コーボックスへ

マンションが大規模修繕工事をしていることもあり、天満橋にあるコーボックスへ避難。

コーボックス
コーボックス

コーボックスから大学のオンライン講義をしておりました。コーボックスというのは全国でも珍しいファブラボの一つで、コワーキングスペース&ものづくりスペースになっています。3Dプリンター、レーザーカッター、UVプリンターなどが時間チャージで使えますので一人メーカーなどが活用しています。時たま知的生産の技術研究会・関西のセミナー会場としてもお借りしています。

久しぶりにコーボックスに行ったら3Dプリンターが4台に増え、スタジオセットが新たに増えていました。実はコーボックスのオーナーがパソコン通信時代からの知り合いで、当時はまだ20代と若かったですね。人のことは言えませんが(笑)。

そうそうコーボックスを根城にしている松本さんにもお会いしました。いろいろと発明されている方で最新作は「あしゆび洗浄専用タオル」です。なるほどお腹が出てくると足の指を洗うのは至難の業ですから目の付け所がいいですねえ。

富本銭

西市近くの九条公園で1969年(昭和44年)に出土したのが富本銭です。その後も5枚ほど出土しましたが、決定的になったのが飛鳥池工房遺跡での発掘で、飛鳥で富本銭が鋳造していたことが分かりました。

富本銭
富本銭

それ以前は表面に文様がない無文銀銭が使われていましたが天武天皇が貨幣経済を目指すために銀銭ではなく銅銭を使うよう683年に詔が出します。そこで、和同開珎など皇朝十二銭と呼ばれる12種類の貨幣を鋳造されましたが、新しい貨幣が発行するたびに政権はデノミ政策を実施します。せっかくお金を貯めても価値が1/10になるので貨幣の信用がなくなり、やがて貨幣そのものが造られなくなります。

■キャッシュフローをまわしていたのは渡来銭
そこで中国から銭が輸入されます。推し進めたのが平清盛で宋で作られた銭の1割ほどが日本に入ってきたようです。江戸時代に慶長通宝や寛永通宝が国内でできるまでの400年間は宋銭のような渡来銭でキャッシュフローが回ります。

貨幣経済に着目していたのが織田信長で旗印は永楽通宝(永楽帝の時代に造られた銭)。戦後時代の武将は金勘定が分かっていないと戦ができませんでしたが江戸時代となり朱子学などの影響で「武士は食わねど高楊枝」となります。「晴天を衝け」で金勘定がわかる渋沢栄一が活躍するはずです。幕府にも人物がいて勘定奉行である小栗忠順が積極通商を推し進め明治の礎となった横須賀造船所を造ります。小栗忠順はあまりにもキレる人物だったため逼塞していたのに新政府軍が殺してしまいます。

ワクチン接種日は禁酒

東大阪市の集団接種会場の一つが大阪商業大学。お昼に1回目のワクチンを受けてきました。

大阪商業大学
大阪商業大学

懐かしいですね。中小企業診断士試験会場といえば大阪商業大学が定番でしたので、夏になると河内小阪駅で降りてよく通ったものです。つまりそれだけ通らなかったということです(笑)。試験が終わったら受験生仲間と河内小阪駅で待ち合わせて打ち上げするのが定番でした。

大阪商業大学のワクチン接種はTKPが運営しているようでスムーズに案内していました。それはよいのですが接種日は禁酒なんですねえ。テレビで副作用などは散々、報道しているくせに禁酒の話なんて初めて知りました。接種が終わった後、「今日は飲めないんですよね」と聞いたら「飲めません」とキッパリ。そんな大切な情報はもっと事前に報道してよ!

