大阪府よろず支援拠点のすぐ西側を東横堀川が流れています。
もともとは豊臣秀吉が大坂城の西惣構堀として掘った堀川。ちょうど上町台地が終わるところで、防御上のメリットもありました。この東横堀側が大坂城の西の境界にあたり、大坂冬の陣では徳川側の蜂須賀と豊臣側の塙団右衛門が激突した激戦地となります。東横堀川が本町橋を過ぎたところで曲がっていて、上を通っている阪神高速も曲がっています。
てっきり横矢をかけるために堀を曲げたのかなと思ったのですが、どうも当時あった浄国寺という寺を避けるために曲げたようです。ここが「本町の曲がり」とよばれるようになり、江戸時代は誰もが知っている自殺の名所で、恐ろしい化け物が行き交う場所だったそうです。曲げたことで水流が岸にあたり、渦となるので水難事故も多かったことが原因だったかもしれません。
上方落語「まんじゅうこわい」では、暇な連中が集まって嫌いなもの、怖いものを言っていき、なかの一人が「俺はまんじゅうが怖い」と言い出すことから話が展開していくんですが、冒頭で皆が怖いことを言っていくシーンで、この「本町の曲がり」が出てきます。
「南農人町(のうにんまち)から本町の曲がりへかけて、そりゃ夜は人も通らん寂しいとこやった」と幽霊の話になっていきます。ビジネス街だし、この辺りはあまり店もないので、今も夜になると寂しい通りなんですが、江戸時代は心霊スポットだったんですねえ。
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梅田 蔦谷書店
先日、JR大阪駅に新しくできた蔦谷書店・梅田をのぞいてきました。
場所はJR大阪三越伊勢丹百貨店が撤退した後にできたルクアイーレの9階。円形の本棚やソファー、スターバックスなどがあり珈琲を飲みながら本を読むこともできます。なかなか雰囲気がよいお店で、本は面陳列が多く、オヤと思う本と出会えます。
「ワークスタイル」、「ライフスタイル」といったテーマに沿った本を並べており、目的買い向けの本屋ではなく、こんな本もあるんだと新しい本との出会いがある本屋です。京都にある三月書房を大規模にして今風にしたような本屋。
ですので本を探すのはけっこう大変で、まさか大阪本コーナー前に城の本があるとは思いませんでした。普通の本屋は棚下にストックがあってなくなると補充されるのですが、そんなストックは少なく、売れたら補充ができない本屋なんですかねえ。珈琲など喫茶コーナーには行列ができていましたが、本のレジは混雑していなく、本屋としての売れ行きは若干、気にな
ります。
蔦谷書店といえば、大昔、京阪電車に乗っていると寝屋川市駅前に蔦谷書店という看板がかかっている書店を見つけ、蔦谷!えっ、蔦屋重三郎のあの蔦谷!
すごい名前をつけた本屋だと思い行ったことがありますが、行ったらふつうの新刊書店でした(笑)その後、あれよあれよという間に、全国にTSUTAYAが出来てしまいました。
蔦屋といえば、江戸時代に山東京らの洒落本、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの浮世絵を出版していた蔦屋重三郎の屋号。斬新な企画でヒットを飛ばしましたが、寛政の改革による取締りから没落、やがて亡くなり1代だけの書店でしたが、蔦谷という名前は出版業界に大きな足跡を残しました。
新しいコンセプトの蔦谷書店は少し江戸時代の蔦谷に近づいたようです。
土壇場を切り抜ける
土壇場を切り抜けよう、というような使われ方をする土壇場。どうにもならない場面、最後の決断を迫られる重大な局面などで使われる言葉です。土壇とは土も盛って作った壇。刑場で斬首する時に使われたのがこの土壇。まさに土壇場で、これが語源になっています・
大阪府よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますが、マイドーム大阪があった場所は江戸時代、西町奉行所でした。マイドーム大阪の前が松屋町筋ですが道路を渡ったところにあるのが大江小学校。ここに牢があり刑場もありました。斬首刑はこの刑場の土壇場で行われていたようです。今はビジネス街&マンション街になっています。
そういえば中国からの買い物客であふれている千日前にも刑場がありました。市中引き回しの刑となると大江小学校にあった牢から出されて、本町橋を渡って西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい千日前の刑場まで連行されたそうです。
河内湖
よく家から枚岡神社-枚岡公園-石切商店街-石切神社-額田戎神社と巡っています。中臣の神さんと物部の神さんを巡る、1時間の散歩コースとなります。
この散歩コースは生駒山の麓を巡るので大阪平野を一望できます。大阪平野を見ると考えてのは、神武天皇の東征時代は河内湖で、水の底だったこと。一部、上町台地だけは水から出ており、台地の上に難波京や四天王寺ができました。住吉大社も境内の前まで海でした。
河内湖の水を抜くために造られた排水路が「難波の堀江」。仁徳天皇が工事を行い、難波の堀江が現在の大川と言われています。これで大阪平野は湿地帯になりましたが、さらに水の流入をとめるため大和川の付替に和気清麻呂が挑みますが、失敗。近鉄・南大阪線に河堀口駅(こぼれぐちえき)がありますが、ここが掘り始めた場所と言われています。
