大阪府よろず支援拠点での仕事が終わると、大阪城の六番櫓を眺めながら森ノ宮駅まで歩いて帰っています。

大阪城公園にある大型バス向け駐車場横を通るのですが、あれほどたくさん停まっていたバスの姿はなく、コンクリートの間から草が生えている状況になっていました。インバウンド客が戻るのははるか先になりそうです。
大阪府よろず支援拠点での仕事が終わると、大阪城の六番櫓を眺めながら森ノ宮駅まで歩いて帰っています。
大阪城公園にある大型バス向け駐車場横を通るのですが、あれほどたくさん停まっていたバスの姿はなく、コンクリートの間から草が生えている状況になっていました。インバウンド客が戻るのははるか先になりそうです。
令和2年も前半がまもなく終了。
ということで枚岡神社へ夏越の祓に。例年は6/30の法要が終わってから茅の輪くぐりができるのですが、新型コロナの影響か、もう通れるようになっていました。
枚岡神社はしっかりマーケティングをしており、夏越の祓と大祓(年末)前には案内、人形(ひとがた)、振込用紙などの祓いセット、きっちり届きます。郵送もできるシステムになっていますが、いつも神社へ納めに行っています。
今年は新型コロナの影響もあるので、夏越の祓をする人が増えるかもしれません。
大阪府よろず支援拠点は堺筋本町の大阪産業創造館にあり、朝は谷四で降りて生国魂神社・行宮にお参りしてから向かっています。行宮といいながら本殿と隣には稲荷神社もある立派な神社です。「商売繁盛」を祈願しています(笑)。
行宮から、ちょっと歩いた大阪城内には御旅所があります。本殿は上六近くにあり大阪では「いくたまさん」と呼ばれています。祭神は生島神(いくしまのかみ)、足島神(たるしまのかみ)で日本国土の神さんです。
なんで谷町周辺に行宮と御旅所があるのか不思議だったのですが行宮は明治始めに氏子が土地を奉納して行宮が作られたようです。御旅所は昭和の初めに大阪城公園を整備する時に造られました。今は碑だけが残っています。「いくたまさん」は元々、御旅所があった所にありましたが秀吉が大坂城を造る時、上六近くの現在の場所に移しました。
大阪府よろず支援拠点は以前、マイドームおおさか7階にあり、江戸時代、西町奉行所があった所です。昨年、東横堀川(秀吉が造った堀跡)を渡ったところにある大阪産業創造館2階に移転しました。
江戸時代、大阪産業創造館には何があったかなと古地図を確認すると秀吉が作った船場の町ですね。ちょっと前の大坂の陣では中村重勝の陣があった所で本町橋を渡って塙団右衛門に夜襲をかけられて中村重勝も討死しています。
■御堂筋の北御堂、南御堂
ずっと西を見ると西本願寺御堂、東本願寺御堂という文字が見えます。そうです御堂筋に今もある北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)です。
本願寺は10年以上、織田信長と戦い、最後は信長と和解します。本願寺は紀伊鷺の森に移り、その後、貝塚に移ります、秀吉の時代に大坂天満に移ったあと京都に移ります。また一向宗にはトラウマがある家康によって西本願寺と東本願寺に分けられました。
やがて大阪の門徒たちが中心になって作った集会所を元に北御堂ができます。同じように大谷派も難波に造り、これが南御堂となりました。
「男はつらいよ」と言っても贋作の方です。
コテコテの大阪弁の寅さんが登場し、舞台は石切神社の石切参道商店街にある老舗の甘味処「くるまや」。お団子を出していますが、実際の商店街では一軒だけしか出していません。しかも「みたらし団子」です。
ドラマでは石切駅から参道のいろんな場所が映るので、なかなか楽しめます。石切参道商店街では本当の寅さんでもロケ地になっています。
散歩コースなんで今日も石切参道商店街を通ってきましたが、テレビの告知も何もなくあっさりとしたものでした。贋作「「男はつらいよ」は今日が最終回です。
令和の元となったのが大宰府長官である大伴旅人の梅花の宴。大伴氏とは古代の名族で大王の親衛隊的存在でした。摂津や河内の沿岸が本拠地ですが、富田林に大伴町という地名があり、大伴の支族が住んでいたのではないかと言われています。
■降幡神社
Googleマップで石川河原城のすぐ近くで見つけたのが降幡神社跡という小さな祠。案内に「大伴氏の祖神・天忍日命を祀る由緒ある神社であったが、明治の末、一須賀神社に合祀された。古代この地方に住んでいた大伴氏の支族が、その祖神を祀ったのであろう」と書かれています。