平城京 西市

710年、藤原京から平城京に都が移されます。都には政府直営の東市と西市が作られます。

西市
西市

平安京では米、麦、油、塩、海藻、魚といった食料品。他にも繊維製品、衣類、食器、文房具、薬なども売られていました。太刀や弓などの武器も売られていて平城京でも同様だったのでしょう。

■長屋王商店ではホカ弁を売っていた
藤原四兄弟の陰謀で自刃させられた長屋王も市に店を出していて、弁当と酒を出品していたようです。お米がたくさんあったので付加価値があがるように邸宅内で酒や飯に加工していました。お米は笥に入れて売っていたようで、今でいうホカ弁ですね。荷物が多いと運搬もしていたようです。

練兵場跡

大阪府よろず支援拠点からの帰り道、運動不足を解消するため大阪城の外堀を見ながら森ノ宮駅まで歩いています。

大河ドラマ「青天を衝け」では大政奉還が行われ、いよいよ鳥羽伏見の戦いに突入します。徳川軍の総司令部があったのが大阪城ですが、敗戦後、徳川慶喜は大阪城を抜け出し江戸へと向かいます。朝敵として天皇と戦うのを避けたなど、いろいろな説がありますが尊皇という点では松平容保と徳川慶喜が一番、真摯に取り組んでいたでしょう。玉(天皇)を握ればよいと割り切っていた薩長とは大いに違っていました。

大阪城の南外堀あたりに慶喜は練兵場を作りフランス式の訓練で兵を鍛えていました。「晴天を衝け」では渋沢喜作(高良健吾)が訓練しているシーンが出てきます。明治時代に陸軍が接収し射撃訓練などに使っていたため城南射撃場跡の碑が残っています。

幕府が訓練のために招へいしたフランスの軍事顧問団ですが、戊辰戦争に巻き込まれ騎士道精神なのか一部は脱走して榎本武揚や土方歳三と共に五稜郭の戦いまで戦っていました。その一人がブリュネ大尉で「ラストサムライ」(トム・クルーズ主演)のモデルとなります。

箱殿東交差点

箱殿東交差点。ここの角にある西村クリニックが、かかりつけ医でよく通っています(笑)。この交差点は大昔からあり東高野街道と暗越奈良街道が交差する所です。

箱殿東交差点
箱殿東交差点

東高野街道は京都と高野山を結ぶ街道で古代から官道だったようです。大坂にあった河内湖などの湿地帯を避け生駒山の山麓を通るため、昔から軍の移動に使われ四条畷の合戦や大坂の陣(八尾・若江の戦い)の舞台となりました。

暗越奈良街道は難波から生駒山地の暗峠を越えて奈良へ向かう街道です。奈良時代に整備された官道で難波と平城京を最短距離で結んでいました。

二つのメインの街道が交わる場所なんで往時は賑わったでしょうね。今は西村クリニックと福聚軒(中華)、吾三路(うどん)、魚芳(仕出し屋)さんぐらいしか店はありません。角にあったカラオケ屋さんは無くなってしまい。住宅になっています。

河内廃寺

河内廃寺
河内廃寺

近鉄枚岡駅と瓢箪山駅のちょうど中間あたりに河内寺跡があります。史跡公園として2017年に整備されましたが、既に雑草でぼうぼうになっています。

河内寺は約1350年前の飛鳥時代後期に造られた古代寺院。中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっていました。北西側に隣接して河内郡衙(ぐんが)があったようです。郡衙とは律令制度時代、郡の官人(郡司)が政務を執った役所です。701 (大宝1) 年の大宝令によって郡となりましたが、それまでは評 (こおり)でした。

■河内氏
河内廃寺を建立したのは河内氏で河内郡をおさめていました。渡来系氏族で伽耶(かや)出身のようです。昔の日本史では任那って習いましたね。白村江で日本が大敗した後、遣唐大使として唐へ派遣されたのが河内直鯨(かわちのあたいくじら)です。その功績から直(あたい)から連(むらじ)となります。本来は百済系のはずが新羅と組んだりして百済の聖明王から叱責を受けたりしています。なかなかの人物だったようです。

大きな伽藍だった河内寺は鎌倉時代に土石流に巻き込まれて廃寺になったことが発掘調査で分かっています。サンロード瓢箪山商店街から5分ほど登ったところにありますが、迷路のような所にあるのでたどりつくのは大変です。

