昔の暗峠奈良街道

近鉄・尼ケ辻駅のすぐ北側を暗越奈良街道が通っています。Googleマップではまっすぐな道が暗越奈良街道と表示されていますが、これは現在の国道308号線を、そのまま街道としたためでしょう。大正元年の奈良広域図では垂仁天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。

昔の暗峠奈良街道

垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)ですので、古墳を周遊する道が古代の暗越奈良街道で明治頃に今の国道308号線のまっすぐな道が造られたのでしょう。写真の道標から左の道を行くと昔の暗越奈良街道で、まっすぐな道が現在の国道308号線(暗越奈良街道)です。

暗越奈良街道(垂仁天皇陵)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

■垂仁天皇陵
追分を超え酷道308号を行くと近鉄・尼ケ辻駅近くにある垂仁天皇陵に出ます。第11代が垂仁天皇で娘が倭姫命です。倭姫命は各地を行脚し、最終的に伊勢神宮へたどりつきます。漫画「アマテラス」(美内すずえ)の主人公です、そういや「ガラスの仮面」はどうなったんですかねえ。垂仁天皇は相撲発祥でも有名で野見宿禰と当麻蹴速の天覧相撲を催しました

■田道間守(たじまのもり)
垂仁天皇は和菓子発祥にもかかわっています。田道間守を常世の国に派遣し、橘を探させます。橘は菓子でしたので田道間守が菓子の祖としてまつられることになります。

■フェークニュース
垂仁天皇陵の濠に小さな島があり、田道間守の墓と言われています。ところが、江戸時代の絵図などに島は描かれておらず、明治になって灌漑用に濠を拡げる時にもともとは外堤だった一部を残したようです。外堤を実際に歩いていますと途中で途切れていて、外堤の延長上に小島があります。それで、田道間守の墓と誰かが言い出し、壮大なフェークニュースとなりました。

暗越奈良街道(追分)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

追分

矢田丘陵にある榁木峠を越えて、坂を下っていくと森の向こうから、たくさんの犬が吠える声が!!まさか熊でもいるんかいなと思ったら郡山警察犬訓練所がありました。ここはドッグスクールなどもやっているんですね。さらに坂を下っていくと追分神社という小さな神社があり、道が交差しているところに出ます。今はふつうの交差点ですが、ここが追分でした。角には村井家住宅という古い建物があり、ここが大和郡山藩主の休憩用の建物でした。追分ですので暗越奈良街道から大和郡山への街道が分かれています。

暗峠に大和郡山藩の本陣が置かれたこともあり、暗峠に今も残る石畳は大和郡山藩が敷きました。大和郡山藩といえば柳沢氏ですね。元禄時代、将軍綱吉を補佐したのが柳沢吉保です。赤穂事件の時の当事者でもあり、よく時代劇に登場します。ちなみに駒込にある六義園はこの柳沢吉保が作りました。柳沢吉保の長男が甲府から大和郡山に転封となり、柳沢家が藩主となります。大和郡山の柳沢家は明治にまで続きます。

榁木峠

暗越奈良街道ファンの皆さん こんにちは!

榁木峠

近鉄・南生駒駅から矢田丘陵をひたすら登ると榁木峠(むろのきとうげ)に到達します。暗越奈良街道は国道308号線に沿っていますが酷道と言われるぐらいなので、ほぼ農道です。矢田丘陵の急坂を登ると榁木峠の切通しのようなところに到達します。ここは矢田丘陵遊歩道が交差していて、前に遊歩道を歩いていた時に山道から、いきなり舗装された道に出たので驚いたことがあります。20メートルほど車道を歩いて、また山道に入り、矢田丘陵遊歩道はトレイルコースやMTBコースでも有名で走っている人や自転車を持った人ともすれ違います。

峠の上には数軒の民家があるので、時たま軽が走っていますが、行き違いするのは、なかなか困難です。地元の人でないと国道といいながら車は無理でしょうね。

暗越奈良街道(矢田丘陵)

大阪と奈良を最短距離で結ぶ街道が暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)です。玉造駅近くの二軒茶屋からずっと東に向かい生駒山地の暗峠を超えて奈良側へ下っていくと近鉄・南生駒駅周辺に出ます。

生駒山地
Digital Camera

ここから奈良へ向かおうとすると、たちはだかるのが矢田丘陵です。生駒市から斑鳩町の法隆寺にかけて南北につらなる丘陵で、長さは約13キロメートル、標高は200m~300mと暗峠(標高455.8m)よりは低いのですが、登るのは、しんどいですね。途中で振り返ると生駒山がよく見えていて矢印部分が暗峠になります。

法隆寺付近を通る龍田道だと、もっと平坦なんですが距離が長くなります。コスパ重視なのか、昔の人は高低差があっても最短距離を選んだんですね。そうそう奈良へきた観光客が西に連なる山を見て「生駒山だ!」と言っている、ほとんどは矢田丘陵の間違いです。

ちはやふる竜田川

南生駒駅のすぐ横を流れているのが竜田川。

竜田川

実は竜田川は相撲取りの名前です(笑)。在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の意味を聞かれた、ご隠居が知ったかぶりで話を作り始め、結局、大関まで昇進した竜田川が吉原に遊びに行ったところ千早太夫にふられてしまい(「ちはやぶる」)、いやになって大関をやめ豆腐屋になってしまい、おからの話へとなっていく落語がありました。

