萬金丹 おじゃマップ

伊勢の企業さんへ専門家派遣で行っていたのですが伊勢市役所でバッタリ会ったのが伊勢くすり本舗の加藤さん。 

伊勢くすり本舗さんは、おかげ横丁の屋台で萬金丹(胃腸薬 600年の歴史があります)や萬金飴を売っています。先日、フジテレビのおじゃマップという番組(香取慎吾と山崎弘也が各地を訪ねる番組)の取材がおかげ横丁を舞台にあり、食べ過ぎを解消するために萬金丹を買いに来られたそうです。 

大阪や東京では,今週水曜に放映があり翌日、メールや電話がけっこうあったそうです。。テレビの効果は大きいですね。 

ただ、三重では放映が1週間遅れなので、本人はまだ見ていないそうです。やっぱり三重は田舎だなあ。
▼伊勢くすり本舗
http://www.mankintan.net/

赤福2個入り

ise201305.jpg本日の午後は伊勢商工会議所でIT窓口相談 

お昼休みに伊勢商工会議所の近くにある外宮へお参りに行ってきました。連休が終わったので少ないかなと思ったら、けっこうな参拝客。さすがに拝殿に入るのに並ぶほどではありませんが団体客など多かったですね。 

今年のゴールデンウィークは遷宮効果のせいか伊勢神宮への参拝客が昨年の1.5倍になったそうです。期間中はごった返していたんでしょうね。 

写真は伊勢商工会議所においてあるお白石持行事用の山車。新しい御正殿の敷地に敷き詰める「お白石」を奉献する儀式で、特別神領民によって7月~8月に行われます。 

帰りに宇治山田駅の赤福のお店によると折り箱のほかに2個入りを売っていました。3個入りパックは知っていたんですが2個入りがあったんですね。ちゃんと赤福をすくうヘラも入っています。2個で220円。20個入りは1700円なので1.3倍ほど割高です。(笑) 

そんなに数は食べられないし2個ぐらいがいいですね。 

赤福のホームページを見ると銘々箱というそうで、平成16年10月から発売しているそうです。宇治山田駅、伊勢市駅の赤福売場で今まで見たことなかったんですが、気がつかなかっただけかなあ。 

▼銘々箱 
http://www.akafuku.co.jp/product/meimeibako/

伊勢美し国十二景

sinto201303.jpg埼玉県新座市にある立教大学・映像身体学科では大学生が映像制作を学んでいますが、伊勢や伊勢神宮を訪れてオムニバス形式の映像、「伊勢美し国十二景」がWebで公開されています。 

全部で十二景あるんですが、なかなかの秀作ですね。個人的によかったのが第六景の「かつて路面電車が走っていた」です。 

伊勢には神都線と言う路面電車が走っていました。伊勢市駅・宇治山田駅から内宮や二見浦を結んでいた路線。 

伊勢市駅から外宮へ続く、参詣道を路面電車が走っていたのは知っていたんですが、宇治山田駅は現在の伊勢うどん「ちとせ」のすぐ近くにあったんですね。伊勢商工会議所でIT窓口相談があると、大体「ちとせ」に寄って伊勢うどん定食(750円)を食べているんですが、狭い通りで、こんなところを路面電車が走っていたんですね。 

第八景が「伊勢うどんと伝統のタレ文化」で、山口屋の製麺風景が出てきます。お店に伊勢うどんを食べに来た人が特徴を説明しているのですが、よく見たら菱田建材の社長夫妻(笑)。ビデオ撮りに駆り出されたんですね。 

伊勢神宮に興味のある方は第一景から、ぜひどうぞ!伊勢をよく知っているという人にも楽しめる内容です。第五景「建物でめぐる伊勢の街」もなかなか貴重ですね。 

▼伊勢美し国十二景 
http://www.ise12kei.com/

お白石持行事

ise20130306.jpg昨日は伊勢商工会議所でIT窓口相談でしたが、商工会議所入口にお白石持行事で使う奉曳車のミニチュア版が置いてありました。 

お白石持行事は遷宮の行事の一つで、特別神領民が行います。新しい御正殿の敷地に敷き詰める「お白石」を奉献する 民俗行事で、宮川より拾い集めた「お白石」を奉曳車・ 木そりに乗せ、沿道や川を練り進みます。この時に木遣りが歌われます。 

