千利休屋敷跡

千利休屋敷跡
昨日、遠里小野の環濠を見た後、すぐ近くを走っているチンチン電車(阪堺電車)に乗って堺へ。
宿院ちかくに新しく「さかい利晶の社」という施設が出来ていました。利晶って、なんのこっちゃいなと思っていたら千利休と与謝野晶子なんですね。なかなか贅沢な施設で隣にはスターバックスもありました。「さかい利晶の社」のすぐ隣にあるのが千利休屋敷跡。ここは昔と変っていなく井戸などが健在でした。
新しく碑ができていて、碑によると千利休の祖父は千阿弥といい、足利義政の同朋衆と書いてありました。同朋衆というのは将軍のそばで雑務や芸能にあたった人々で、猿楽能の観阿弥も同朋衆です。茶道は利休からなんで、なんの芸能で仕えたのかなあ。
千家はもともとは田中家だったんですね。この田中家は新田里見氏の一族といわれています。

信長も陣をはった遠里小野環濠

遠里小野
本日も大阪市内で仕事でしたので、近くの遠里小野へ。
大阪の難読地名でよく出てくる土地です、もちろん”おんりおの”ではありません。遠里小野は少し微高地になっていて戦国時代や江戸時代は環濠集落でした。周りを掘で囲まれているので防御力が高く、しかも熊野街道が集落を通っており、交通の要衝ということで、よく陣がおかれました。
織田信長も遠里小野環濠に陣をはったことが信長公記に出てきます。さすがに環濠は埋められて道路になってしまいましたが、微妙に高さが違っていることが分かります。環濠集落の古地図を見ると、当時の道路が今もそのまま使われていることが分かります。細かい路地も中世の時代そのままの位置にあり、なかなか感激します。

能「弱法師」の舞台 俊徳塚

俊徳塚
今日は大阪で仕事でしたので、ついでに能「弱法師」の故郷である俊徳塚へ行ってきました。
近鉄大阪線に俊徳道駅があります。駅の南側を通る俊徳道から名前をとっていますが、俊徳道は俊徳丸からきています。
■能「弱法師」
俊徳丸は、人のザンゲンを信じた父により家から追放され、盲目となってしまい、乞食坊主として四天王寺で物乞いをすることになります。後に後悔した父親と四天王寺で再開することになります。能なので、そのあといろいろあります。
■俊徳塚
もともとは河内国高安の山畑にいた長者が長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることでもうけた子供の名前が俊徳丸でした。ですので現在の八尾市山畑に俊徳塚があります。最寄駅は近鉄 服部川駅になります。住宅地の真中に横穴式の石室墳墓がデーンとありました。

権現塚

権現塚
大坂冬の陣で家康は茶臼山に陣をかまえますが、京都から大坂へ向かう時に通ったのが生駒山山麓の東高野街道。
家のすぐ近くを東高野街道が通っていますが、隣の豊浦町に権現塚があり、このあたりに中村正教(まさのり)の邸宅がありました。家康は冬の陣、夏の陣ともに中村家に泊ります。中村家は佐々木源氏の流れなので、氏の長者である家康に従ったのでしょう。宿泊した時に正教が菖蒲の節句にちなんで木綿を献上したところ、家康は「勝布」と言い、大いに喜んだという逸話が残っています。東高野街道から少し登ったところに中村家はありましたので、当時は大坂城までよく見通せたでしょう。
家康は東照大権現になりましたので、その関係で権現塚が作られました。もう少し登って、近鉄奈良線が通っているホテルセイリュウあたりだと大坂平野が一望できますので、当時の民衆はこのあたりから大坂の陣を見物していたでしょうね。

自分のことは占えない

石切参道
近くに石切神社という物部の古い神さんがあり、散歩がてら、よく石切参道商店街をブラブラしています。ここは占い関係のお店が多く、一度、店を数えてみましたが30軒以上はあり、中にはアパートのような占い横丁まであって正確な数はよう分かりません。
そんななか派手な傘が置いてあったのが陰陽道占いのお店。廃業したのか移転したのか店は閉まっており看板だけでした。占い激戦地区ですので、店の出入りも多いです。初期投資が机と椅子だけと安いことも特徴です。当然、占いなので商売がうまくいくかどうかを占ってもらえますが、こと自分のこととなると占えないもんですね。
これはコンサルタントも同じです。人の会社のことは言えますが、いざ自分のこととなると客観的に自分のビジネスを見られないこともあり、自分で自分のコンサルはできません。自分自身がコンサルタント業なのに外部のコンサルに自分のコンサルを頼むことは、ままあることです。商売とは難しいものですねえ。

