柿本寺跡

和爾下神社の階段を降りたところに礎石の一部があり、柿本寺(しほんじ)跡の碑がありました。和爾氏の一族が柿本人麻呂で有名な柿本氏で、ここらへんが本貫となります。柿本寺は柿本氏の氏寺になります。また神仏習合でしたので柿本寺は和爾下神社の神宮寺となります。

柿本寺跡
柿本寺跡

ここは戦場にもなったようで建武4(1337)年に北朝側が和爾下神社、柿本寺に陣取って南朝軍と戦った記録が残っています。和爾下神社は山城のような様相ですから、陣を構えるには最適だったのでしょう。

柿本寺には柿本人麻呂が葬られたと伝わり、人麿信仰が盛んになるにつれ歌塚として有名となります。梅原猛の「水底の歌」では、鴨島沖で柿本人麻呂は刑死していて、いずれにしても石見国(島根県)が終焉の地なのに、なんでここに葬られたことになっているんですかねえ。

和爾下神社

JR櫟本駅を東に行くと和爾下神社があります。階段をずっと登っていく高台にある神社ですが、実は前方後円墳の上に建っています。周りが森になっているので眺めは全然、ゆありません。

和爾下神社
和爾下神社

古代、このあたりを地盤としたのが和爾氏。和爾氏は大和朝廷の外征を担当したようです。隣が天理で物部氏の地盤でしたので、何らかの関係があったのでしょう。また各天皇の后妃に和爾氏が出しており、葛城氏と同様に有力な豪族でした。蘇我氏が台頭してくるとすたれていきます。

仁徳天皇の頃に大宅氏、布留氏、春日氏、柿本氏、小野氏、粟田氏、櫟井氏に分かれていきます。部曲 (かきべ)という私有地が全国にありましたが近江にもあり、湖西線の和爾駅、小野駅という形で名前が残っています。

最期の溜池 芦田池

達磨寺近くにあるのが芦田池。どこにでもある、ふつうの池なんですが、これが、ああ~た!日本最古の溜池と言われています。

芦田池
芦田池

推古天皇15年(607年)、教科書で習った小野妹子を遣隋使として派遣した年です。同じ年、厩戸王の進言で大和の国に高市池、藤原池、肩岡池、菅原池を造りました。この肩岡池が芦田池と言われています。葦が茂っていたことから葦田池と言われていました。柿本人麻呂の歌に「あすからは 若菜つまむと 片岡の あしたの原は けふぞやくめる」が残っています。

ただ異説もあり、近鉄・大阪線の関屋駅近くにある簱尾池・分川池ではないかとも言われています。現在も農業用水として使われており太子講を作り、毎年、初穂を法隆寺に奉納しています。

他の3つの池ですが菅原池は現在の蛙股池のようです。近鉄・菖蒲池駅近くにあり、大和文華館横にある池です。

高市池は天香具山付近にあったと伝わる埴安池(はにやすのいけ)。藤原池は島庄遺跡の発掘調査で見つかった方形池ではと言われています。どちらも池は無くなりましたが、こちらも諸説あります。

達磨寺

片岡というのは古い地名で聖徳太子の片岡飢人伝説が伝わっています。聖徳太子が片岡山にさしかかると、飢えと寒さで息も絶え絶えの人が倒れていました。太子は持参していた弁当と飲み物を与え、紫の衣を脱ぎ、着せかけました。翌日、亡くなったことを聞き、墓を建てさせます。数日して太子が「あの飢人は、きっと聖人にちがいない」と言い出したので、念のため墓を開いたところ、遺骸はなく、紫の衣だけが、丁寧に畳まれて柩の上に置かれていました。

達磨
達磨

■達磨寺の創建
飢人は達磨大師の化身だったという伝説です。この墓の上に鎌倉時代、建てられたのが達磨寺の発端になります。境内には、達磨大使が座っていた石が残っていて、ここで太子と問答したそうです。ほんまかいなあ。大体、キリストの昇天みたいですがな。日本書紀や古事記を編纂していた時代、中国に景教(キリスト教)が伝来していたので、この影響があったのでしょう。大体、馬屋の前で生まれましたしね。

伝説も多いので日本史の教科書から聖徳太子をなくす話が話題になっていましたが、今は厩戸王(聖徳太子)という表記になっています。大陸外交に力をいれていたため大和で最初に使節を迎える斑鳩に宮を建てることになります。

當麻山口神社

當麻山口神社
當麻山口神社

鳥谷口古墳から坂を下りていくと、すぐ近くに當麻山口神社があります。延喜式神名帳に記載された式内社ですので、古い神社ですね。ひっそりとした境内です。祭神は大山祗命(おおやまつみのかみ)で山の神様です。

山の神様なんで生駒や鴨、都祁などに山口神社があります。法人番号検索サイトで「山口神社」で検索すると全国に39あり、そのうち奈良には15ありますので、半分弱が集中しています。山口神社は奈良を取り囲むように配置され、中心部にも耳成山や畝傍山に配置されています。

鳥谷口古墳

二上山の雄岳と雌岳の間にある馬ノ瀬から奈良側に下ると高台に鳥谷口古墳があります。方墳で石棺が残っています。大津皇子のお墓は雄岳に比定されていますが、実はこの鳥谷口古墳が本当の大津皇子の墓ではないかと言われています。

