天平祭り開催中の平城京跡へ
朱雀門近くで、いろいろとイベントをやっており、屋台も出ていました。天平祭りなので平城京にあった西市・東市の雰囲気になっています。と言っても売っているのはビールや焼きそばなどふつうの物です。天平衣装の貸出もしていて、天平人が海上のアチコチを歩いておりました。
天平祭り開催中の平城京跡へ
朱雀門近くで、いろいろとイベントをやっており、屋台も出ていました。天平祭りなので平城京にあった西市・東市の雰囲気になっています。と言っても売っているのはビールや焼きそばなどふつうの物です。天平衣装の貸出もしていて、天平人が海上のアチコチを歩いておりました。
ファイティング・コンサルタンツ研究会という、創建時の崇高な思いはどこへやら、単なる飲み会組織に変貌した集団です。前回、山の辺の道の途中で断念したので、そのリベンジのために近鉄・奈良駅の行基像前に集合。とりあえず昼飯ということで、高速餅つきで有名な中谷堂のすぐ近くにある和食ダイニング拓というお店へ。小さなオチョコ100円でお酒が飲めるお店です。風の森などお酒が豊富なので、いろいろと試していると必然的に宴会に。奈良駅からJR柳本駅まで出て、山の辺の道リベンジのはずが、1時間に1本しかない列車の発車時間は過ぎ去ってしまいます。
ということで目的地を変更。東向商店街は観光客とインバウンドで一杯でしたので、そのまま餅飲殿商店街を南下して奈良町へ。奈良町もそこそこの人出なので元興寺の塔跡や大乗院庭園など、人がいない所を狙って散策。そのまま新薬師寺を目指すと、途中の頭塔で特別公開をしていました。ラッキー。
■頭塔
奈良時代に東大寺の僧が国家安泰を祈って築いた土塔でピラミッドになっています。よく似た塔が堺の深井にある土塔です。茨城県にも土塔森林公園という所があるので、他にあった可能性もありますが、復元されてみることができるのは2つだけですね。
「どうする家康」、金ヶ崎の退き口と思ったとたんに先週は姉川の合戦、次回は信玄との対峙のようです。
家康にとって苦難の年だったのが元亀元年(1570)で家康29歳の時。4月に信長について朝倉攻めに加わったら、まさかの浅井長政の裏切り。金ケ崎城で秀吉、光秀とともに殿(しんがり)を勤め、なんとか京都に帰りつきます。6月には姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍と戦います。写真は信長が姉川の合戦で陣を置いたところで家康は少し西に陣を置きました。信長がここから姉川の戦況を見ていました。
9月には三好三人衆を攻撃するために摂津・福島に陣を敷いていた織田軍を突如、石山本願寺が攻撃。信長と石山本願寺との10年戦争がはじまります。浜松城を造り、入城した2日後に足利義昭から信長に加勢するように依頼が来て、摂津へ出陣することになります。大忙しの1年でした。
近鉄・八戸ノ里駅近くに城のイラストが描いてあるビルがあり、なかなかいい趣味だなと近くに行った時に写真に撮っておいたのですが、これが天下の名城である小阪城だったんですね。
小阪城というのは小阪駅近くの理容店の上にあったお城です。理髪店店主が手作りで作ったもので地元では有名なお城でした。ところが2018年9月に台風21号によって落城してしまいました。天守閣がぶっとんでしまったのです。落城してからも見に行きました。
ところがNHKのBSプレミアムの番組「まいど!修繕屋です」(ダイアン主演)で復活プロジェクトがスタートしたそうで、再建はもういいという店主の声から城の絵を描くことに。あの城は小阪城だったんですね。けっこうでかいです。
写真じゃ分かりませんが山門の先に彦根城の天守閣がちょうど真ん中に見え、山門の扉が額縁のようになっています。彦根城の鬼門の方角に作られたのが大洞弁財天で大洞山の中腹にあります。日光東照宮を改修する時に総奉行だったのが第4代藩主・井伊直興が、厄除けとして建立しました。
山の中腹にあるので、ひたすら階段を登らないといけませんが上まで登ると琵琶湖などが一望できます。
