大和神社・御旅所

山辺の道シリーズ、最後は大和神社の御旅所。大和神社は「おおやまとじんじゃ」とよ、崇神天皇の時代に何かとんでもないことが起きた舞台です。

大和神社・御旅所
大和神社・御旅所

大和神社の本殿は山辺の道から下った麓にあるんですが、最初の鎮座地はよく分かっておらず長岳寺近辺など、いろいろな説があります。長岳寺近くに御旅所があるんで、このあたりが最初の鎮座地だったかもしれません。

■2つの神様を外へ
伊勢神宮の内宮は元々、宮中に祀られていたアマテラスを豊鋤入姫命が笠縫邑に移し、ここから適地を探して行脚。最終的に内宮に祀ることになります。アマテラスと同時期に宮中に祀られていたのが倭大国魂神で、日本書紀によれば世の中が乱れたり謀反など不穏になるのは2つの神様を同じ大殿に祀っているせいということから、崇神天皇は2つの神を外へ出すことになります。

倭大国魂神が祀られたのが最終的に天理市にある大和神社になります。この時に大物主のお告げにより大田田根子を探し出して大物主を祭ることになり、これが三輪神社となります。倭大国魂神は大和の地主神のようで、大物主は出雲の神様、アマテラスは本来、男神だったようで、よく分かっていません。とにかく何かが起きていたんですねえ。

神籬

神籬は「ひもろぎ」と読み、神社など以外で、臨時に神を迎えるための依り代となるものをいいます。山辺の道からちょっと入ったところに神籬遺跡があります。この辺りの字名が「ヒモロギ」で、日本書紀に「アマテラスを倭の笠縫邑に祭る。よりて磯堅城の神籬を立つ」とあり、この神籬ではないかといわれていますが、よく分かっていません。

神籬
神籬

大神神社のご神体が三輪山で、神は山や大木、大岩を依り代にすると考えられてきました。河内一宮である枚岡神社は本殿や拝殿がありますが、ハイキングコースをひたすら登った神津嶽に本宮があり、小さな社が建っています。ここが古代祭祀跡で枚岡神社の創始の場所になっています。新宮の神倉神社もゴトビキ岩がご神体になっています。

伊勢神宮の正殿、床下中央部分には心御柱(しんのみはしら)があり、これも神籬の一つです。遷宮の旧社殿を見ると小さな社が建っていて、この心御柱を守っています。

平等寺

山辺の道沿いにある平等寺。聖徳太子の開基といわれています。

平等寺
平等寺

境内には島津家ゆかりの寺という旗がたっています。気になって調べてみたら関ケ原の戦いに関係していました。関ケ原の戦いで西軍に属していた島津義久軍は戦場に取り残される形となります。家康の本陣近くが手薄だったので撤退といいながら正面突破するという有名な島津の退き口が始まります。

壮絶な戦いで井伊直政はこの時に島津から受けた傷が原因で死んでしまいます。ただ島津の軍勢はわずか80名になり、伊勢に入ってからバラバラでの逃避になります。島津義弘以下、13名が平等寺に落ちのびます。

義弘主従は70日間、平等寺に逗留し、住職から帰りの舟を用立てるお金を借りて、無事に大坂経由で薩摩国に帰還できました。これが縁で後の島津家は平等寺を大事にすることに。護摩堂を寄進し、毎年、鹿児島からお米と祈祷料を奉納していました。こんなところに関ケ原の歴史が残っているんですね。

纏向日代宮

第12代、景行天皇の宮が纒向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)。伝承地からは邪馬台国の有料候補である纏向遺跡を一望できます。大型建物跡などが見つかり、いずれにしてもヤマト政権の始まりになったところです。でもなんで見下ろせるような高い所に宮を作ったかは謎です。

纏向日代宮
纏向日代宮

景行天皇の皇子がヤマトタケルで東国から九州・熊襲まで平定した古代の英雄です。九州の熊襲はもともと景行天皇が平定しましたが、また反乱が起きたためにヤマトタケルを派遣しました。ヤマト政権初期は天皇自身が軍事を司っていましたが、平安時代となり自分たちの手が汚れないよう軍事をアウトソーシングすることになりました。これが武士の誕生になります。

■三重の語源
ヤマトタケルの有名な歌が「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」で能褒野で亡くなる前、大和をしのんでよんだと伝わっています。ヤマトタケルは東国から大和へ戻る途中、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病になります。伊勢国に入り急坂を杖をついてようやく登り、「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言ったころから”三重”という地名になったと伝わっています。

複雑怪奇な神坐日向神社

山の辺の道から少しはずれた丘の上にあるのが神坐日向神社。大神神社の摂社で小さな社ですが式内社です。式内社というのは延喜式神名帳に記載されている由緒正しい古社のことで、実際の所在地がよく分かっていない式内社も多く、でも格が上がるのでウチは式内社と宣言している神社もあります。

神坐日向神社
神坐日向神社

神坐日向神社が祀っているのはオオタタネコ(大神神社の初代神主)の曾祖父・祖父・父であるクシミカタ・イヒカタスミ・タケミカツチです。クシミカタが大物主の子供になります。

■名前を間違えた?
この神社はいろいろと論争にある神社で、明治になってから三輪山山頂にある高宮神社(祀っているのは日向御子神)と神社名を間違えた説があります。

山頂で日向御子神を祀っているので今の高宮神社は日向神社の方があっているでしょう。大神神社の神主・高宮家(大神氏の直系後裔)がその祖神を祀った社の名前としては高宮神社がふさわしいので今の神坐日向神社が本来の高宮神社の名前がふさわしいです。実際に明治18年に大神神社宮司から明治政府に神社の名前を訂正したいと申し出がありましたが却下されました。

