平城京 西市

710年、藤原京から平城京に都が移されます。都には政府直営の東市と西市が作られます。

西市
西市

平安京では米、麦、油、塩、海藻、魚といった食料品。他にも繊維製品、衣類、食器、文房具、薬なども売られていました。太刀や弓などの武器も売られていて平城京でも同様だったのでしょう。

■長屋王商店ではホカ弁を売っていた
藤原四兄弟の陰謀で自刃させられた長屋王も市に店を出していて、弁当と酒を出品していたようです。お米がたくさんあったので付加価値があがるように邸宅内で酒や飯に加工していました。お米は笥に入れて売っていたようで、今でいうホカ弁ですね。荷物が多いと運搬もしていたようです。

祟道神社

神社検索にとっても便利な法人番号検索サイト!「崇道」と入力するとヒットするのな9件で奈良に4件あります。

祟道神社
祟道神社

ですが出てくるのは奈良市内の4社だけ、法人番号検索サイトに出てこない小さな社がけっこうあり、昔、御所を歩いていた時に崇道神社を見つけました。

崇道天皇とは天皇に即位していない早良親王のこと、非業の死を遂げて怨霊となったため崇道天皇と追称されました。映画「陰陽道」で安倍晴明と戦っていました。

早良親王の容疑は桓武天皇の命で長岡宮を造営していた藤原種継暗殺事件です。結局、桓武天皇は平安京に遷都しますが、遷都の理由の一つが奈良仏教界の影響力低下を狙ったこと。当時の仏教界はテロ組織みたいなものですから暗殺も不思議ではありません。早良親王は奈良仏教界とも近かったので、まったくのシロというわけでもなさそうです。ただし無実の罪で殺されて怨霊になったということで崇道神社や御霊神社として祀られることになります。

山口神社

杵築神社と奈良に多いのが山口神社で法人番号検索サイトで検索すると全国39件中15件を占め、2番目は鳥取で7件です。同様に多いのが水分神社でこちらは48件中、18件、御県神社にいたっては5件すべてが奈良です。

鴨山口神社
鴨山口神社

奈良平野を取り巻く形であるのが御県神社で、さらにそれを取り巻くように山口神社があり、さらに高地の分水嶺に配置されているのが水分神社で同心円状になっています。御県は「みあがた」と呼んで、天皇の食事に供える農作物を栽培した朝廷の直轄地になります。

伊勢神宮の式年遷宮の最初が山口祭で新社殿の用材を切り出すにあたって「山の口に坐す神」に祈るお祭りです。山口神社は山の神と関係しているのでしょう。奈良の神社は奥深いですねえ。

杵築神社

磯城郡川西町吐田にある杵築(きづき)神社です。300mほど離れた所から大和川の改修によって移転しました。

杵築神社
杵築神社

この杵築神社の祭神はスサノオノミコトで、なぜか奈良県にたくさんあります。今は便利なツールがあって国税庁法人番号公表サイトで「杵築神社」と入力して検索すると44件ヒットします。その中で奈良県内が半分以上の24、次に続くのは大分と岡山の3なんで奈良がダントツです。

■さてクイズです。

日本一有名な杵築神社と言えばどこでしょうか?

ピンポン!そうです。出雲大社です。

古代から杵築大社と呼ばれてきましたが、明治4年に出雲大社へと改称されました。この時に祭神もスサノオノミコトから大国主に変更になっています。もっとも平安時代ぐらいまでは大国主が祭神だったようです。杵築大社がある島根には津和野しか杵築神社が見つかりませんでした。

でもなんでスサノオノミコトを祀る杵築神社が奈良に多いのでしょうか?

梅原猛「神々の流竄」ではヤマタノオロチは「大和のオロチ」で三輪山の神さんだと論説していましたが、後年、出雲から大量の銅鐸、銅剣、銅矛が大量に見つかったことから、やはりヤマタノオロチは出雲だということになっています。

でも杵築神社がなんで奈良に多いんですかねえ。

奈良湖

山の辺の道
山の辺の道

GWだというのに、ずっと家に籠ってセミナー準備。早く寒くなって山城シーズンになんないかなあ

そうそう推古天皇の後を継いだ舒明天皇の不思議な歌が万葉集に載っています。天の香具山に登って国見をした時の歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ」というフレーズが出てきます。奈良に海原はないので香具山の麓にある埴安の池を歌ったのではというのが定説です。

でも天の香具山からカモメが飛ぶ海原が見えたらどうでしょうか。

■古代、奈良湖があった
奈良盆地、縄文時代の遺跡は微高地で見つかりますが盆地の中心にはありません。弥生時代になってようやく見つかるようになります。古代、奈良湖があり弥生時代に水位が下がってきたようです。日本で一番古い官道と言われる山の辺の道が山麓を巡っているのは、残っている湖や湿地帯を避けるためのようです。また蘇我氏や葛城氏など古代の豪族が盆地の周辺を本拠地にしていたのも同じ理屈でしょう。舒明天皇の時代にも奈良湖の痕跡が残っていたようです。