特別神領民は、ふだん立ち入れない新しい御正殿の近くまで進み、持参した「お白石」を奉献する行事で、始まったのは550年以上前にさかのぼると言われています。 

特別神領民は基本的に地元、伊勢の人で本番前にいろいろ練習もあるそうで、知り合いも集まって、木遣りの練習などをしているそうです。 

伊勢市駅前はビルの建て替えや駅前広場の工事などリニューアル真っ最中。伊勢はいよいよ遷宮本番を迎えます。

物部神社(一志)

物部神社
物部神社は物部氏に由来する神社で日本の広い範囲にわたって分布しています。祭神の多くは、物部氏の初代とされる宇摩志麻遅命や祖神である饒速日命です。
東大阪や八尾は物部氏の根拠地だったので、そこらへんに物部の神社があります。ウチの近くにあるデンボの神様で有名な、石切神社は饒速日尊とその子供、可美真手命(うましまでのみこと)を祭っています。神主さんは代々、木積(こづみ)氏で、もともとは穂積氏という名前。饒速日尊の第七代目が穂積と名乗り始めました。つまり木積氏は物部氏そのもので、現在まで家系が続いています。出雲国造も延々と続いていますが、東大阪にもこんな一族がいるんですなあ。石切神社の神主も百何代目なので、めちゃくちゃ古い神社です。
八尾には物部守屋が聖徳太子や蘇我馬子と戦をした場所が大聖勝軍寺として残っています。
伊勢には飯高の伊勢寺神社(合祀)と一志の物部神社の2つがあり、一志の物部神社に行ってきました。場所は近鉄で名古屋から伊勢中川駅に向かう手前にあります。雲出川を渡ると大阪線への分岐があるのですが、川を渡る手前、住友電工の工場のすぐ横。電車が伊勢中川駅に向けて減速する頃に見ることができます。
社殿は建て替えられており、きれいになっていましたが古代からずっとあったんでしょうね。伊勢には伊勢津彦という出雲と同じ国譲りの神話が残っていますので、物部(出雲系)ですので、その頃から神社があったかもしれません。

四日市商工会議所でIT窓口相談

yokkaiti201301.jpg午後は四日市商工会議所でIT窓口相談。相談は2件で、相談の後、2月に行うセミナーの打ち合わせをして帰ってきました。IT窓口相談は月に1回、伊勢商工会議所と四日市商工会議所で開催しています。 

もともとは3類型と言って、中小企業・ベンチャー総合支援センター、都道府県等中小企業支援センター、地域中小企業支援センターが、平成11年中小企業基本法の改正でできました。 

三重県の場合、中小企業・ベンチャー総合支援センターは名古屋にある中小企業基盤整備機構・中部支部で、都道府県等中小企業支援センターが三重県産業支援センター、地域中小企業支援センターが伊勢商工会議所、四日市商工会議所でした。地域中小企業支援センターはローカルセンターとも言っていました。 

当時、三重県産業支援センターからローカルセンターへ出向いてIT相談をしており、3類型がなくなっても何とか続けてほしいと依頼があり、10年近く続いています。予約制なので予約が入らないと行かないので2ケ月ぶりぐらいに四日市商工会議所へ行ったのですが、すぐ近くの国道1号線沿いにセブンイレブンが出来ていました。あっという間に作ったんですね。 

次回の四日市商工会議所のIT窓口相談は2月13日(水)ですので、お近くの方はぜひどうぞ!会員以外でも大丈夫です。 

真因は何?

kintetu201301.jpg朝から津へ行っていたのですが夜、津から大阪へ近鉄急行に乗って戻ってきました。

伊賀上野へ行く伊賀鉄道と連絡している伊賀神戸駅(三重県)に到着すると伊賀鉄道が遅れていたため停車時間が伸び、4分遅れて出発。結局、八木駅(奈良県)まで遅れは解消しませんでした。「伊賀鉄道が遅れたため4分遅れて到着します」と車内アナウンス。 

八木駅で降りると、連絡している京都行き急行が発車時間を遅らせて待っていました。西大寺駅に着くまで遅れは解消せず、「大阪線の列車が遅れたため、4分遅れて到着します」と車内アナウンス。 

