物部神社は物部氏に由来する神社で日本の広い範囲にわたって分布しています。祭神の多くは、物部氏の初代とされる宇摩志麻遅命や祖神である饒速日命です。
東大阪や八尾は物部氏の根拠地だったので、そこらへんに物部の神社があります。ウチの近くにあるデンボの神様で有名な、石切神社は饒速日尊とその子供、可美真手命(うましまでのみこと)を祭っています。神主さんは代々、木積(こづみ)氏で、もともとは穂積氏という名前。饒速日尊の第七代目が穂積と名乗り始めました。つまり木積氏は物部氏そのもので、現在まで家系が続いています。出雲国造も延々と続いていますが、東大阪にもこんな一族がいるんですなあ。石切神社の神主も百何代目なので、めちゃくちゃ古い神社です。
八尾には物部守屋が聖徳太子や蘇我馬子と戦をした場所が大聖勝軍寺として残っています。
伊勢には飯高の伊勢寺神社(合祀)と一志の物部神社の2つがあり、一志の物部神社に行ってきました。場所は近鉄で名古屋から伊勢中川駅に向かう手前にあります。雲出川を渡ると大阪線への分岐があるのですが、川を渡る手前、住友電工の工場のすぐ横。電車が伊勢中川駅に向けて減速する頃に見ることができます。
社殿は建て替えられており、きれいになっていましたが古代からずっとあったんでしょうね。伊勢には伊勢津彦という出雲と同じ国譲りの神話が残っていますので、物部(出雲系)ですので、その頃から神社があったかもしれません。
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四日市商工会議所でIT窓口相談
午後は四日市商工会議所でIT窓口相談。相談は2件で、相談の後、2月に行うセミナーの打ち合わせをして帰ってきました。IT窓口相談は月に1回、伊勢商工会議所と四日市商工会議所で開催しています。
もともとは3類型と言って、中小企業・ベンチャー総合支援センター、都道府県等中小企業支援センター、地域中小企業支援センターが、平成11年中小企業基本法の改正でできました。
三重県の場合、中小企業・ベンチャー総合支援センターは名古屋にある中小企業基盤整備機構・中部支部で、都道府県等中小企業支援センターが三重県産業支援センター、地域中小企業支援センターが伊勢商工会議所、四日市商工会議所でした。地域中小企業支援センターはローカルセンターとも言っていました。
当時、三重県産業支援センターからローカルセンターへ出向いてIT相談をしており、3類型がなくなっても何とか続けてほしいと依頼があり、10年近く続いています。予約制なので予約が入らないと行かないので2ケ月ぶりぐらいに四日市商工会議所へ行ったのですが、すぐ近くの国道1号線沿いにセブンイレブンが出来ていました。あっという間に作ったんですね。
次回の四日市商工会議所のIT窓口相談は2月13日(水)ですので、お近くの方はぜひどうぞ!会員以外でも大丈夫です。
真因は何?
