津ぎょうざ B1-グランプリ優勝

津ぎょうざ
津ぎょうざ

津ぎょうざがB-1グランプリで優勝したそうです。

「第11回 B-1グランプリ(明石で開催)」で、「津ぎょうざ小学校」が第1位にに2位は「釧路ザンタレなんまら盛り揚げ隊」、3位「袋井宿たまごふわふわほっと隊」でした。津ぎょうざは学校給食から生まれたメニューで、直径15センチの皮を使った大きな揚げぎょうざ。

私が小学校の頃にはなく、小学校給食に登場したのは1985年頃から、今も食べられているそうです。津の名物といえば鰻なんですが、さすがに高いので名物として食べるにはお手頃です。津駅のチャム2Fに入っている飲食店などでも出しています。

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館

東大阪税務署へ行くついでに久しぶりに司馬遼太郎記念館に行ってきました。

司馬遼太郎の各作品は22歳の自分に向けて書かれたことで有名です。学徒出陣で満州の戦車部隊に配属され、終戦は日本に戻ってアメリカ軍の上陸に備えていた時に迎えました。その時に思ったのが日本人はなんで、こんなにバカになったのか、どこで間違えたのかというテーマでした。ここから数々の歴史小説が生まれます。

そういえば最近、「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)を読みましたが、明治以降の日清戦争などからの歴史に焦点をあてています。

けっこう知られていない話が多く、例えば日本がもっと早くポツダム路線を受け入れていたら原爆投下はなかったという説がありますが、もともと既定路線あったことが史料から判明しています。

また国際連盟を脱退した松岡洋右はタカ派のイメージですが、実際は必死に連盟に残るよう調整していました。日本の内大臣に対して、満州に対してゼロか百ではなく8分目ぐらいで我慢し、日本人の潔癖症を発揮し連盟脱退なんてことはやめましょう。

日露戦争がギリギリの戦争だったなどの情報がきちんと政府から出ていたら戦争に至らなかったかもしれませんでしたが、国民もマスコミもイケイケで、皆すごく甘く考えていた背景があります。

岡山御坊

岡山御坊
岡山御坊

岸和田の高台にあるのが岡山御坊。建立されたのは1503年で本願寺実如によって創建されました。和泉から紀州にかけては真宗勢力が強く、石山本願寺から退去した顕如は和歌山の鷺森御坊に移っています。

天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を明け渡した時に織田信長の家臣で岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされてしまいます。織田信長によって和泉国や紀州の平定が行われましたが、本格的に行われたのは秀吉に根来、雑賀攻めで、この時は貝塚の積善寺城、千石堀城、和泉・高井城などに防衛線が作られ和泉が戦場となりました。

穴山梅雪の墓

穴山梅雪の墓
穴山梅雪の墓

同志社大学・田辺キャンパスからずっと東へ行くと木津川があり、その手前に穴山梅雪の墓があります。

甲斐の武田御一門衆の一人だったのが穴山梅雪。母親は武田信玄の姉で、妻は武田信玄の三女です。手薄となった信玄の本陣に上杉謙信が突っ込んだといわれる第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣を守っていました。

信玄亡きあとは勝頼に従うことになりますが織田信忠による甲斐侵攻がはじまると、徳川家康と交渉し、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件にして勝頼を裏切ることになります。まあ勝頼は諏訪家を継ぐはずでしたので信玄亡き後は俺だという気持ちがあったのでしょう。

勝頼が滅んでから、信長への御礼言上のため家康と一緒に安土に向かい信長と謁見します。家康と堺を遊覧した翌日に京都へ向かう途中で本能寺の変を知り、逃げる途中で亡くなります。家康は飯盛山、枚方の尊延寺を経て京田辺に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から伊賀を目指しました。穴山梅雪は家康より遅れて同じコースを行動していたようで興戸から木津川を渡る前に自刃したとも殺害されたともいわれています。

穴山梅雪亡き後に、家康は甲斐に侵攻し、武田の旧臣を傘下にして井伊の赤備えを作ったりして一番得をしていますので、家康が謀殺したという説もあります。また明智光秀軍が家康を探していたので間違えられて殺されたという説もあります。

普賢寺

普賢寺
普賢寺

普賢寺(大御堂観音寺)

創建は義淵僧正で、天武天皇の勅願により建てられました。度々、火災に見舞われたようで現在は大御堂だけが再建されています。現在は観音寺という名前ですが古代・中世には普賢寺と呼ばれていました。普賢寺のすぐ横には地祇神社があり、大西氏をはじめとした地侍の氏寺になっていました。

■神君伊賀超え
本能寺の変が起きた頃、徳川家康は堺から京都へ向かう途中にある飯盛山で、本能寺の変を知らされます。本拠地の岡崎を目指すことになり、これが神君伊賀越えです。ルートについては諸説ありますが、飯森山から生駒山地の北側を抜ける尊延寺(枚方)-穂谷ー普賢寺のコースをとったようです。普賢寺からは草内から木津川を渡りました。足利義昭も普賢寺から河内の若江城へ向かいましたので交通の要衝だったようです。