真田丸跡

真田丸跡
大河ドラマ「真田丸」はいよいよ真田信繁が総構の外に築いた出丸・真田丸の登場になります。
ファイテング・コンサルタンツという、いつもは雑談して酒ばっかり飲んでいる研究会があるんですが、珍しく文化的に真田の史跡を巡る回でした。
朝、玉造駅に集合、三光神社へ向かいますが、団体客も来てすごい人。そうそうに退散して心眼寺の方へ。ここは堀跡が道路跡として残っていて、昔の切岸を体感できます。心眼寺を過ぎて、大阪明星学園へ。ここが真田丸跡の中心です。
昔は説明版も何もなく、知る人ぞ知る場所でしたが校舎横に説明版ができていました。大河ドラマの影響はすごいですねえ。

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
お昼は河内小阪で仕事でしたので久しぶりに司馬遼太郎記念館へ寄ってきました。「坂の上の雲」などの執筆原稿が展示されています。
小阪といえば司馬遼太郎で近鉄小阪駅前に昔からある栗林書房には一角に司馬遼太郎コーナーがあります。
書斎の前を通ると記念館があり高さ11メートルの壁面いっぱいの書棚に本が並ぶのは壮観です。確かローマ字会でお会いした時だと思いますが、梅棹忠夫先生の目が悪くなった時に司馬遼太郎から手紙が届きましたが。大きな字で手紙が書いてあったそうで、梅棹先生が見えなくなっているから効果がないと笑っておしゃっていたのを覚えています。

枚岡祭り 太鼓台踏切越え

枚岡祭り
昨日、カタシモワイナリーから枚岡駅へ戻るとちょうど枚岡祭りの宮入の最中。
見所はいろいろあるのですが、枚岡駅横の踏切越えがいいですね。近鉄電車の職員が踏切にはりついて電車のタイムテーブルを確認し、余裕がある時間帯を見つけ太鼓台を通します。踏切を超えた先にはきつい登り坂がいきなり始まります。
昨日は祭りで沿線に人が多いこともあり電車も徐行状態。タイムテーブル通りに走らなくなってきたため最後の四條太鼓台の踏切通過では警報器が鳴る中、電車の方を止めて太鼓台を通していました。
▼四條 踏切越え
https://youtu.be/KE4nNEm-NMk

枚岡祭り

枚岡祭り
雨が降ろうが風が吹こうが10月14日、15日は枚岡祭りです。
河内一ノ宮である枚岡神社の秋郷祭。なんせ枚岡神社は中臣連の神さんを祭っていて、奈良の春日神社の神さんはこの枚岡神社から勧請されましたので元春日とも言われています。なんせめちゃくちゃ古い神社です。
枚岡神社の氏子である出雲井・鳥居、額田、宝箱、豊浦、五条、喜里川、客坊、河内、四條から23基のふとん太鼓が出て、境内をねり歩き、「ちょうさぁじゃっ!!」「えんやさぁじゃ!」の掛け声が響きます。
夜、帰ってから祭りを見に行きましたが、いつみても勇壮ですね。金曜の夜というのに人で一杯でした。なにより楽しみは枚岡駅から額田駅までずらっと並んだ屋台です。

河内廃寺跡

河内廃寺跡
近鉄奈良線が瓢箪山駅に向かって生駒山山麓を下る時、ちょうど瓢箪山駅手前のカーブ右手に見える空地が河内廃寺跡です。
ずっと空地でしたが、今は史跡公園にするための工事がすすんでいて、久しぶりに見に行ったら礎石などがきれいに並べられていました。ゴチャゴチャした住宅地の中にありますので、地図を見て行ってもたどりつくのはちょっと大変です。来年4月に一般公開の予定です。
河内廃寺は7世紀中頃に創建された古代寺院で発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっています。隣りには河内郡衙があったようです。郡衙(ぐんが)とは、古代律令時代の役所です。7世紀中頃というと白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に日本が大敗し、高安城や屋嶋城、金田城が造られ、その後に壬申の乱が起きた頃になります。
河内廃寺跡近くを東高野街道が古代から通っていますので街道を見下ろす微高地に寺が作られ、街道からは優美な姿が見えたでしょうね。発掘調査によると寺が廃寺になったのは鎌倉時代末期頃で土石流で崩壊したようです。