西大寺駅(奈良県)では奈良線と連絡しているので、こちらの電車も連鎖して遅れます。「京都線の列車が遅れたため、各駅の到着が遅れます」と車内アナウンス。 

近鉄は関西一円に電車を走らせていますので、伊賀での遅れが遠く京都や大阪にまで影響が波及します。さて西大寺駅から乗った乗客にとって遅延の原因は京都線の遅れです。ですが、その前は大阪線の遅延であり、大元は伊賀鉄道の遅延でした。 

直近の現象(京都線の遅延)だけ見ていては真因(伊賀鉄道の遅延)には至らないわけです。真因もひょっとすると伊賀鉄道の遅延ではなく伊賀上野駅で連絡しているJR関西本線が遅延していたのが原因かもしれません。 

トヨタでは「なぜなぜ5回」ということで「なぜ」を5回続け真因を探ることを行っています。私たちの日々の生活でも、本当に隠れた原因は何なのか探る心構えが必要ですね。

結局、10分ほど遅れて新石切駅にたどりつきました。

伊勢志摩のパソコン女将

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【伊勢志摩のパソコン女将】
前田 千恵子著(静岡学術出版) 
偶然のきっかけから志摩で地域おこしに取り組む志摩の女将会と出会い、情報発をしたいという願いからパソコンを教えることになった著者。電源の入れ方から説明するところから始まりますが、次の難関はキーボードの配置を覚えること。そんなん無理と言いながら、紙に書いたキーボードで必至に練習に取り組むなど女将さんも実に熱心。 
教室で「メモ帳を出して」と言うとカバンから本物のメモ帳を出す受講生に対して、ドラッグをズルズルと表現するなど懇切丁寧に教えた成果からブログ開設やホームページによる「てこね寿司」レシピなどの情報発信が実現。情報発信が実り、いろいろな問い合わせが増え、テレビ取材を受けたり、「食と地域の絆づくり」選定証を総理官邸で贈呈されるまでになりました。 
地域の情報は自らの手で発信する姿勢が大切です。 その次に必要なのは儲ける仕組みを作ること。
■生産年齢人口が減り、地域活性化は待ったなし 
今から100年前といえば司馬遼太郎『坂の上の雲』の舞台となった日露戦争の頃、日本人口は4,385万人でした。この100年間、人口が3倍に増えるという外部環境で全ての商売を行ってきました。すでに人口のピークは過ぎており減り始めています。 
実は1995年、生産年齢人口(15~64歳の人口)が先にピークを迎え、この17年間減り続けています。生産年齢人口が減ったためお酒が売れなくなりました。若者がお酒を飲まなくなった以上に人口減の影響が大きく響いています。生産年齢人口が減るということは生産に伴う所得税が減るということです。国も地域も税金が減っていきますので、地域は地域なりに工夫してお金を集めなければなりません。 
■農作業を外注して、しかも儲ける仕組みを作る 
地域で高齢化がすすむと重労働である田んぼの世話ができなくなります。ただ、先祖伝来の田畑を自分の代で手放なすわけにもいきません。そこで農作業を外注するのですが、田植えを頼むと手間賃がかかります。田植えをするための種苗代もかかります。雑草を抜くのは自分でやるにしても稲刈りや脱穀を頼むとまたお金がかかります。結局、お米を作らずに買った方が安いことになり、ますます耕作放棄地が増えます。 
この田植えなどの農作業を何とかできないかと考え知恵をしぼったのが飯田市です。飯田市では農家450戸を組織して農家に泊まる農家民泊の修学旅行を誘致しています。修学旅行生を市町村や地元企業などが出資して作った株式会社南信州観光公社が受け入れています。しっかりとしたホームページを作り、都会の中学校などから集客しています。 
都会の中学生にとって、もちろん田植えは初めて。最初は田んぼに入るのもおぼつかない様子です。泥に足をとられキャーキャー言いながらやっていますが、さすがに若いのですぐに慣れて植えられるようになります。田んぼの中の色々な生き物が見ながら田植えを経験します。日本国中、機械植えが当たり前ですが、飯田市には今も手植えの田んぼが残ります。この田植えですが、農林業体験ということでしっかりお金を取っています。農家にとっては田植えの重労働から解放され、しかも潤う仕組みになっています。 
飯田市では農家民宿という体験もできます。農家に宿泊しながら農作業を手伝う体験で、ヨーロッパではグリーンツーリズムと言っています。やったことがない薪割りなどを体験し、囲炉裏端を囲んで農家のおじいちゃんから話を聞きます。家族にとっては、また同じ話をしているわとなり、誰も聞いてくれませんが、中学生にとっては初めての話で興味津津。おじいちゃんにとっては家族が聞いてくれない話を毎回しても大丈夫です。 
「田舎の人は純朴だ」と言っている時代ではありません。税金が減る中、しっかり地域へお金が落ちる仕組みを作らなければなりません。飯田市では農林業体験というコンテンツを整備し、都会から地域へお金が流れる仕組みを作りあげてきました。 
しかも、この成功体験を伝えるための出張講演や視察受け入れによる有償研修プログラムを用意して、さらにお金が地域へ回る仕組みを作っているのは葉っぱビジネスの上勝町や伊賀のモクモクと同様です。田舎ならばこそ、したたかに稼ぐ仕組み作りが重要です。 
▼南信州観光公社 
http://www.mstb.jp/