邪馬台国説がある纏向遺跡には南北2本の運河がありましたし、斉明天皇も香具山の西から石上山(天理市)まで10数キロの運河を作りましたので奈良湖の痕跡をうまく活用して実現したのでしょ。

巨勢寺跡

近鉄・JR吉野口駅から少し歩いた丘にあるのが巨勢寺跡。

巨勢寺跡
巨勢寺跡

飛鳥、御所、五條、吉野へそれぞれアクセスできる便利よい場所にあります。巨勢寺の創建は聖徳太子と言われ、飛鳥時代の瓦が出土しています。

巨勢氏の氏寺だったようで巨勢氏は武内宿禰の次男が祖で蘇我氏と関係があったのでしょう。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時には巨勢氏は蘇我連合軍に加わっていました。巨勢氏は朝鮮半島との外交・軍事に従事していました。

巨勢寺跡近くに檜隅と呼ばれる地域があり、ここは東漢氏の本拠でオンドル跡が見つかっており、渡来系氏族が多く住んでいました。国際都市だったようです。

天誅組 五条代官所

五條市役所があり、ここが天誅組の舞台となった五条代官所跡です。今は碑だけが建っていますが、ここが幕末を揺るがした舞台ですねえ。

五条代官所跡
五条代官所跡

■天誅組として蜂起するも、ちゃぶ台返し
文久3年、尊皇攘夷派が朝議を握り、尊王攘夷の断行を祈願するため孝明天皇の大和行幸が決定します。

このまま討幕に向けようという考えがあり、吉村寅太郎らが大和行幸に先行して幕府の直轄地だった五條に入ります。天誅組として蜂起し、五条代官所を襲撃して討幕の旗をあげました。

ところが京都で”八月十八日の政変”が起こります。会津と薩摩が画策し急進派の公家と長州藩を排除するクーデターで大和行幸は中止に。歴史に名高い”七卿落ち”となります。そうそう時代祭の行列にも出てきます。

これで天誅組は大義名分を失い賊軍になってしまいます。天誅組は高取城を攻撃しますが山城を攻める能力はなく、城から放たれた大砲に怖れをなして撤退。ここらへんは司馬遼太郎の短編『おお、大砲』、『五条陣屋』に描かれています。

鎮圧にあたったのがは紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などで天誅組は壊滅してしまいました。捕縛した浪士の寛大な処置を津藩から幕府にお願いしたのに、幕府が斬首したことが鳥羽・伏見の戦いで津藩が寝返る遠因になった説もあります。

吉野の花見

秀吉というと醍醐の花見が有名ですが吉野でも行っています。

吉水院
吉水院

実施したのは1594年で総勢5000人が参加した5日間の花見でした。同行したのは徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らの武将など。ただし3日間も雨が降り続いていたので怒った秀吉は何とかしないと吉野山に火をかけて下山するとダダをこね始めます。完璧なパワハラです。驚いた吉野の僧たちが全山で晴天祈願を行うと、翌日には晴天になったそうです。ほんまかいなあ(笑)。秀吉は紀州征伐では根来寺を焼き討ちした前科がありました。

秀吉が花見で本陣にしたのが南朝御所だった吉水院でした。やはり守るには適していたのでしょう。

静御前

後醍醐天皇の南朝拠点となった吉水院ですが山城の郭状になっており、吉水院は崖に懸け造りで作られていて攻めるのには難しい場所になっています。

吉水院
吉水院

後醍醐天皇以前にここを訪れたのが源義経。頼朝と決裂して義経追討に動いたため九州で再起するために大物浦から船出しましたが、暴風によって難破してしまい摂津に押し戻されてしまいます。郎党や静御前を連れて吉水院に隠れますが、ここでも追討をうけ静御前は捕らえられてしまいます。吉野は隠遁させましたが戦闘に関しては中立だったのでしょう。

鎌倉に送られた静御前が頼朝の前で「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を歌ったのを頼朝が激怒。ところが北条政子が私も同じ立場なら同じことをすると取りなしてくれます。

後醍醐天皇・玉座

日本史で学んだ建武の新政。

後醍醐天皇・玉座
後醍醐天皇・玉座

鎌倉幕府を滅び、後醍醐天皇を中心に親政をはじめますが、やがて足利尊氏と対立。後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代が始まります。ということで吉野に残る後醍醐天皇の玉座です。ここが南朝の拠点でした。吉野山の上なので冬は寒かったでしょうね。

■よく分からない建武の新政
この建武の新政ですが、実はよく分かっていません。公家中心の政治が始まり武士の不満がたまって失敗したと昔、習いましたが、そんなことはなく、この時に生まれた政治システムがそのまま室町幕府にも引き継がれています。

東国を中心とした御家人と近畿を中心とした悪党(御家人じゃない武士)との対立など複雑な要素がからまっています。そもそも後醍醐天皇の討幕の動機は自分の息子を皇位につけたいことにあり足利尊氏はOKと言っているので二人が争う必要はなく、御醍醐天皇が吉野へ逃れた時、足利尊氏は「なんで~え」と思ったでしょう。