箱殿東交差点

箱殿東交差点。ここの角にある西村クリニックが、かかりつけ医でよく通っています(笑)。この交差点は大昔からあり東高野街道と暗越奈良街道が交差する所です。

箱殿東交差点
箱殿東交差点

東高野街道は京都と高野山を結ぶ街道で古代から官道だったようです。大坂にあった河内湖などの湿地帯を避け生駒山の山麓を通るため、昔から軍の移動に使われ四条畷の合戦や大坂の陣(八尾・若江の戦い)の舞台となりました。

暗越奈良街道は難波から生駒山地の暗峠を越えて奈良へ向かう街道です。奈良時代に整備された官道で難波と平城京を最短距離で結んでいました。

二つのメインの街道が交わる場所なんで往時は賑わったでしょうね。今は西村クリニックと福聚軒(中華)、吾三路(うどん)、魚芳(仕出し屋)さんぐらいしか店はありません。角にあったカラオケ屋さんは無くなってしまい。住宅になっています。

河内廃寺

河内廃寺
河内廃寺

近鉄枚岡駅と瓢箪山駅のちょうど中間あたりに河内寺跡があります。史跡公園として2017年に整備されましたが、既に雑草でぼうぼうになっています。

河内寺は約1350年前の飛鳥時代後期に造られた古代寺院。中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっていました。北西側に隣接して河内郡衙(ぐんが)があったようです。郡衙とは律令制度時代、郡の官人(郡司)が政務を執った役所です。701 (大宝1) 年の大宝令によって郡となりましたが、それまでは評 (こおり)でした。

■河内氏
河内廃寺を建立したのは河内氏で河内郡をおさめていました。渡来系氏族で伽耶(かや)出身のようです。昔の日本史では任那って習いましたね。白村江で日本が大敗した後、遣唐大使として唐へ派遣されたのが河内直鯨(かわちのあたいくじら)です。その功績から直(あたい)から連(むらじ)となります。本来は百済系のはずが新羅と組んだりして百済の聖明王から叱責を受けたりしています。なかなかの人物だったようです。

大きな伽藍だった河内寺は鎌倉時代に土石流に巻き込まれて廃寺になったことが発掘調査で分かっています。サンロード瓢箪山商店街から5分ほど登ったところにありますが、迷路のような所にあるのでたどりつくのは大変です。

瓢箪山

日経新聞の「私の履歴書」。毎朝読んでいますが、ちょうどタイのサハ・グループ会長が連載中です。

今日は1954年に父親の仕事の手伝いから大阪に駐在した頃の話で、最初に住んだのが東大阪の瓢箪山だったそうです。ウチの近所だ(笑)。

近鉄奈良線・瓢箪山駅のすぐ近くに瓢箪山稲荷神社があります。秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方角(大坂城の南東)に鎮護としてお稲荷さんを勧請したものです。神社は双円墳の瓢箪山古墳に造られ、このため一帯が瓢箪山という地名になっています。

瓢箪山駅の南北にはジンジャモール瓢箪山という商店街が連なり元気な商店街として残っています。この商店街にタコヤキ屋をそのまま居抜きで使っている花屋があり、大きく看板に「たこやき」と上がっています。店の名前を知らなくても「たこやきの花屋」で通じるので、うまいやり方ですねえ。

長宗我部 物見の松

大坂夏の陣で久宝寺に陣取ったのが長宗我部盛親。ゲームやアニメではめちゃくちゃイケメンに描かれています。刀剣男子など、よう分かりませんな~あ。

冬の陣の和睦条件で大坂城の堀を埋め立てしたため豊臣軍は野戦をせざるをえませんでした。生駒山沿いの東高野街道を京都から進軍してくる徳川軍を横から攻撃するため出撃したのが長宗我部盛親・木村重成・増田盛次隊ら約1万です。当時、大和川は付け替え前ですので北に流れ、鴻池や新開池など湿地帯が拡がっていました。

徳川軍としては大軍が動かせないし湿地帯を避け、柏原、道明寺あたりまで南下し大和からの徳川軍と合流して大坂城を攻めるしかありませんでした。この東高野街道で行われたのが高師直と楠木正行の四条畷の合戦で、昔からここで戦うしかなかったですね。

■物見をした松
先頭の木村重成隊は若江村に、長宗我部隊は若江村の南にある久宝寺村に到着します。この時に物見をしたのが写真の場所で碑だけが残っています。豊臣軍は若江から八尾にかけて大きく布陣し、これを発見したのが藤堂高虎隊。

物見の松
物見の松

一軍を木村重成隊へ、別軍を長宗我部隊先鋒の吉田内匠と増田盛次へ、本隊は長宗我部隊本隊に向かいます。実は長宗我部家が改易になった時、仲がよかった高虎が多数の長宗我部の家臣を引きとってくれており、藤堂軍には旧臣達が多数いましたが、戦では戦うしかありません。湿地帯での戦いとなり長宗我部軍は強く、散々に藤堂軍を打ち破りますが木村重成が敗死したと連絡があり、引き上げます。

許麻神社

久宝寺にある許麻(こま)神社。

許麻神社
許麻神社

■式内社とは
祭神は素盞鳴命、高麗王霊神、牛頭天王、許麻大神で式内社です。式内社とは927年(延喜のあとの延長5年)にまとめらえた延喜式神名帳に載っている神社のことで、とっても古くからある神社の証明になります。延喜式が出たのは菅原道真の怨霊が語られだした頃ですね。皇太子が若くして亡くなり、しばらくしてから清涼殿への落雷で道長排斥に関わった公家らが亡くなる事件が発生します。