■明治政府の陰謀説もある
もっとも高所(山頂)に坐す宮で高宮神社でもよいという説もあります。うがった見方として皇祖神としてアマテラスを中心にすえて伊勢神宮などを整備している明治政府にとって出雲の神(国つ神)である大物主の大神神社に同じ日を祀る神様がメジャーになるとまずいので間違えた神社名のままにしたという説もあります。

磯城瑞籬宮

海石榴市から山の辺の道がスタートし、三輪神社へ行く手前に磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)があります。

磯城瑞籬宮
磯城瑞籬宮

第10代、崇神天皇の宮で、崇神天皇は実在した天皇と考えられています。崇神天皇の時代、新型コロナのように国中に疫病が蔓延。大物主大神の意に従い、子孫となる大田田根子を探し出してお祀りしたことから疫病がおさまり、大神神社となりました。

■四道将軍
崇神天皇は東海、北陸、西国、丹波の四方に将軍(四道将軍)を派遣します。北陸道と東海道を進んだ将軍が出会った場所が会津となりました。実際に日本中に大和朝廷の力を拡げるための派遣があったようで前方後円墳が全国に拡がるのと重なっています。また西道に行った吉備津彦が桃太郎のモデルになりました。

戸口を調査して初めて課役を科した天皇としても有名です。今でいうと国勢調査を行って所得税をとったということですね。この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれます。初めて国をおさめたという意味です。御肇国天皇は神武天皇にも使われるため、崇神天皇と神武天皇は同一人物ではないかともいわれています。

海石榴市

海石榴市と書いて「つばいち」と読みます。

海石榴市
海石榴市

大坂の港から付け替え前の大和川を遡っていくと三輪山の麓につき、ここに港がありました。近くには欽明天皇の宮もあり、飛鳥もすぐ近くです。港の近くなので物資が多く集まり、海石榴市という市がありました。

万葉集には市を題材にした歌も出てきます。「海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも」で、意味は市のいくつにも道が分岐する辻で、互いを紐で結び合い、踊りに踊るが結び合った紐を、今解くのは惜しい、のような感じです。Shall we ダンスの世界ですね。

■歌ができないとモテない時代
合コンがあり、当時は歌垣と言って歌を交わして想いを伝えました。ということは歌ができることがモテるための必須条件でした。でも、絶対に代作を頼んで必死で覚えたやつがいるでしょうねえ。

万葉集には東歌、防人歌が出てきますので、歌は庶民の基礎教養だったのでしょう。

仏教公伝

「仏教 伝来 ご参拝」で覚えた538年。仏教公伝の年で、552年説もあります。百済の聖明王が倭の国に使者を使わし、仏像や経典などを欽明天皇に伝えました。難波津に着いた聖明王の使者が大和川を船で上り海柘榴市に上陸したということで三輪山の麓に仏教公伝の碑が建っています。

仏教公伝
仏教公伝

物部氏・中臣氏などの神道派は仏教の受容に否定的で、かたや蘇我氏は受け入れ派となり、崇仏・廃仏論争が起きます。これが発展していって蘇我馬子・聖徳太子連合軍が物部守屋を滅ぼします。というのが通説でしたが、どうもマユツバモノのようです。

物部守屋の本拠地は河内の渋川で、今の八尾市ですが氏寺である渋川廃寺が見つかっており、崇仏・廃仏論争よりも権力闘争&外交の進め方での対立だったようです。

興福寺・国宝館

奈良で仕事だったので、帰りに興福寺・国宝館へ寄ってきました。コロナ禍の影響もあり入場者は5名ほど。係員の方が多いですねえ。

興福寺・国宝館
興福寺・国宝館

国宝館での楽しみは天燈鬼。頭の上の燈籠を上目づかいににらんでいる姿がユーモラスでいいですねえ。

もう一つが仏頭で東金堂本尊だったものです。元々は天智天皇や藤原鎌足の陰謀で蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれます。自害したのが自分が造った山田寺(飛鳥)で、この山田寺の本尊でした。

鎌倉時代に東金堂を再建する時に興福寺の僧兵が山田寺から無理やり押し入り本尊を強奪してきます。時は流れて堂が焼けた時に焼け残った仏頭が本尊台座にほうりこまれ、昭和になってから発見されます。蘇我倉山田石川麻呂の無念がしのばれる仏頭です。

東向き商店街、餅飯殿センター街ともに、まあまあ観光客が増えていました。

正倉院展

炎天下のなか、奈良国立博物館へ行って正倉院展を見てきました。

正倉院展
正倉院展

正倉院展といってもバッタモノです(笑)。「特別展よみがえる正倉院宝物 ―再現模造にみる天平の技」ということで複製品です。往時を再現していますので螺鈿細工など見事ですね。土曜日なので混んでいるかなと思ったら、正倉院展のオータムレイトチケットなみにすいていました。

会場は本場の正倉院展と同じ広さでの展示でした。五弦琵琶や鏡などを見て奥まで行くと古文書の複製までありました。古文書の裏に映った字まで再生されていました。すさまじい技術ですね。写経生の休暇願があり、「母親が病気なので3日間休ませてください」など書かれていました。