牽牛子塚古墳は斉明天皇陵?

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

巨大古墳時代が終焉をむかえ、王墓は八角墳(正八角形の古墳)に移行していきます。道教に八角形が天下八方の支配者という考え方があり、王墓や首長墓などに活用されていきます。

■益田の岩船は失敗作?
飛鳥駅の西側の丘をずっと登っていくと牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)があり、ここも束明神古墳と同じ八角墳です。牽牛子とは朝顔(アサガオ)の別称で、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造になっています。2つの墓室といえば、有名なのが同じ飛鳥にある益田の岩船。

巨石に2つの穴が空に向かってあいていて古代から何に使った巨石か分かりませんでした。松本清張などは拝火教(ゾロアスター教)の拝火壇説を唱えていました。最新説では、もともと古墳の石室を加工しようとしていたところヒビが入ったため、そのまま放置して古墳の場所も移して牽牛子塚古墳になったのではといわれています。

■牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇
牽牛子塚古墳は円墳だと思われていたのが発掘調査の結果、八角墳ということがわかり、注目を集めたのが被葬者。日本書紀に合葬したという記録があり、斉明天皇・間人皇女ではないかと言われています。古墳は今、整備中です。

斉明天皇とは中大兄皇子のお母さん。舒明天皇が亡くなった後に皇極天皇として即位します。乙巳の変では切られた蘇我入鹿が皇極天皇に向かい「私に何の罪があるのか」と叫んだと記録されています。孝徳天皇の時代となり飛鳥から難波京に遷都しましたが、孝徳天皇亡き後、また飛鳥に戻り即位(史上初の重祚)し、斉明天皇となります。

■先日、発表された四天王寺の亀形石造物
斉明天皇といえば飛鳥で運河などの大規模な土木工事を盛んに行いました。また飛鳥の観光スポットになっている酒船石や亀形石造物も作っています。そうそう先日、この飛鳥の亀形石造物と同じ時代に造られたのが四天王寺の亀井堂にある亀形石造物と発表されていました。昔から経木流しに使われていたのがあの亀形石造物がまさか斉明天皇時代だったとは驚きでした。

草壁王子のお墓?束明神古墳

束明神古墳
束明神古墳

飛鳥からずっと西に行くと真弓の丘があります。佐田の地にあるのが束明神古墳。佐田集落の一番奥の高台に春日神社があり、神社の境内に束明神古墳があります。 

これがなんと八角墳!7世紀後半に造られた古墳です。被葬者はわかっていませんが、佐田では束明神古墳が草壁皇子(岡本天皇)の墓と伝わっています。万葉集や続日本書記にも佐田丘陵に草壁皇子に葬られた事が記載されており、ましてや八角墳ですので可能性は高そうです。明治時代に天皇陵の比定がはじまりますが、天皇陵に指定されると村の立ち退きがあると噂がたったため束明神古墳の石室上板を隠し、役人が古墳の上から鉄の棒をいれて石室を確かめる探査を免れたそうです。ですので、現在比定されている岡本天皇陵は南に300mほどずれたところにあります。 

草壁皇子といえば天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子で、大津王子が殺された後、王位継承の本命でしたが即位することなく28歳の若さで亡くなります。

マルコ山古墳

マルコ山古墳
マルコ山古墳

飛鳥の西側、真弓丘陵にあるのがマルコ山古墳。

山のふもとにポコンと帽子のような古墳があります。当初は円墳と思われていましたが、発掘調査の結果、六角墳ではないかと言われています。大王墓は八角墳ですので、六角墳は大王に次ぐ位である皇太子や皇子の墓とみられています。一説には被葬者は天智天皇の第二皇子である川島皇子ではないかと言われています。川島皇子は天武天皇の皇女が妃だったので壬申の乱時には天武天皇側でした。「帝紀」、「上古諸事」の国史編纂に携わっています。

親友であった大津皇子の謀反を密告したと言われていますが、本当のところはわかっていません。35歳で亡くなりましたがマルコ山古墳からは30歳代の男性と見られる人骨が出土しています。

市尾墓山古墳

市尾墓山古墳
市尾墓山古墳

高取町の市尾にあるのが市尾墓山古墳。平地のど真ん中に草がきれいに刈りとられた、こんもりとした山の形であります。古墳のすぐ南には紀路と呼ばれる飛鳥から古瀬谷を経て紀ノ川沿いに紀伊水門まで通る古くからの街道が通っています。 

市尾墓山古墳は6世紀前半に築造された前方後円墳で全長70mほどあります。1978年の発掘調査で、後円部の横穴式石室から家形石棺が確認され国の史跡になっています。地元の豪族の墓ではとあるので、この付近を治めていた巨勢氏の可能性が大きいですね。前方後円墳の一番上まで登れ、二上山や金剛山などが眺められます。

薬師寺東塔

薬師寺 東塔
薬師寺 東塔

西ノ京へ行く用事があったので、ついでに薬師寺に寄ってきました。 

長く修繕工事をしていた東塔もいよいよ最終段階。2020年4月に落慶法要が行われます。GW中、修理作業現場での最後の一般公開が行われており、えっちらおっちら階段を登ってきました。最上階では相輪がまじかにみえ、上の水煙もよく見えます。また塔の鬼瓦は4方向とも全然、違う顔をしているんですね。 