また大坂の陣で家康が本陣を置いた茶臼山古墳(天王寺公園の中にあります)の河底池は和気清麻呂の工事跡と言われています。
河内寺廃寺跡
今日、届いた東大阪市政だよりに河内寺廃寺跡の史跡公園整備をスタートするという記事が掲載されていました。
近鉄で難波から奈良へ向かう時、瓢箪山駅を超えると生駒山に沿って左にカーブし、山裾を登りはじめます。この左にカーブをする時、西側(生駒山の反対側)、住宅地の間に空地が見えます。ここが河内寺廃寺跡。もっとも看板も案内も何もないので地元の人でも、ほとんど知りません。
飛鳥時代後期に造られた古代寺院で、四天王寺形式(塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形)でした。造ったのは百済の渡来人の末裔だった河内直(かわちのあたい)一族。河内郡の長官でした。すぐ近くを東高野街道が通る交通の要衝でしたし、少し高台でしたので古代は眺めがよかったでしょうね。
河内寺廃寺は国の史跡指定を受けたこともあり、史跡公園として整備されることが決まりました。一般公開は2017年になる予定です。
レインボーラムネ
家でセミナー用のレジユメを作っていましたが、ようやく終わりましたので近所を散歩。
枚岡神社-枚岡公園ーホテルセイリュウ前ー石切参道商店街ー石切神社ー額田戎神社と巡ってきました。写真は石切参道商店街にある石切大仏と、こんな建物では食べたくないなという「イタリア料理 レガーロ」。
石切参道商店街を歩いていたら「レインボーラムネ」を売っている店があって、さっそく購入。舌の上を溶ける感じがいいですね。
鶴橋の語源
大阪の鶴橋と言えば焼肉とコリアタウンで有名。
鶴橋駅を降りて商店街へ行くと焼肉やハングル文字が氾濫しています。この鶴橋の地名ですが、「つるのはし」という橋が語源と言われています。
仁徳天皇が架けた橋で日本書紀に登場しますが、なんと西暦323年!百済川に架設された橋で「猪甘津の橋」という名前でしたが、付近に鶴がたくさん生息していたことから江戸時代に「つるのはし」となり、これが鶴橋となったようです。
地名は猪甘野(いかいの)で、港があり、それが猪甘津。百済からの渡来人が多くもともとは百済郡と呼ばれていましたが、渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから猪飼野と呼ばれます。さすがに橋は残っていませんが、碑が建っています。
辻子谷の水車
東大阪市の枚岡(ひらおか)に住んでいますが、枚岡の地場産業の一つが伸線製造。
線材を細く伸ばす金属加工で線材といってもかなり太く、トラックに乗せる時はクレーンを使います。
伸線に使ったのが水車の動力。生駒山にはたくさんの谷がありますので、関ヶ原の合戦が終わった江戸時代初期から水車ができました。最盛期には117も水車があったそうです。
明治から大正にかけて、この水車を伸線製造の動力源にしてきましたが、やがて電動機となります。枚岡は伸線の町として有名でしたが、大阪のベッドダウン化で伸線工場はマンションや駐車場となり、だいぶ減りました。
また水車の動力を使って道修町にある製薬会社の製粉工場もたくさんありました。水車は完全になくなってしまいましたが辻子谷に2004年、復元されました。昨日、鷲尾山興法寺へ行く途中で見てきました。
水車の直径が6mあり、グルグル回っているのを見ると迫力があります。また鷲尾山興法寺までたくさんの石仏があります。四国八十八ケ所霊場めぐりを模倣して祭られた石仏が88対も並んでいて辻子谷石仏と呼ぶそうです。なかなか楽しめるハイキングコースですので、ぜひどうぞ!
額田戎 本えびす
本日は本えびす。
毎年、家から歩いて5分ほどの所にある額田戎に行っております。小さな神社なんですが、この3日間だけは賑わいます。神社前にいつもベビーカステラの屋台が出ているんですが、今年は甘栗の屋台が出ていました。西宮のエビス神を勧請した神社で、枚岡神社へ合祀されていましたが、明治時代に後に復社しました。
額田は額田氏が住んでいた土地で、額田氏で有名な人と言えば額田王。神武天皇が東征で攻め入った日下がすぐ近くにあり、額田には行基が開いたお墓が今も残る古い土地ですので、霊験あらたかだろうと、毎年、額田戎に行っております。
縁起物の熊手も買いましたので、えべっさん、あんじょう、たのんまっせ!
ポラーノの広場
チケットを買ってあるということで奥さんと「光と影の芸術人 藤城清治世界展」へ日曜の午前中に行ってきました。最終日で午後からは本人のサイン会もあるということでかなりの混雑。
場所は大阪港にある大阪文化館・天保山。昔のサントリーミュージアム「天保山」です。知的生産の技術研究会・関西で毎年、講演していただいた作家・野村正樹さんがサントリー時代の最後に手掛けたのがこのサントリーミュージアム「天保山」の設立。てっきり大阪在住と思ってセミナー講師を依頼したら、東京在住でした。それ以来、関西の別の用事にかこつけて前後にセミナーをしてもらいました。
「光と影の芸術人 藤城清治世界展」会場内には藤城清治作品が山のように展示されていました。なかでも多かったのが宮沢賢治の童話の挿絵。数ある作品の中で一番、印象的だったのが「ポラーノの広場」。昔、角川書店で宮沢賢治の「ポラーノの広場」を買ったのですが表紙の挿絵がまさにこれ。藤城清治には珍しく、淡い印象の絵で、懐かしかったですねえ。。
「つめくさの花の かおる夜は ポランの広場の夏まつり...」