矢田丘陵

大和の西側にある馬見丘陵は大和川で途切れ、法隆寺のある斑鳩の地からは北に向かって矢田丘陵があります。丘陵の南北の長さは約13キロメートルあり、標高は200メートル~300メートル程度、馬見丘陵に比べると格段に高いですね。なだらかな山道が続くためトレイルランでも人気のコースになっています。

矢田丘陵
矢田丘陵

東大寺などから西を見ると生駒山ではなく矢田丘陵が見えます。大和の古代氏族の勢力図を見ると矢田丘陵の南側は平群氏ですが、北側の方は空白地になっています。矢田丘陵の北にあるのが饒速日命(ニギハヤヒ)のお墓。一説には矢田丘陵のように長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言ったそうです。神武以前の氏族がいたので空白地帯になっているんですかねえ。

馬見古墳群

馬見丘陵にあるのが馬見古墳群で総数は250基以上あり、葛城氏の墓域と言われています。馬見丘陵でニュータウン開発が進んだ時、古墳群などの保存のために馬見丘陵公園が計画され1991年に開園しました。

馬見古墳群
馬見古墳群

馬見丘陵公園の中には12ほどの古墳があり、丘かなと思って登ると前方後円墳の墳丘の上になっていたりします。古墳は丘陵の上に作られていますから麓からはよく見えるランドマークになっていたのでしょう。当時は葺石で覆われ、埴輪なども並んでいました。

山の上に風力発電の風車がいくつも並んでいると卒塔婆が並んでいるように感じられますが、古墳がいくつも連なっていると、古代人はどう感じていたのでしょう。

廣瀬大社 水の神

水の神、風の神といえば?

正解は廣瀬大社、龍田大社です。廣瀬大社は河合町川合にあり、地名通り佐保川、初瀬川、飛鳥川、曽我川、葛城川など、奈良盆地を流れる全ての川が合流する地にあります。ここから大和川になって大阪へと流れていきます。

廣瀬大社
廣瀬大社

天武天皇が水の神である大忌神を廣瀬大社に祀ったと日本書紀に出てきます。風水を治めれば天下が安泰するとして、龍田大社の風神と一対の社としました。龍田大社では風鎮めの祀りである風神祭を行い、廣瀬大社では大忌祭(おおいみのまつり)が行われます。別名が砂かけ祭で神社の砂を雨の代わりに投げて、このように雨を降らせていただいたら、田植が順調に進みます、と神様にお願いする祭りになっています。

ナガレ山古墳

奈良盆地の西側にあるのが、なだらかな馬見丘陵。

ナガレ山古墳
ナガレ山古墳

馬見丘陵には広大な馬見丘陵公園があり、敷地内にいくつもの古墳があります。その一つがナガレ山古墳。全長103メートルの前方後円墳で、5世紀前半ごろに造られたと考えられています。大王墓は百舌鳥古墳群、古市古墳群に造られエリア的なの違いがありましたので、被葬者は葛城氏だと考えられています。

ナガレ山古墳は半分を葺石を葺いて築造当初の姿に復元しています。残り半分は芝生を張った形で整備されていて2つの姿を楽しめるようになっています。上に登ると眺めはいいですね。ずらっと並ぶ円筒埴輪が壮観です。

三吉石塚遺跡

奈良盆地の西側にあるのが馬見丘陵。南北7km、東西3km、標高は最大で25mにあり、ここに古墳が点在しており馬見古墳群です。4世紀末~6世紀にかけて造営され葛城氏の墓域とみる説が有力です。馬見古墳群の一つが三吉石塚古墳で帆立貝形になっています。古墳時代中期の5世紀後半頃に築造されたようで、発掘後にきれいに整備されています。

三吉石塚遺跡
三吉石塚遺跡

葛城の地を本拠にしたのが葛城氏です。葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物がいて百済記にも名前が出てきますので実在は確かなようです。大きな政治力があり、子孫は大王家と婚姻関係を持つことで維持していきました。5世紀には履中天皇から武烈天皇まで9人の大王のうち、6人の母が葛城氏でした。雄略天皇の時に滅ぼされてしまいます。

一説には葛城氏の後裔が蘇我氏だった可能性があります。ですので「我、蘇り」と名乗ったのかもしれません。

讃岐神社(竹取物語の故郷)

日本最古の小説として有名な竹取物語ですが、竹林でかぐや姫を発見したお爺さんの名前を知っていますか?