朝から津へ行っていたのですが夜、津から大阪へ近鉄急行に乗って戻ってきました。
伊賀上野へ行く伊賀鉄道と連絡している伊賀神戸駅(三重県)に到着すると伊賀鉄道が遅れていたため停車時間が伸び、4分遅れて出発。結局、八木駅(奈良県)まで遅れは解消しませんでした。「伊賀鉄道が遅れたため4分遅れて到着します」と車内アナウンス。
八木駅で降りると、連絡している京都行き急行が発車時間を遅らせて待っていました。西大寺駅に着くまで遅れは解消せず、「大阪線の列車が遅れたため、4分遅れて到着します」と車内アナウンス。
西大寺駅(奈良県)では奈良線と連絡しているので、こちらの電車も連鎖して遅れます。「京都線の列車が遅れたため、各駅の到着が遅れます」と車内アナウンス。
近鉄は関西一円に電車を走らせていますので、伊賀での遅れが遠く京都や大阪にまで影響が波及します。さて西大寺駅から乗った乗客にとって遅延の原因は京都線の遅れです。ですが、その前は大阪線の遅延であり、大元は伊賀鉄道の遅延でした。
直近の現象(京都線の遅延)だけ見ていては真因(伊賀鉄道の遅延)には至らないわけです。真因もひょっとすると伊賀鉄道の遅延ではなく伊賀上野駅で連絡しているJR関西本線が遅延していたのが原因かもしれません。
トヨタでは「なぜなぜ5回」ということで「なぜ」を5回続け真因を探ることを行っています。私たちの日々の生活でも、本当に隠れた原因は何なのか探る心構えが必要ですね。
結局、10分ほど遅れて新石切駅にたどりつきました。
伊勢志摩のパソコン女将
岩田川の戦い
末広橋梁
JR四日市駅から少し歩くと末広橋梁があります。
運河にかかる跳開式可動橋で、現役では日本最古の鉄道可動橋。作られたのは昭和6年ですので犬養毅内閣が成立した年になります。もちろん戦前です。運河を渡る鉄道で、列車が通行する時のみ降ろされます。
可動橋は四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車が通り、1日に5回ほど貨物列車が行き来します。貨物列車が通るところを見られるとラッキーですね。中部国際空港建設時は土砂輸送で、けっこう頻繁に使われたようです。80年も前に作られた可動橋が今も現役で使われており重要文化財、近代化産業遺産に認定されています。
セメントや土砂は三岐鉄道の東藤原からJR関西本線の富田経由で運ばれています。三岐鉄道と言えば、もともとはセメントを運ぶのが目的で作られた列車で、今も貨物輸送を行っています。
旅客列車は昔、富田駅に到着し、近鉄に乗り換えるには近鉄富田駅まで歩かないといけませんでしたが、今は近鉄富田駅に結ぶ線が作られ、ホームでそのまま乗り換えられるようになっています。貨物列車は昔、同様に富田駅に着き、そこからJRの路線に入って運んでいます。
斎宮
午後、明和町の企業さんへ行く予定でしたので、近くの斎宮へ寄ってきました。
伊勢神宮へお参りする人は多いのですが、途中にある斎宮へ足を延ばす人はほとんどおりません。隠れスポットで、あまり知られていませんが平城京跡なみのすごい史跡です。
斎宮とは古代から南北朝時代まで続いた伊勢神宮に奉仕する斎王の御所。ここで520人ほどが働いていましたが、中心となるのが斎王。美内すずえさんの漫画「アマテラス」は倭姫をモチーフにしていますが、この倭姫が2代目斎王です。
天皇が変わるたびに未婚の内親王または女王の中から斎王を選びます。まずは嵯峨野にある野宮(現在の野宮神社と言われています)で斎戒生活を送ってから伊勢へ向かいます。
歴史にもたびたび斎王が登場しますが有名なのは斎王になった姉・大伯皇女に会いにきた大津皇子。大伯皇女が大津皇子を見送った歌が万葉集に残っています。「わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に 吾が立ち濡れし」。この後、大津皇子は24歳の若さで処刑されてしまいます。
斎宮の中央を農道(遊歩道)が走っているのですが、発掘の結果、この道が奈良時代から現代まで続く道であることが判明。奈良古道と呼ばれています。最近、各区画を分けている道の一部が復元されましたが、広いですねえ。この道のすぐわきで国内最古となる「いろは歌」の墨書土器が出土し話題となりました。
残念なことに月曜ですので斎宮歴史博物館は閉まっていました。
船場総研 伊賀上野散策
船場勉強会という大阪を中心とした中小企業診断士の勉強会があります。もともとはNifty-ServeのFlic(資格フォーラム)にあったオフライン勉強会。ここのOB組織が船場総研です。試験合格後も勉強会へ出入りして、受験生の邪魔だということで邪魔しないように組織されたようです。(笑)
