富雄丸山古墳

富雄丸山古墳へ。

富雄丸山古墳
富雄丸山古墳

前例がない鼉龍(だりゅう)文盾形銅鏡と蛇行剣が出土した発掘現場が本日まで一般公開されています。富雄丸山古墳は全国で最大規模の円墳でホタテ貝のような造り出し部分から見つかりました。ちょうど近くへ行く用事があったので、のぞいてきました。まあ皆さん考えることは同じで、長い行列が待っていました(笑)。

1時間ほど列に並んで古墳の下へ、ここから20人程度を1組にして昨日の雨でぬかるんだ丘を登っていきます。けっこうな急坂で2人ほど見事にすべっていました。山城登りと同じですなあ。

被葬者は分かっていませんが富雄のトミは登美、鳥見という神武天皇以来の地名の地ですから、有力者でしょうね。

興隆寺町 八坂神社

椿尾上城へ行く途中に八坂神社があったので寄ってきました。八坂神社は尾根上にあり神社の両横が崖になっていて、まるで切岸のよう。山城として活用できそうな場所です。

八坂神社
八坂神社

八坂神社は興隆寺町にあります。ただ興隆寺町という名前ながら肝心の興隆寺が見当たりません。Googleマップにも出てこないので、こういう時は法人番号検索です。興隆寺町で検索すると4件ヒットして、八坂神社もありましたが、探している興隆寺がありませんでした。

近くにある興隆寺城について調べると中心部は藪だらけで踏破できないとあり、断念したんですが城へ登る途中に廃寺跡があるそうです。これが興隆寺だったんでしょう。

柿本寺跡

和爾下神社の階段を降りたところに礎石の一部があり、柿本寺(しほんじ)跡の碑がありました。和爾氏の一族が柿本人麻呂で有名な柿本氏で、ここらへんが本貫となります。柿本寺は柿本氏の氏寺になります。また神仏習合でしたので柿本寺は和爾下神社の神宮寺となります。

柿本寺跡
柿本寺跡

ここは戦場にもなったようで建武4(1337)年に北朝側が和爾下神社、柿本寺に陣取って南朝軍と戦った記録が残っています。和爾下神社は山城のような様相ですから、陣を構えるには最適だったのでしょう。

柿本寺には柿本人麻呂が葬られたと伝わり、人麿信仰が盛んになるにつれ歌塚として有名となります。梅原猛の「水底の歌」では、鴨島沖で柿本人麻呂は刑死していて、いずれにしても石見国(島根県)が終焉の地なのに、なんでここに葬られたことになっているんですかねえ。

和爾下神社

JR櫟本駅を東に行くと和爾下神社があります。階段をずっと登っていく高台にある神社ですが、実は前方後円墳の上に建っています。周りが森になっているので眺めは全然、ゆありません。

和爾下神社
和爾下神社

古代、このあたりを地盤としたのが和爾氏。和爾氏は大和朝廷の外征を担当したようです。隣が天理で物部氏の地盤でしたので、何らかの関係があったのでしょう。また各天皇の后妃に和爾氏が出しており、葛城氏と同様に有力な豪族でした。蘇我氏が台頭してくるとすたれていきます。

仁徳天皇の頃に大宅氏、布留氏、春日氏、柿本氏、小野氏、粟田氏、櫟井氏に分かれていきます。部曲 (かきべ)という私有地が全国にありましたが近江にもあり、湖西線の和爾駅、小野駅という形で名前が残っています。

最期の溜池 芦田池

達磨寺近くにあるのが芦田池。どこにでもある、ふつうの池なんですが、これが、ああ~た!日本最古の溜池と言われています。

芦田池
芦田池

推古天皇15年(607年)、教科書で習った小野妹子を遣隋使として派遣した年です。同じ年、厩戸王の進言で大和の国に高市池、藤原池、肩岡池、菅原池を造りました。この肩岡池が芦田池と言われています。葦が茂っていたことから葦田池と言われていました。柿本人麻呂の歌に「あすからは 若菜つまむと 片岡の あしたの原は けふぞやくめる」が残っています。

ただ異説もあり、近鉄・大阪線の関屋駅近くにある簱尾池・分川池ではないかとも言われています。現在も農業用水として使われており太子講を作り、毎年、初穂を法隆寺に奉納しています。