野洲にある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に立ち寄ると、3月末まで設備工事ということで休館していました、永原城の資料が見たかったのに、残念。ここは出雲の加茂岩倉遺跡でたくさんの銅鐸が出る前に24個もの大量の銅鐸が出たことで有名です。そのうちの一つは日本一の大型銅鐸です。付近には大岩山古墳群があり、博物館内の宮山2号墳では石室に入ることができした。また銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園があり、高床倉庫、竪穴住居などが復元されています。
野洲付近は古代史で有名な土地で、銅鐸博物館から少し行った野洲と栗東の間にあるのが伊勢遺跡です。摩訶不思議な遺跡で中心部に方形に配列された大型建物がならび、その周り(直径220m)に等間隔で円周上に建物が並びます。この建物が大使館のようなもので、各地域の首長は中央に集まって会議したのではないかと色々な説があります。この後に登場するのが人工都市・纏向遺跡になります。
国道308号は大阪の難波から奈良(平城京)を結ぶ国道ですが、酷道という名前がついています。特に暗峠を超えるのは大変で車は4駆でないとまず無理です。暗峠を超え進んでいくと矢田丘陵上に追分があります。暗越奈良街道を、そのまままっすぐ進むと奈良に至ります。遠くに若草山が見えています。奈良時代から江戸時代にかけて、この道がメインルートで、多くの旅人が行き来しましたが、今は時たま車が通るぐらいです。
追分を右に曲がると大和郡山へと向かいます。追分には本陣・村井家住宅が残っていて江戸時代は大和郡山藩主の休憩に使われました。奈良に入ると大和郡山領でしたので暗峠に残る石畳は大和郡山藩が整備し、暗越奈良街道の管理もしていました。
大和角山城の近くにあるのがバラ園で有名な霊山寺で、寄ってみました。山に造られた寺院で山城みたいな伽藍です。さすがにバラは咲いていません。
寺の来歴によると敏達天皇の頃は小野家の土地だったそうです。小野氏といえば和爾氏ですなあ。敏達天皇というと物部守屋や、蘇我馬子が活躍した頃です。小野妹子の息子といわれる右大臣・小野富人は壬申の乱に加担したとかで職を辞して登美山に閑居。ここが今の霊山寺で薬草を育て、薬草湯屋を設け、湯治をしました。
神亀5年(728)に流星が宮中に落下する事件があったそうで、孝謙皇女(聖武天皇と光明皇后の娘)がノイローゼになった時に聖武天皇の夢枕に小野富人が現れて、薬草湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとお告げします。そこで行基が代参し、皇女の病が直ります。ノイローゼなら、そら直るでしょう!天平6年(734)聖武天皇は行基に霊山寺建立を命じます。
彦根城やキャッスルロードへ行く観光客は多いのですが、もうちょい足を延ばすと足軽組屋敷があります。彦根城を整備する時、外堀と芹川との間に足軽を住まわせ700戸という大規模になりました。今も当時の町割りが残っています。
町の大辻通りと中辻通りが交差する辻には辻番所を設置して、辻の監視を行っていました。当時の屋敷がそのまま残っていて、辻に若干張り出た、監視窓から交代で監視できます。時代がすすむと足軽屋敷がどんどん普通の住居へ変わっていきましたが、市民によるトラスト運動が起きて保存が決定し、彦根辻番所の会が結成されボランティアで維持・管理をしています。土日などは公開されて説明をしています。
城巡りのついでに多賀大社へ。拝殿前にはずらっと参拝客が並んでいたので、ショートカットして脇から参拝してきました。
多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、日本創成の神様です。天照大神の親にあたりますから「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢お多賀の子でござる」と歌われました。近江国の一宮は建部大社で、二宮・日吉神社と続き、多賀大社は三宮になります。
このあたりは犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)で有名な犬上氏の土地です。犬上御田鍬は推古天皇の時代、最後の遣隋使で最初の遣唐使になった人物として日本史で習いましたね。もともと多賀大社はこの犬上氏の氏神を祭っていたという説もあります。