奥さんのつきそいで四国・お遍路の旅へ。
難波をバスで出発して1番札所から6番札所を巡るコースです。初心者向けなので、ほとんどが初参加というコース。お試し価格になっていて弁当付きで一人2,980円でした。7番札所以降を巡るのは、けっこう大変で、冬は山が閉ざされていて巡礼できない札所もあるそうです。
■絶妙な値付け
いろいろなコースが用意され、こちらは通常料金。おまけに88ケ所用の朱印状を買うことになりますので、どうしてもコンプリートしたくなる気持ちをかきたてる、うまいやり方ですねえ。(笑)デアゴスティーニのようです。
おまけに逆打ちコースがあるようで、こちらは88番札所から逆に1番札所までまわるコースで、しかも一つずつ減らしていかないといけないという過酷なコース。マニア心を刺激しますね。
※順打ちは順番を入れ替えてもいいそうで、これを”乱れ打ち”というそうです。
バスには添乗員と朱印状などの販売会社社員、先達の3名がつきそいます。各札所を巡り本堂と太子堂の2ヶ所で先達に従いながらお勤め(般若心経を唱える)をあげます。この間に社員が皆の朱印状を抱えて朱印状をもらいに行っています。6ケ所を巡る間に、けっこう上達して、参拝の基本も修練してきますから、こりゃもっと回ろうという気を起こさせます。(笑)
ですが各札所近くにはビールは売っていなくって、あったとしてもアイスやジュースばかり。また地元の人が野菜を売っています。帰りのサービスエリアで飲んだビールはおいしかった!!
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加賀屋新田会所
今日は住之江近くでお仕事。
お昼には終わったので加賀屋新田会所跡へ。新田開発といえば鴻池新田が有名ですが、他にもいろいろな新田開発が行われました。
付け替えられた大和川の河口でも新田開発が行われました。大和川の河口ははるか先になってしまいましたが、当時は住之江あたりから海が広がっていました。開発したのは淡路町の両替商だった加賀屋甚兵衛。そういえば大和川の付替えの発起人は中 甚兵衛といい、同じ甚兵衛です。
開発した新田は加賀屋新田と呼ばれ、一帯は今も加賀屋という地名になっています。この加賀屋が開いた会所跡が残っており、茶室や書院などが見学できます。
さあて、暑い中を歩いたし、仕事も終わったのでビールを飲んで帰ってきました。(笑)
生國魂神社の夏祭り
夏越大祓
今年も上半期が無事に終了。河内一ノ宮である枚岡神社へ夏越大祓に行ってきました。
平日だというのに境内には500人ほどが集まっています。皆さん、熱心ですねえ。人のことは言えませんが。(笑)
お祓いの後、神主の後をついて「水無月の夏越の祓する人は 千年(ちとせ)の命(よはひ)のぶといふなり」と唱えながら茅の輪を3回くぐります。もともとは拾遺和歌集の和歌なんだとか。
茅の輪くぐりが終わると、神主さんが人形代(ひとかたしろ)を燃やします。夏越大祓はもともと701年(大宝元年)の大宝律令で宮中行事として定められていたようで、応仁の乱で廃絶していたのを明治になってから復活させたようです。
最後に「大祓詞」を皆で唱えます。”祓ひたまえ清めたまえ”ということで無事にお祓いも済み、、さあ飲もうっと!