天忍日命(あまのおしひのみこと)とは天孫降臨の時に武装して天孫の先払いをした神様で大伴氏の祖です。天忍日命を祀っている神社は全国的に少ないので、降幡神社は大伴氏関係でしょう。
降幡神社は合祀されたため、跡地となっており朽ち果てた小さな祠が残っています。ただ石川といえば蘇我氏の土地で有名なのが乙巳の変に登場する蘇我倉山田石川麻呂です。中大兄皇子と中臣鎌足に協力しますが、最後は陰謀で山田寺で自害させられます。山田寺の東回廊が発掘調査でそのまま出てきて飛鳥資料館に展示されています。
石川は蘇我でもあり、大伴でもあり不思議な土地です。
この時期、関西の電車に乗ると笹を持った人をよく見かけます。十日戎がスタートしました。
西宮戎、今宮戎はめちゃくちゃ混みますので、いつも家から歩いて5分のところにある額田戎神社へ行っております。額田戎は西宮のえべっさんを勧請していますので霊験は同じです(笑)。住宅街にあるんですが3日間、大音量で「商売繁盛、笹もってこい~」と流れています。
ビジネスマンを辞め独立してから18年間、額田戎神社へ行っていますねえ。お参りをして今宮戎は参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ちますが、額田戎は木板を打ちます。最後に縁起物を買うと福引券をくれるので、神社入口で福引抽選器を回しますが、また末等のゴミ袋でした。
灌漑施設のインフラ整備を行ったのが行基で久米田池、狭山池、昆陽池を作りました。狭山池は日本最古のダム式ため池として有名で、昆陽池は伊丹空港から出た飛行機からミニ日本列島が見えることで有名です。
久米田池は大阪府内最大の面積を持つため池で、周りを歩くと大きさが実感できます。神亀2(725)年~天平10(738)年の14年をかけて造られました。池を管理するために隆池院(現在の久米田寺)が整備されます。敷葉工法で堤が造られ、1300年経った現在も現存しています。
■異端だった行基
民衆への仏教の布教活動が禁じられていた時代、禁を破って布教する行基とその集団は異端と思われており、続日本記には「平城京の東の丘陵で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている」と記載されています。橋をかけるなど社会事業を推進しており反政府運動でもないので政権側から接近し最終的には大仏建立のプロジェクトマネージャーに就任します。
近鉄の大阪線と奈良線が分岐する駅が布施駅で布施という地名は困窮者のための福祉施設である布施屋があったことに由来しています。
久保田寺の境内にあるのが光明塚古墳。昔は光明皇后塚と呼ばれていたそうですが、光明皇后のお墓は奈良の佐保山東陵にあるので何とも不思議な話です。もともとは直径25メートルから30メートル程度の円墳だったようで、もちろん光明皇后の奈良時代よりも古い時代の古墳です。
久米田寺の近くにある光明池は光明皇后生誕伝説から名づけられましたので、まんざら縁がないわけではなさそうです。光明池というと光明池自動車教習所のCMを思い出しますなあ。
また聖武天皇を補佐したのが橘諸兄、吉備真備、玄昉ですが、橘諸兄は光明皇后と異父兄妹で灌漑用のため池である久米田池を作ったのは行基&橘諸兄コンビです。久米田寺近くの貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝えられていましたが、これも時代があいませんし本来の墓は井手町にあります。
聖武天皇の命のもと橘諸兄や行基が中心になってインフラ整備を行ったことから、そういった伝説が地元で広がっていったようです。
楢原氏の菩提寺である九品寺は行基が開祖と伝わるお寺ですが、青森県から宮崎県まで行基が開基したとの伝承がある寺がなんと約600!。まあ聖徳太子伝説と同様にあやかってということでしょう。
岸和田にある久米田寺は正真正銘、行基が開祖となっています。行基が開祖した49院というのがあり、その中にある隆池院(久米多)が現在の久米田寺です。創建は738年と伝わっています。久米田寺の隣に久米田池という人工池(ため池)があり、聖武天皇の命をうけて行基が開削し、この久米田池を維持管理するために作られたのが久米田寺です。
戦国時代は三好実休と畠山高政が戦った久米田の戦いや織田信長による高屋城の戦いの兵火等により、寺はほぼ焼失しますが江戸時代に本堂などが再建されました。