「ちはやぶる」とは次の「神」にかかる枕詞で、「いち(激い勢い)」「はや(敏捷に)」「ぶる(ふるまう)」という言葉が縮まったものです。鎌倉時代以降になると「ちはやふる」と濁らなくなります。百人一首の競技カルタの世界が「ちはやふる」というコミックとなり映画化もされました。

遠くに見えるのが生駒山です。南生駒あたりで見る竜田川には何の風情もないですね。

筒井さんの故郷

筒井城

近鉄電車・橿原線で西大寺から八木に向かう途中に高架駅があり、これが筒井駅。近くにはパナソニックの奈良工場があります。このあたりが筒井という土地で、ここを本貫にしたのが筒井氏です。有名なのが筒井順慶で大河ドラマ「「麒麟がくる」では駿河太郎が演じていました。大和の覇権を争う松永久秀(吉田鋼太郎)とバチバチやっていました。

■元の木阿弥
筒井順慶のお父さんが筒井順昭で大和の有力国人でした。ところが28歳で亡くなることになり、わずか2歳の筒井順慶が引き継ぐことになります。死を悟ったった順昭は重臣などを集め、まだまだ大和が安定していないので死んだことを秘し、その間自分に似ている盲目の法師・黙阿弥を身代わりにするよう命じます。一周忌を終え、順昭の死が公表されると黙阿弥は恩賞を受け取って元の法師に戻ります。これが「元の木阿弥」の語源となっています。

筒井順慶の後は従弟の筒井定次が継ぎます。秀吉政権となり伊賀へ改易となったことから伊賀上野城には筒井時代の天守閣跡が残っています。

柳生さんの故郷

柳生

柳生さんの故郷といえば柳生十兵衛などで有名な柳生の里です。大河ドラマ「春の坂道」では家康・秀忠・家光に仕えた柳生但馬守宗矩が描かれていました。「柳生一族の陰謀」も有名ですね。

柳生さんは元々は菅原氏で平安時代に柳生庄を管理したことから柳生と名乗るようになります。途中、没落しますが後醍醐天皇から再び柳生の地を賜り、戦国時代を生きぬくことになります。柳生宗厳(石舟斎)は大和を支配した松永久秀の配下となります。台頭してきた筒井順慶と松永久秀が辰市城で戦い、この時、柳生は松永側で戦いますが松永側が破れます。筒井とは後に和睦しますが柳生の里に逼塞します。この時、新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい、新陰流の奥意を極めることになります。これが運命の分岐点になります。自身も鍛錬していた徳川家康との縁ができ、柳生家は将軍指南役になっていきます。

■意外な松下嘉兵衛との縁
秀吉が信長の前に仕えていたのが松下嘉兵衛で親戚が井伊家でした。松下嘉兵衛の娘が柳生宗矩に嫁ぎ、つまり柳生十兵衛の母になります。井伊直虎も武田に井伊谷を奪われた時、親戚だった松下家に身を寄せていた可能性があります。秀吉は松下嘉兵衛時代に浜松で下積み生活をしてたので、小牧長久手の合戦では、秀吉を皮肉って「茂るとも羽柴は松の木の下かな」という句が歌われていました。秀吉は旧恩を忘れず松下嘉兵衛を引き立てています。

菅原さんの故郷

喜光寺

近鉄・尼辻駅を北西に、もしくは大和西大寺駅から南西に行くと菅原町があります。暗超奈良街道のすぐ北で古代は人が集まる場所でした。菅原町に観光客はほとんどいませんが菅原天満宮と喜光寺があります。

■行基の喜光寺
喜光寺はもともと行基が建てたお寺です。当時の僧は寺で経典を勉強するのが当たり前でしたが、行基は貧しい人には宿泊と食糧を提供するための布施屋(近鉄奈良線と大阪線が分岐する布施駅はこの布施屋からきています)を作り、橋や道路整備なども行い、民衆に布教していました。政権にとっては危ない非公認集団でした。ところが聖武天皇が河内の知識寺に行った時に知識(ボランティアのような協力のこと)に感激し、行基の活動を認めて協力を要請。大仏建立に貢献することになります。行基が亡くなったのも喜光寺です。

■菅原氏誕生の地
さて菅原という地名はかなり古く、推古天皇以前からの地名で、ここに住んでいたのが土師氏です。天応元年(781年)に土師氏が住んでいる菅原の地名をとって菅原姓への改称を申請し、認められ菅原氏が誕生します。新刊で出たばかりの「桓武天皇」(岩波書店)を読むと、論功行賞の意味もあり桓武天皇の方から改称せよと命じたようですね。さて菅原氏と言えば有名なのが菅原道真です。実家が菅原だったので、ここで生まれたと言われています。大宰府に左遷され怨霊になったことで菅原天満宮が建立されました。

高橋さんの故郷

石上神宮から奈良方面へ布留川沿いの山の辺の道を歩いていくと、途中で布留川を渡る橋があります。ここが高橋です。万葉集に「石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」と歌われていて、「石上の布留の高橋のように、心も高々に、しきりに妻が私を待っているだろう。もう夜は更けてしまった」という意味になります。川まで降りるとかなりの高さの橋で、すぐ近くにハタの滝があります。ここが高橋さんの名前の由来になっている土地の一つです。