東塔の上から西塔が見えるのが特にいいですねえ。今回の解体修理が行われたのが110年ぶりなんで、次に見るチャンスは絶対になさそうです。 

市尾宮塚古墳

市尾宮塚古墳
市尾宮塚古墳

高取町の市尾にある市尾宮塚古墳。

曽羽城の近くにある天満神社の裏側にある前方後円墳です。造られたのは6世紀中頃で被葬者は巨勢氏とみられています。巨勢氏は高市郡巨勢郷を本貫とする氏族で、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰を始祖としています。

天満神社は階段の上にあり、訪れる人も少なく、まして裏側にある前方後円墳に訪れる人は少ないでしょうが国史跡となっていて、石室入口は檻になっていて鍵がかかっていますが、檻に近づくとセンサーが感知して奥の石室がライトアップにして石棺が見えるというハイテクになっています。なかなかビックリします。

平群町のマスコット 島左近

平群町のマスコット
平群町のマスコット

平群町のマスコット、長屋王ともう一人は島 左近です。

戦国時代、島氏の本拠は平群町で平城の西宮城と山城の椿井城を本拠地にしていました。島左近は筒井順慶に仕え重臣になっていましたが、順慶が病に倒れてしまい跡を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、筒井家を辞することになります。島左近は天下の名将ですから、多くの誘いがありました。そんななか、新しく主君になったのが石田三成です。自分の禄高が4万石なのにそのうちの半分の2万石を与えるという破格の条件を呈示、意気に感じたのか石田三成に仕えることになります。

「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城」と言われるようになります。関ヶ原の戦いでは本戦の前に行われた杭瀬川の戦いでは兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み、明石全登(宇喜多秀家の家臣だった)隊と共に勝利して、士気をあげました。関ヶ原合戦でも大いに戦い、徳川方は「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と記録しています。

長屋王と令和の意外な関係

長屋王
長屋王

平群町のマスコットキャラクターといえば長屋くん。長屋王です。

■そごうが潰れたのは長屋王の呪い?
”長屋王、誰だそれ?”って言う人は、まず古代史を勉強しましょう。長屋王といえば、”長屋王の変”で有名な長屋王です。”奈良そごう”を建築する前に発掘調査したところ出てきたのが「長屋親王宮」と書かれた木簡。これで長屋王の邸宅が特定できました。夏に氷室から運んだアイスシャーベットを食べていたなど裕福な生活をしていたようです。長屋王邸は邸宅だけではなく商売の拠点でもあり江戸時代の商家のような感じだったことが分かっています。ですので経営感覚にも優れていたようです。

そごうが破綻した時はまことしやかに”長屋王の呪い”だと言われました。長屋王はなかなかできる人物で政界の主導者となりましたが、対立する藤原四兄弟の陰謀によって自殺に追い込まれ、これが長屋王の変です。長屋王の墓は平群にありますが、本当はどうかは分かりません。

■長屋王と令和の意外な関係
令和という元号が大伴旅人が大宰府でよんだ歌からとられましたが、長屋王に近かったのが大伴旅人。大伴氏は歌人としても有名ですが、それよりも神武天皇時代からの軍事氏族として有名です。大伴旅人が大宰府に追いやられたのが長屋王の変(729年)の前年で、長屋王の変が終わった730年に都へ戻され翌年には亡くなっています。軍事力をもった大伴旅人を大宰府に遠ざけたのではないかともいわれています。

信じるか信じないかはあなた次第です。

烏土塚古墳

烏土塚古墳
烏土塚古墳

近鉄生駒線・平群駅から西の住宅街に向かって坂を上っていくと烏土塚古墳(うどづかこふん)があり、前方後円墳で国の史跡になっています。

古墳横に階段があって登っていくと前方部に入ります。古墳の上は公園のようになっていて後円墳の広場では太極拳をしている人がいました。横穴式石室も残っていて外から見ることができます。烏土塚古墳は古墳時代後期の6世紀中頃で被葬者は平群氏に関係するようです。

烏土塚古墳の上からは眺めがよく、西宮城跡(平群中央公園)が目の前に見えます。西宮城は島氏の城で島氏といえば石田三成の家来だった島左近が有名です。この島氏の先祖はどうも平群氏と何らかの関係があったようですので、烏土塚古墳を城にするのではなく(当時、古墳はよく城に再利用されていました)、別に西宮城を造ったのかもしれません。

茶臼山古墳

茶臼山古墳
茶臼山古墳

桜井の住宅地にあるのが茶臼山古墳です。

茶臼山古墳は卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳の後の時代にできた前方後円墳です。国内最大となる81枚以上という銅鏡(破片)が副葬品として見つかり、13種類となりました。鏡の一つは魏志倭人伝に記載されている魏の皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚ではという説もあります。いずれにしても初期ヤマト政権の大王墓で3世紀後半から4世紀初頭に造られたようです。

大王墓の可能性が高いわりに天皇陵の比定地になっていませんので墳丘にあがることができます。古墳だと認識されたのが戦後でしたので比定の対象にならなかったのかもしれません。近鉄大阪線で桜井駅から大和朝倉駅に向かう南側に見ることができ線路のすぐそばにあります。近くには欽明天皇磯城島金刺宮跡や仏教伝来地があり古代の一等地でした。