■高句麗の祖神?
許麻神社は聖徳太子の建立になっていますが、本当だとすると物部守屋を滅ぼした後の土地を政権が接収したのでしょう。倭名類聚抄に巨麻郷という名前が出てくるのでこのあたりに渡来系氏族【大狛連(おおこまのむらじ)など】を一体に集めたようです。祭神の一つが高麗王霊神ですので三韓時代の高句麗と縁があり、三韓というのは歴史で習った新羅、百済、高句麗です。

668年に高句麗が滅亡し、たくさんの亡命者が倭にわたってきたため亡命者の街ができました。狛江市などもその一つになります。

そうそう三国志で有名な孫権の国である呉も晋に滅ぼされたため、亡命者が倭にわたり伝えたのが呉服、つまり今の和服になります。

物部氏の渋川廃寺

八尾でお仕事でしたので渋川天神社へ。JR久宝寺駅と八尾駅のちょうど間の住宅街の中にあり、めちゃくちゃマイナーな天神社です。

渋川天神社
渋川天神社

八尾、東大阪といえば物部の土地です。渋川天神社は物部守屋の別宅があったと言われている場所で、昭和10年に国鉄の操車場を作る時に塔跡などの伽藍があったことが発見されました。これが渋川廃寺です。

物部守屋と蘇我馬子が仏教崇拝で抗争したと歴史で習いましたが、物部氏が伽藍を建てていたとすると日本書紀の記述とはあわなくなりますね。大伴金村が任那を百済に割譲して賄賂をもらった事件が起き、物部尾輿などから外交政策の失敗を攻められた記事があり半島情勢の利権がからんでいたようです。

梅田ホワイティ

昨日はLEC梅田で1次試験前の総まとめ講座。

今年は中小企業診断士試験が8月21日(土)・22日(日)といつもより遅くなり受験生にとってはちょっと余裕がありますが、条件は皆さん一緒なので最後の追い込みを頑張ってください。

LEC梅田へは地下街ホワイティ梅田を通っていくのですが朝はどの店も閉店していました。緊急事態制限が終わったので朝9時からやっている立ち飲み屋も復活したかなとみていましたが閉まっていました。

講義が終わって夕方、通ると全ての店が開いておりました。もちろん立ち飲み屋も開いており、久しぶりにヨネヤへ寄って一杯だけ飲んで帰ってきました。立ち飲みエリアは一人づつアクリル板で完全に遮断されており、ソースやキャベツも個別で感染対策はバッチリですね。

漏月庵

大阪府よろず支援拠点を出て大阪城公園を通り森ノ宮駅から帰っています。なんせ六番櫓と一番櫓を眺めることができます(笑)。大阪城へ向かう途中に大村益次郎の寓居跡である漏月庵があります。司馬遼太郎の「花神」の主人公ですね。

漏月庵
漏月庵

大村益次郎、適塾に学び、後に出身地である長州藩に招かれて軍の指揮をとることになります。第二次長州征伐で幕府軍を翻弄し、彰義隊との戦いを1日で終わらせました。最初に適塾で学んだ時には住み込みでしたが長崎でシーボルトに学んでから再度、適塾に学んだ時に塾頭になります。実入りもあったこともあり、この碑のあったところから適塾に通っていました。夜、寝転がっていると月明かりが家の中に漏れたので「漏月庵」と名付けたそうです。

楠木正行首塚

日経新聞夕刊を見ていると宝塚月組「桜嵐記」の記事が載っていました。

楠木正行首塚
楠木正行首塚

月組トップ美園さくらの退団講演なんだそうで主人公はなんと楠木正行。楠木正成は有名ですけど、さすがに息子の知名度はそれほど高くないんですが宝塚ってけっこうマイナーな人物に焦点をあてるんですね。以前は阿弖流為(アテルイ 坂上田村麻呂に降伏した蝦夷の長)もやっていました。

記事によると末弟である楠木正儀まで登場するそうです。楠木正行は南朝を率い四條畷の戦いで高師直と戦いましたが敗北します。四条畷にの楠公御墓所がありますが、瓢箪山駅近くにある四条、畷という地で戦ったという説もあり枚岡公園近くの山手町にも首塚があります。住宅街の中にありますが特に案内もないので、すごく分かりにくい所にあります。

末弟の楠木正儀は南北朝統一まで奔走し、お墓は楠木正成が活躍した千早城跡にあります。

居酒屋じょうもん

ファイティング・コンサルタンツという中小企業診断士の研究会(昔はコンサルティングファームを目指していたこともありました)で、よく根城にしていたのが中百舌鳥にある居酒屋じょうもん。

居酒屋じょうもん
居酒屋じょうもん

土曜日に研究会を14~17時まで行い、17時~21時頃まで宴会をしておりました。研究会よりも宴会が長く、17時まで研究会を行うのも開店時間が17時という要因が大きかったですね。大体、16時50分になったら片付けていたし(笑)。

本日は堺でお仕事。コロナ禍で居酒屋は大変ですが、ランチ営業をしているようでしたので寄ってきました。居酒屋じょうもんの日替わり定食(750円)はハムカツ&マグロカツでした。