鳥谷口古墳
鳥谷口古墳

雄岳の墓はこんもりとしていますが古墳かどうかは定かではありません。また鳥谷口古墳の所在地が染野(しめの)という土地で標野(皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた地)からきているのではと言われています。額田王が「あかねさす標野行き野守は見ずや君が袖振る」と近江にあった標野で歌っています。また石棺が加工途中で急ごしらえで造ったようです。

鳥谷口古墳は山の中腹にあり畝傍山などがよく見えるので、二上山を弟と見るという万葉集の歌も矛盾がないようです。大津皇子の辞世の句は磐余の池で詠まれ、磐余の池跡に歌碑が建っています。

藤原不比等の墓

聖武天皇陵・陪塚い号(西淡海公)、陪塚ろ号(東淡海公)

東寺
東寺

佐保山一帯には元明、元正、聖武天皇陵が集まっています。聖武天皇と光明皇后陵は多聞山城の西側にありますが、その近くにあるのが陪塚い号、陪塚ろ号です。陪塚とは臣下を埋葬したり、副葬品を埋納するためのものですが、この2つは円墳のようです。

一説には藤原不比等の墓ではないかと言われています。不比等は養老4年(720)に亡くなり、公卿補任には遺言に従い、佐保山椎山岡に火葬されたとあります。藤原不比等は淡海公を追贈されていますので、西淡海公、東淡海公という名前がついています。不比等は氏寺の山階寺(京都・山科)を奈良に移し興福寺としましたが陪塚からは五重塔が見えます。

元正天皇陵

奈良ドリームランド跡地近くにあるのが元正天皇陵。

元正天皇陵
元正天皇陵

氷高皇女 (ひだかのひめみこ)が女帝で母親である元明天皇に続いて即位し、元正天皇となりました。2代、女帝が続くことになります。氷高皇女のお父さんは草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子供)で皇位を継ぐ予定でしたが27歳で亡くなってしまいます。後を継いだのが草壁王子の長男である文武天皇ですが、これまた25歳で亡くなってしまいました。孫の首皇子(聖武天皇)が小さかったため草壁王子の妃だった元明天皇が即位します。

氷高皇女は元明天皇より譲位され天皇に即位します。長屋王の義姉にあたり長屋王と協力しながら政治を行い三世一身法などを制定します。藤原氏が力を持ち始めた時期で、「美貌の女帝」(永井路子)など小説などで、よく取り上げられています。養老律令や日本書紀ができたのも元正天皇の時代です。陵は母親の陵のすぐ隣に造られました。

奈良ドリームランド跡地

大仏鉄道にとって難所だったのが黒髪山越え。当時はトンネルでしたが今は切通しになっています。

奈良ドリームランド跡地
奈良ドリームランド跡地

久しぶりに通ったら奈良ドリームランド跡地にロートスタジアム奈良ができていました。時たま奈良ドリームランドに子供を連れて行っていました。最初はディズニーランドに協力してもらいながら造ったこともあり、園の真ん中にお城があり、外周を列車が巡り、ジャングルクルーズなどディズニーそっくり。ディズニーといろいろと交渉しましたがフランチャイズの話などはご破算になります。ウォルト・ディズニーは奈良ドリームランドの写真を見て激怒したと伝わっています。

オリエンタルランドが東京ディズニーランドを作る時に、この奈良ドリームランド問題が最初の難関になりました。奈良ドリームランドが最終的な親会社がダイエーということもあり20年ほど前に閉園します。

もっとも奈良ドリームランドよりも、あやめ池遊園地によく行っておりましたが、こちらも2004年に閉園になりました。奈良の知り合いの家が、あやめ池遊園地内の土産物店だったそうで、子どもの頃、遠足になると学校に集合して、あやめ池遊園地に行くので全然、楽しくなかったという話をしていました。

龍田社

奈良には龍田神社が2つあります。一つは三郷町にある龍田大社で、風の神様で有名です。近くの斑鳩にも龍田社という神社があります。

龍田社
龍田社

龍田社は聖徳太子が寺地を探し求めていた時に、白髪の老人に化身した龍田大明神があらわれ、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたそうです。そこで法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る龍田社を創建したのが由来だそうです。

龍田社の元々の祭神は龍田比古神・龍田比女神でしたが、龍田大社から天御柱命・国御柱命が勧請され、こちらが主祭神となっています。『大和志』では、龍田大社の本宮に対して龍田新宮となっているので龍田大社の後にできたのでしょう。

■金剛流の発祥地
能の発祥は奈良で観世(結崎座)、金剛(坂戸座)、宝生(外山座)、金春(円満井座)は大和四座と呼ばれています。龍田地域には、金剛流の源流とされる「坂戸座猿楽」が古くからあり秋の祭礼には、村人たちにより猿楽や田楽が演じられてきました。そこで境内には「金剛流発祥の地」の碑が建立されています。

能は代々の政権に保護され、江戸時代には江戸城内に町人5千人が招待され、将軍とともに能を楽しむイベントがありました。この日ばかりは無礼講で、将軍が登場すると「親玉!」や「成田屋!」という声が町人からかかったそうです。