正解は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」です。

讃岐なんで四国説もありますが、我が町だと言っているのが奈良広陵町です。開化天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前があるので讃岐氏がいたことは確かなようです。この讃岐氏が関係しているのが広陵町にある讃岐神社で、このあたりに屋敷があり竹取物語の故郷だと竹取公園まで作っています(笑)。

讃岐神社
讃岐神社

竹取物語は作者不詳ですがアンチ藤原氏が書いたのは確かなようで、かぐや姫に求婚する「くらもちの皇子」は藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身をあてこすっています。

山の辺の道

ファイティング・コンサルタンツという、確か20年ほど前はコンサルティング・ファームを作ろうと燃えていた集団があるのですが、今や宴会と歴史散策をこよなく愛する、ていたらく状態になっています。

桧原神社
桧原神社

ということで歴史散策です。「どこでもよいけど、山はダメ」という、お達しに今回のテーマは日本最古の道である山の辺の道です。桜井から天理まで休憩なしだと3時間ほどで踏破できる初心者用コースです。飯森山城巡りで皆さん、山道にはトラウマがあり、それほど起伏がなく基本的に平坦コースな山の辺の道を選択。

■出発前の宴会で2時間
桜井駅に集合して、まずは腹ごしらえ。台湾料理店に入り、ビールから始まったのはよいのですが結局は食事というより宴会状態に。途中で雨があがるのを待ったり、頼まなくてもよいジャージャー麺を頼むヤツがいて2時間、店にいてから出発。山の辺の道・入口にたどりついたのは桜井駅を出て2時間半後でした。

海石榴市ー大神神社ー狭井神社ー桧原神社を巡ります。写真は桧原神社の鳥居前に拡がるレイライン。桧原神社は元伊勢と呼ばれ西に行くと淡路島の「伊勢の森」に至り、東に行くと伊勢神宮になります。

桧原神社を出発したところで、「疲れた~」の声。工程の1/3でリタイアし、卑弥呼の宮といわれる纏向遺跡を見学しJR巻向駅から奈良駅へ出て、また宴会して散会しました。

牧野古墳

奈良盆地の西側に丘になっているところがあり、これが馬見丘陵。いまは住宅地になっていますが古墳が点在していて、その一つが牧野(ばくや)古墳。大きな円墳でイベント時などは石室に入れます。中は石舞台古墳のようになっています。

牧野古墳
牧野古墳

古墳時代後期に造られ、延喜式には墓の敷地が東西15町・南北20町とあり、大仙陵古墳の8町四方を大きく上回るものになります。つまり今の馬見丘陵にある住宅街は全てお墓の敷地ということになり、実際、牧野古墳一帯には古墳がありません。

こんなに大きなお墓なんで敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の古墳と比定されています。舒明天皇のお父さんになります。蘇我系ではないので苦労はしたようですが忍坂部や丸子部といった領地を支配し経済的には潤っていました。これが舒明天皇から孫の中大兄皇子に引き継がれ、乙巳の変の軍資金などになりました。

神武天皇陵

橿原神宮の隣にあるのが神武天皇陵。欠史8代ともいわれているので実在そのものが疑われています。江戸時代に神武天皇陵を比定する時に候補が絞り込まれたのですが、それが下記の3つです。
・畝傍山の丸山
・ミサンザイ(現在の神武天皇陵)
・四条村の塚山(第2代の綏靖天皇の陵と比定)

神武天皇陵
神武天皇陵

丸山が有力だったのですが結局、ミサンザイに決まりました。孝明天皇の大和行幸にあわせ神武天皇陵参拝が行わることになり、江戸幕府は天皇陵の場所を定め、修復事業を実施することになりました。そこで住んでいる人がいなくって影響が少ないミサンザイが選ばれたという大人の事情があったようです。

日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳を古代では神武天皇陵と考えていたのではという説もあります。

大和国分寺

近鉄・八木駅のホームに名所案内があるんですが「国分寺跡」とあります。国分寺!大和だから総本山である東大寺じゃないのと思うのですが、なんで八木にあるの!と思ったのですが駅の近くなんで寄ってきました。まあ分かりにくい住宅地の中にあり、しかも路地の奥です。

大和国分寺
大和国分寺

国分寺とは聖武天皇が仏教によって国を守るために全国に建立した寺です。巨大な七重塔と金堂などがセットになっており、今でいうと県庁所在地に高いタワーが建つイメージです。また学問の中心でしたので大学のような役割もありました。

なんでも江戸時代の大和志で大和国国分寺を東大寺でなく、八木近くに比定しています。実際に古代の瓦などが発掘されているのでガセネタというわけではなさそうです。ということで大和国分寺へ。現在は浄土宗のお寺になっています。