岩田川の戦い

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ウチの実家があるのが津市の岩田という土地。私が子供の時は弓屋敷と呼んでいたので江戸時代、藤堂藩の弓屋敷が並んでいたようです。伊勢は昔から南朝の牙城です。津市には垂れ梅で有名な結城神社があり、北畠親房と一緒に戦った結城宗広をまつっています。
津市の中心街を流れるのが岩田川。いたってふつうの川で海が近いため大潮には川の水位がかなり上がります。このへんてつもない川の名前をつけた「岩田川の戦い」というのがありました。戦いがあったのは室町時代。
長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。
当時、幕府は鎌倉公方足利持氏と争っていたこともあり北畠と和解。北畠の居城のあった美杉村は多気御所と呼ばれ栄華を誇りました。多気という名前がついていますがシャープの多気工場よりもはるかに山奥。当時は伊勢国と大和国を結ぶ初瀬街道沿いにある交通の要所でした。
繁栄した北畠家に隣の尾張から攻め込んできたのが織田信長。北畠は結局、信長に滅ぼされてしまいます。あまり知られていませんが北畠家の城主の妻が松永久秀の娘です。また大和の兵も多数派遣されていて信長の北畠家攻撃で全員玉砕してしまいます。翌年、松永久秀が織田信長を裏切り、信貴山城で名器・平蜘蛛茶釜と一緒に爆死しますが、こんなところに伏線があったんですね。
この岩田川周辺ではもう一度、大きな戦いがありました。関ヶ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いです。東軍についた富田氏を攻めるために西軍の毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・鍋島勝茂が3万の兵を率いて包囲。富田氏は西軍の猛攻を持ちこたえ結局、和睦に。西軍はこの後、関ヶ原に向かいます。

末広橋梁

yokkaiti201211.jpgJR四日市駅から少し歩くと末広橋梁があります。 

運河にかかる跳開式可動橋で、現役では日本最古の鉄道可動橋。作られたのは昭和6年ですので犬養毅内閣が成立した年になります。もちろん戦前です。運河を渡る鉄道で、列車が通行する時のみ降ろされます。 

可動橋は四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車が通り、1日に5回ほど貨物列車が行き来します。貨物列車が通るところを見られるとラッキーですね。中部国際空港建設時は土砂輸送で、けっこう頻繁に使われたようです。80年も前に作られた可動橋が今も現役で使われており重要文化財、近代化産業遺産に認定されています。 

セメントや土砂は三岐鉄道の東藤原からJR関西本線の富田経由で運ばれています。三岐鉄道と言えば、もともとはセメントを運ぶのが目的で作られた列車で、今も貨物輸送を行っています。 

旅客列車は昔、富田駅に到着し、近鉄に乗り換えるには近鉄富田駅まで歩かないといけませんでしたが、今は近鉄富田駅に結ぶ線が作られ、ホームでそのまま乗り換えられるようになっています。貨物列車は昔、同様に富田駅に着き、そこからJRの路線に入って運んでいます。