瓢箪山

日経新聞の「私の履歴書」。毎朝読んでいますが、ちょうどタイのサハ・グループ会長が連載中です。

今日は1954年に父親の仕事の手伝いから大阪に駐在した頃の話で、最初に住んだのが東大阪の瓢箪山だったそうです。ウチの近所だ(笑)。

近鉄奈良線・瓢箪山駅のすぐ近くに瓢箪山稲荷神社があります。秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方角(大坂城の南東)に鎮護としてお稲荷さんを勧請したものです。神社は双円墳の瓢箪山古墳に造られ、このため一帯が瓢箪山という地名になっています。

瓢箪山駅の南北にはジンジャモール瓢箪山という商店街が連なり元気な商店街として残っています。この商店街にタコヤキ屋をそのまま居抜きで使っている花屋があり、大きく看板に「たこやき」と上がっています。店の名前を知らなくても「たこやきの花屋」で通じるので、うまいやり方ですねえ。

長宗我部 物見の松

大坂夏の陣で久宝寺に陣取ったのが長宗我部盛親。ゲームやアニメではめちゃくちゃイケメンに描かれています。刀剣男子など、よう分かりませんな~あ。

冬の陣の和睦条件で大坂城の堀を埋め立てしたため豊臣軍は野戦をせざるをえませんでした。生駒山沿いの東高野街道を京都から進軍してくる徳川軍を横から攻撃するため出撃したのが長宗我部盛親・木村重成・増田盛次隊ら約1万です。当時、大和川は付け替え前ですので北に流れ、鴻池や新開池など湿地帯が拡がっていました。

徳川軍としては大軍が動かせないし湿地帯を避け、柏原、道明寺あたりまで南下し大和からの徳川軍と合流して大坂城を攻めるしかありませんでした。この東高野街道で行われたのが高師直と楠木正行の四条畷の合戦で、昔からここで戦うしかなかったですね。

■物見をした松
先頭の木村重成隊は若江村に、長宗我部隊は若江村の南にある久宝寺村に到着します。この時に物見をしたのが写真の場所で碑だけが残っています。豊臣軍は若江から八尾にかけて大きく布陣し、これを発見したのが藤堂高虎隊。

物見の松
物見の松

一軍を木村重成隊へ、別軍を長宗我部隊先鋒の吉田内匠と増田盛次へ、本隊は長宗我部隊本隊に向かいます。実は長宗我部家が改易になった時、仲がよかった高虎が多数の長宗我部の家臣を引きとってくれており、藤堂軍には旧臣達が多数いましたが、戦では戦うしかありません。湿地帯での戦いとなり長宗我部軍は強く、散々に藤堂軍を打ち破りますが木村重成が敗死したと連絡があり、引き上げます。

許麻神社

久宝寺にある許麻(こま)神社。

許麻神社
許麻神社

■式内社とは
祭神は素盞鳴命、高麗王霊神、牛頭天王、許麻大神で式内社です。式内社とは927年(延喜のあとの延長5年)にまとめらえた延喜式神名帳に載っている神社のことで、とっても古くからある神社の証明になります。延喜式が出たのは菅原道真の怨霊が語られだした頃ですね。皇太子が若くして亡くなり、しばらくしてから清涼殿への落雷で道長排斥に関わった公家らが亡くなる事件が発生します。

■高句麗の祖神?
許麻神社は聖徳太子の建立になっていますが、本当だとすると物部守屋を滅ぼした後の土地を政権が接収したのでしょう。倭名類聚抄に巨麻郷という名前が出てくるのでこのあたりに渡来系氏族【大狛連(おおこまのむらじ)など】を一体に集めたようです。祭神の一つが高麗王霊神ですので三韓時代の高句麗と縁があり、三韓というのは歴史で習った新羅、百済、高句麗です。

668年に高句麗が滅亡し、たくさんの亡命者が倭にわたってきたため亡命者の街ができました。狛江市などもその一つになります。

そうそう三国志で有名な孫権の国である呉も晋に滅ぼされたため、亡命者が倭にわたり伝えたのが呉服、つまり今の和服になります。