難波京
大阪府よろず支援拠点の最寄駅が谷四(谷町四丁目)で、駅のすぐ近くにあるのが難波京。
難波京は上町台地の上にあり隣の森ノ宮駅まで歩くと、けっこうな高低差があります。神武天皇の時代、上町台地の周りは海でした。
難波京には前期と後期があって飛鳥時代には乙巳の変の後に飛鳥から大坂へ遷都し、孝徳天皇が難波長柄豊埼宮を造りました。後期は聖武天皇の時代に、恭仁京から難波京へ遷都が行われました。発掘調査が行われ基壇があった場所は復元されています。
難波京のずっと北に大川がありますが、大川は難波の堀江という古代に掘られた運河という説があります。難波京の後、大川を堀代わりにして造られたのが石山本願寺。その後に造られたのが大坂城です。大阪のど真ん中ですが、よく遺構がのこったものです。
今も現役 太閤下水
秀吉が大坂という日本有数の都を造りましたが、人口密集地となりますので都市問題がいろいろと出てきます。
まず水問題です。京都は盆地の下に巨大な水がめがある土地なので湧水も多く、水には困りません。大坂も上町台地は良質な井戸が湧いていましたが、周辺の低地では井戸を掘っても塩気などが強かったので飲み水に適しません。大川の上流で汲んだ水を水売りが売り歩いていました。これで上水はOKですが、問題は下水です。
大坂城を造る時に城下町を都市計画し船場などが生まれます。道路整備とあわせて、町屋から排出される下水を排除するために下水溝が碁盤目状に整備しました。これが太閤下水で、今から400年以上前に造られました。太閤下水から東横堀川や西横堀川に排水され、さらには大川へ放流されていました。この下水、一部が今も現役で使われています。谷四(谷町四丁目)近くの南大江小学校の脇に、この太閤下水を見学できる所があります。
江戸は神田上水や玉川上水が整備されましたが、下水は整備されなかったようです。長屋から出た糞尿は近郊の農家に販売し、これが大家の貴重な収入になったので、商都だった大坂とは事情が違っていたようです。
いくたまさん
大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
ランチを食べにマイドーム大阪を出ると松屋町筋(まっちゃまちすじ)と本町通の交差点近くに「生國魂神社」の大きな幟が何本も立っていました。いくたま夏祭りが7月に行われますので準備の幟なんですね。生國魂神社の本殿がある場所はずっと南に行った谷九(谷町九丁目)近くですが、本町通りと中央大通りの間に生國魂神社の行宮(あんぐう)があります。ビルとビルの間に入口がありますが、境内はけっこう広く、立派な社殿が建っています。ここも夏祭りの舞台となります。
いくたま夏祭りは天神祭、住吉祭と並ぶ大阪三大夏祭りの1つで、陸渡御では秀吉に追い出されるまで本殿があった大坂城へも向かいます。
”いくたまさん”は国そのものの神様で歴史はめちゃくちゃ古く、神武東征の時に作られたと言われていますが、乙巳の変(大化の改新)の後、孝徳天皇が遷都する難波京の資材にするために生国魂社の樹を切ったと日本書紀に記されていますので、古代に神社があったことは確実視されています。中世には信長と10年戦争を起こす石山本願寺が生国魂社のすぐ隣に造られます。これがために兵火で燃えてしまいました。
秀吉が石山本願寺の跡地を中心に大坂城を造る時に追い出されて、現在の地に移ります。移転して今度は大坂夏の陣が起きます。生国魂社の南側に毛利勝永や真田信繁が陣取り天王寺の戦いが行われましたので、またまた燃えてしまいました。国の神様なんですから、なんとかならなかったんですかねえ。
鳥飼八防
鳥飼八防、摂津市周辺にある地名です。
新幹線で新大阪駅を出てしばらくすると左手に車両基地が見えてきますが、これが鳥飼車両基地で、この付近が鳥飼です。他にも鳥飼五久という地名もあり、なんでこんな変な地名がついたんですかねえ。
鳥飼はわりと分かりやすく大化改新より以前に鳥類の飼育に従事した部民 (べみん) の名前です。鳥飼部で、ここらあたりに住んでいたことから地名がついたのでしょう。同様の名前は犬養部(いぬかいべ)、馬飼部(うまかいべ)があります。武具になると弓削部(ゆげべ)、矢作部(やはぎべ)があります。弓削は八尾市に弓削町があり僧・道鏡は弓削氏(物部氏)の一族で弓削町の出身です。
平安時代、この付近には都に牛や馬を供給する牧が整備されたようで本牧という地名が残っています。五久は御厩のよみに”あて字”にしたのでしょう。
八防は何からつけたのかなあ。戦国時代、このあたりに三宅城という平城があり、三好長慶軍に攻められ落城した時に城主の娘が出家して建てたのが防風庵で、ここから知名がついたのかなあ。
日本一低い山
日本一低い山と言えば大阪の海遊館の近くにある天保山が有名です。標高4.53mで国土地理院発行の地形図に掲載されています。山岳会が存在し登頂証明書も発行されています。もともとは江戸時代に航路を拡げるために安治川を浚渫した時に出た土でできた築山です。
先日、堺台場のある大浜公園へ行ったら、ここにも日本一低い山がありました。名前は蘇鉄山。標高6.97mで天保山より高いですが実は山頂に一等三角点があり、一等三角点のある山としては日本一低いそうです。天保山には二等三角点があるそうです。三角点に一等やら二等があるんですね。
堺台場と同様、天保山にも大砲が置かれ、異国船の警戒に当たっていました。さて蘇鉄山ですが5秒ほどで登頂できます。こちらも山岳会が結成されており、登山認定書を発行しているそうで国土地理院の地形図に掲載されています。