船場総研では年に何回かビジネススクールのような勉強会を開催したり、商店街視察をしたりしているのですが、最近は蔵巡りなど遊びモードが中心になっています。
一度は三重でやろうということで昨日は伊賀上野散策を行いました。伊賀上野は仕事でよく行っているので新鮮味はないですね。(笑)
お昼は伊賀上野名物の田楽を食べに、田楽座わかやへ。炭焼きの田楽で有名なお店で、平日は少し待てば入れますが、さすがに祝日は超満員。20分ほど待って、おいしくいただきました。昼食の後は、鍵屋の辻(ここは知られていないのか観光客は一人だけ)~崇廣堂(藩校)~伊賀上野城~忍者屋敷を巡ってきました。伊賀上野城や忍者屋敷は観光客が多かったですね。
夕方になったので上野市駅から少し歩いたところにある養老の滝へ。伊賀上野で居酒屋ってあまり見たことなかったので事前に調べ、伊賀の人に聞いたのですが上野市駅周辺に居酒屋は皆無。少し離れたところにポツン、ポツンとあるぐらい。地元の人は居酒屋はロードサイト店に送迎付きで行くそうです。帰り際にちょっと一杯行こか、はいいけど、行く店がないのは困るなあ。
津城下図
三重県産業支援センターで昼休みに中日新聞を見ていると津城下図が発売されたという記事を発見。発売されたのは寛永期(17世紀)、享保期(18世紀)、嘉永期(19世紀)の3枚です。享保期については去年も発売され、たまたま新聞で見つけたのですが、10日ほど経って買いに行ったら早々に売り切れていました。今回は発売開始3日後の金曜に少し時間ができたので津市役所へ出かけて買うことができました。嘉永期は1000部、寛永期、享保期は500部の発売で、金曜日時点で既にだいぶ減っていました。3枚ともゲットできたのはラッキー。
道は庭岩禅寺、八百亀商店(八百屋さん)、佛眼寺、天理教津大教会の横を通って百五銀行本店の裏側で岩田川にぶつかります。古地図を見ると同じ位置に道があり庭岩禅寺や佛眼寺の名前が見えます。何とと言うことはない道なんですが江戸時代から、ずっと続いている道なんですね。
現在はありませんが岩田川の中には島があり、位置的には中部電力・津支店あたりのようです。
古地図を眺めて歩くとブラタモリ気分が味わえます。あの番組、復活しないかなあ。
宣長ってどんな人?
松阪にある「オーダシャツのHashimoto」へ寄った時に「宣長ってどんな人?」という冊子をもらってきました。橋本さん、ありがとうございます。
宣長とは本居宣長のことで、今年は古事記編さん1300年ですので、注目はやっぱり本居宣長でしょうね。古事記は712年にまとめられましたが、伝わっている古事記は1371年に書き写された「真福寺本古事記」が一番古いものになります。と言うことは原本に何が書かれていたかは定かではありません。他の話が入ったり、間違った字で写していることもあります。
そこで本居宣長が始めたのは古事記と同時期に出来た万葉集の研究。古い言葉を正しく読めるところから始めました。そして35年かけて出来たのが「古事記伝全44巻」、古事記の解説書です。現在の古事記の基本はこの解説書から始まっています。
■酒は3杯まで
この本居宣長ですが、筆まめで死ぬまで細かく記録をつけています。家計簿まで残っているので、いつ何をしたかが、よく分かります。若いころはいろいろと羽目をはずしていたようで京都へ遊学していた頃は、よく酒を飲んでいたようで。噂を聞いた母親から、「この手紙が届いた後は、3杯以上のお酒を飲んではダメ」とダメ出しを受けています。
■参宮幸便
江戸時代、手紙は飛脚が運んでいましたが、小さな村などに届けるのは日数もかかり大変。そこで全国にいた宣長の弟子が考えたのが参宮幸便。本居宣長の家は参宮街道から一本入ったところにありましたので、伊勢神宮へお参りする人に届けてくださいと預けていました。また伊勢参りの後にできたら返事ももらってくださいと頼んだそうです。
写真は本居宣長の家の跡地。家そのものは松阪城に移転し、本居宣長記念館になっています。ここからは松坂城が目の前に見えました。
■松阪の一夜
師である賀茂真淵と会ったの生涯たった一度。昔の教科書に載っていた逸話ですので年配の方はよくご存知ですね。賀茂真淵は伊勢参りの途中、松阪の新上屋に泊まり、宿から連絡を受けて本居宣長と会っています。この新上屋って、商店街の真ん中にあったんですね。知らなかった、今度、松阪へ行った時に探してみます。