竹屋精肉店 閉店(津市)

竹屋精肉店
竹屋精肉店

商工中金津支店が移転した跡地に建てた竹屋精肉店が閉店していました。

張り紙には昨年11月21日にオープンしましたが閉店したということで1年もたなかったんですね。レストラン営業は続けるともありました。

でっかい精肉のオブジェが店頭にあったんですが朝日屋と伊勢屋の間に割り込んだ形での出店でしたから、難しかったのかなあ。

大学キャンパスにある筒城宮

筒城宮
筒城宮

継体天皇は応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた人物。万世一系ということなら、ほとんど傍流で、この時に王朝交代したのではという説もあります。継体天皇陵は宮内庁指定ではなく高槻にある今城塚古墳と言われています。

継体天皇は大和に入れなかったのか、または越前-琵琶湖ー淀川の水運(当時の交易は日本海ルートが主でした)を重視したのか根拠地とした宮殿が

507年 樟葉宮(くすばのみや:枚方市)
511年 筒城宮(つつきのみや:京田辺市)
518年 弟国宮(おとくにのみや:長岡京市)
526年 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:桜井市)
と移り替わり、大和に入ったのは即位から19年後になります。

同志社大学・京田辺キャンパスの入口を入ると右手にこんもりとした森があり、階段を登ると開けた場所があって、ここが継体天皇・筒城宮跡伝承地で石碑などが建っています。周りはキャンパスに囲まれています。

京田辺は木津川に近く、琵琶湖と大和や難波(瀬戸内海)との水運を意識するなら最適地になります。

トラカフェ食堂

桔梗が丘
桔梗が丘

午後、企業研修でしたので大阪から桔梗が丘へ。駅前に近鉄百貨店がありましたが、撤退。三重県内の百貨店は津の松菱と四日市の近鉄百貨店だけになりました。

近鉄百貨店時代は喫茶店やパン屋さんなどランチに困らなかったのですが、今は伊勢が中心のスーパーが入っています。このスーパーの一角にトラカフェ食堂があります。別に阪神ファンというわけではなく、スーパー・ギュウトラだからだそうです。伊勢を中心に展開している地元スーパーです。

駅前でランチを食べようとすると、このトラカフェ食堂だけですね。定食が6種類ほどあって安い(460円だっけ?)ですので、とってもリーズナブル。買い物客などが利用しています。

早良親王

祟道天皇陵
祟道天皇陵

大和山村館から少し行ったところにあるのが崇道天皇陵です。

野村萬斎が安倍晴明役だった映画が「陰陽師」。後に羽生結弦選手がこの陰陽師の振り付けでオリンピック連覇を成し遂げました。安倍晴明のライバルが道尊で、最後には早良親王を復活させます。この早良親王が崇道天皇です。天皇にはなっていないのですが、祟りを恐れて延暦19年(800年)、崇道天皇と追称されました。

■早良親王とは
兄が桓武天皇で平安京へ遷都する前に長岡京遷都が行われました。この時に長岡京建設の司令官である藤原種継暗殺事件が発生します。早良親王は、この事件に連座していると疑いをかけられ乙訓寺に幽閉。淡路国に配流される途中、無実を訴えるため絶食し、現在の守口市あたりで亡くなりました。

ここから宮廷などで怪異があいつぎ、早良親王の祟りと噂されるようになります。

■崇道天皇陵
早良親王が死に際し石を9つ投げ、落ちたところに葬って欲しいと告げて絶命したという言い伝えがあり、それらのうち8つがこの地で見つかり、親王の陵が造営されたと言われていますが、本当の被葬者は誰か分かっていません。

天皇陵は山の辺の道沿いにあり、天皇陵の前の池には万葉仮名で書かれた歌碑がありました。

正倉院展

正倉院展
正倉院展

午後に予定していた仕事が日延べになったので、これ幸いと奈良へ。

正倉院展です。昼間に入ったら人だらけですので夕方のオータムレイトチケット狙いです。奈良国立博物館に着いたのが16:30過ぎで、入場待ち時間はありませんが、まだ会場内が混雑していますで休憩コーナーでビールを飲んで時間をつぶし17時に入場。

会場には日本史の教科書に載っていた「鳥毛立女屏風」が六扇すべて揃っていました。往時はヤマドリの羽毛が貼られていたので、この名前がついたんですね。

古文書コーナーには薩摩国正税帳があり、そこに遣唐使の文字が!第二船が唐から薩摩にたどりついたようで食糧などを渡した記事です。この時の第一船には玄昉、吉備真備が乗っていました。当時の記録に、しっかり遣唐使という文字が書かれているのを見ると感激しますねえ。