他の3つの池ですが菅原池は現在の蛙股池のようです。近鉄・菖蒲池駅近くにあり、大和文華館横にある池です。

高市池は天香具山付近にあったと伝わる埴安池(はにやすのいけ)。藤原池は島庄遺跡の発掘調査で見つかった方形池ではと言われています。どちらも池は無くなりましたが、こちらも諸説あります。

達磨寺

片岡というのは古い地名で聖徳太子の片岡飢人伝説が伝わっています。聖徳太子が片岡山にさしかかると、飢えと寒さで息も絶え絶えの人が倒れていました。太子は持参していた弁当と飲み物を与え、紫の衣を脱ぎ、着せかけました。翌日、亡くなったことを聞き、墓を建てさせます。数日して太子が「あの飢人は、きっと聖人にちがいない」と言い出したので、念のため墓を開いたところ、遺骸はなく、紫の衣だけが、丁寧に畳まれて柩の上に置かれていました。

達磨
達磨

■達磨寺の創建
飢人は達磨大師の化身だったという伝説です。この墓の上に鎌倉時代、建てられたのが達磨寺の発端になります。境内には、達磨大使が座っていた石が残っていて、ここで太子と問答したそうです。ほんまかいなあ。大体、キリストの昇天みたいですがな。日本書紀や古事記を編纂していた時代、中国に景教(キリスト教)が伝来していたので、この影響があったのでしょう。大体、馬屋の前で生まれましたしね。

伝説も多いので日本史の教科書から聖徳太子をなくす話が話題になっていましたが、今は厩戸王(聖徳太子)という表記になっています。大陸外交に力をいれていたため大和で最初に使節を迎える斑鳩に宮を建てることになります。

商売繁盛で笹もってこい

額田戎神社
額田戎神社

個人事業は1月から第22期目に突入。法人は2月期末で現在、第6期目を推移中です。というわけで、えべっさんへ家の近く額田戎神社へ。西宮戎から勧請したので西宮までわざわざ行かなくてすみます。大体、すいていますし(笑)。ということで商売繁盛よろしゅうお願いします!

鍵屋の辻

日本三大仇討ちといえば曾我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、そして鍵屋の辻の決闘です。曾我兄弟の仇討ちは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場しましたが、最近は北条時政による頼朝暗殺説が有効です。鍵屋の辻の決闘が行われたのは伊賀上野の西側で島ヶ原から伊賀上野の台地に上がる所で行われます。

鍵屋の辻
鍵屋の辻

LBGTじゃないですが、藩主を巻き込んだボーイズラブ(男色)が原因で、しかも横恋慕が招いた悲劇でした。紆余曲折があり渡辺数馬が仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれてしまいます。剣術が未熟なため姉婿の剣豪・荒木又右衛門に助勢を頼みます。敵相手の河合又五郎も仇討ちは分かっていますが11人で移動しています。これを4人で待ち伏せして、見事に本懐をとげます。舞台となった場所は公園になっていて数馬茶屋が作られています。

朝ドラ「舞い上がれ」ロケ地

朝ドラ「舞い上がれ」、舞台が東大阪ということもあり家の近所がよく出てきます。例えば主人公が浪速大学に入学するシーンで桜咲く川の横を通学で歩くシーンがありますが、これは花園ラグビー場近くの恩地川。隣には東花園駅に出る近鉄の車両基地があります。この道を歩いても近鉄電車で遮断されていて、「そんなとこ歩いても、どこへも行けまへんで」と朝ドラを見ながらつっこんでいます(笑)。

枚岡公園
枚岡公園

人力飛行機編では坂道を自転車で登る自主練習するシーンが出てきますが、これは枚岡公園への上り坂。私の散歩コースですがなあ。坂の近くに「森のおもちゃ箱」という滑り台などの遊具もあり週末は家族連れでにぎわっています。

當麻山口神社

當麻山口神社
當麻山口神社

鳥谷口古墳から坂を下りていくと、すぐ近くに當麻山口神社があります。延喜式神名帳に記載された式内社ですので、古い神社ですね。ひっそりとした境内です。祭神は大山祗命(おおやまつみのかみ)で山の神様です。

山の神様なんで生駒や鴨、都祁などに山口神社があります。法人番号検索サイトで「山口神社」で検索すると全国に39あり、そのうち奈良には15ありますので、半分弱が集中しています。山口神社は奈良を取り囲むように配置され、中心部にも耳成山や畝傍山に配置されています。