祭り」の復活。山鉾巡行が毎年17日(木)に行われますが、これは昭和41(1966)年から一本化されたもので、それ以前は前祭りと後祭りに分かれていたそうです。って50年も前の話なんで、後祭りは見たことはないんですが(笑)
後祭りの巡行は前祭りの1週間後24日(木)に行われます。前祭は23基が巡行、後祭は10基が巡行しますが、後祭りの一番最後に登場するのが大船鉾。幕末に長州と幕府・薩摩郡が激突した「禁門の変」の時に燃えてしまい休み鉾になっていたのを復活するそうです。蛤御門の変という言葉が出てくるのは、いかにも京都らしいですね。
「今さら悔やんでもあとの祭りだ」と言ったりしますが、この語源が祇園祭というのが有力だそうです。祭りにまつわる言葉としては「関の山」もあります。これは三重県関町の祭りに出る山が立派で、これ以上の山は作れないだろうということから、限度を「関の山」というようになりました。
祇園祭では綾傘鉾の棒振り囃子が好きなのですが、こちらも江戸時代の大火で鉾が燃えてしまいましたので、現在は棒振り囃子の形で祭りに参加しています。曳き鉾での復活が望まれますね。

今出川は川だった

takase201311.jpgNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台と言えば同志社大学。烏丸通と今出川通が交差する烏丸今出川にあります。旧薩摩藩邸の跡地です、隣には藤原道長から連綿と続く冷泉家、今出川通りの向かい側には京都御所があります。 

先日、本能寺(本能寺の変の後、豊臣秀吉の命令で寺町御池へ移転)で展示を見ていたところ、室町時代の頃の京都地図があり、相国寺あたりに今出川が通っていました。現在の今出川通りは東西の通りですが、当時は文字通り今出川で北から南に流れる川。 

相国寺(同支社大学の北側)と室町殿(室町幕府のあったところ)ですので現在の烏丸通りあたりを今出川が流れていました。これが同志社大学のキャンパスの北あたりから東へ流れる川とそのまま現在の今出川通りあたりまで流れて東に曲がる川の二手に分かれます。 

現在の寺町通りで2つの流れがまた1本になり、寺町通りを南下し、最終的には鴨川に流れ込んでいます。2010年に今出川キャンパスの発掘調査で室町時代の水路跡が見つかったそうで、これが今出川ではないかと言われています。 

今出川と言うと「通り」のイメージしかなかったのですが川だったんですね。写真は木屋町を流れる高瀬川。江戸時代初期に角倉了以・素庵父子が作った運河です。