邪馬台国の前にあった伊勢遺跡へ

伊勢遺跡
伊勢遺跡

考古学で超有名な伊勢遺跡へ出かけてきました。邪馬台国ができる直前にあった東海・近畿連合の拠点と言われている遺跡です。もちろん当時の遺構は残っておらず田んぼや住居の下に眠っていて国史跡となっています。

伊勢遺跡といっても三重ではなく滋賀県守山市にあります。遺構が見つかった伊勢町から名づけられました。伊勢遺跡は弥生時代後期としては、国内最大級の遺跡。環濠集落の中に吉野ケ里遺跡のような楼閣や王の建物があり、また遺跡から生活遺物がほとんど発見されておらず、ここが祭祀にまつわる特異な場所だったようです。

■円周状に配置された大使館
とっても不思議なのが楼閣などの祭祀空間があり、この空間を大型建物が同心円上に取り囲んでいます。こんな不思議な配置は国内では見つかっておらず、一説には円周状に配置された大型建物群は各クニからの大使がいた場所で、伊勢遺跡は古代の大使館群だったようです。生活遺物が残っていないのは政治・宗教都市だったからでしょう。

漢書地理志に倭国、分かれて百余国とありますが、魏志倭人伝には30余国へと集約され最終的には卑弥呼が選ばれ邪馬台国になります。伊勢遺跡の大使館は13ほどあったので近畿や東海の13ほどのクニが集まり、さらに九州、吉備などとも話し合って纏向遺跡(邪馬台国)を作り上げたのでしょう。要がなくなった伊勢遺跡は突然、消えてしまったようです。

阪急・上新庄

上新庄駅
上新庄駅

大阪府よろず支援拠点の出張相談で大阪シティ信用金庫・東淀川支店へ。最寄駅は阪急・上新庄駅になります。

昔懐かしい駅でして、大学を出て大阪のITベンダーに就職した時、友人の家が大阪経済大学近くで学生向けの下宿屋をしていたので、そこへ転がり込んでいました。通勤は上新庄駅から阪急です。梅田から十三、南方、崇禅寺、淡路、上新庄と5駅と便利でしたが朝の通勤電車に乗ると淡路駅前のカーブでいつも信号待ち。上新庄駅から乗るとカーブで傾いている方なので乗客の体重が全部かかってきて、なかなかにしんどかったですね。

さて下宿先は、すぐ裏に銭湯があり学生街で食堂なども安く便利だったんですがプロジェクトが忙しくなると終電で帰ることもシバシバ。当然、銭湯はしまっています。

”風呂に入る生活をしたい!”ということから同じ上新庄のマンションに引越。この場所が銀行のすぐ近くで、朝見てきたらマンションは健在でした。

理論更新研修

若宮商工稲荷神社
若宮商工稲荷神社

中小企業診断士は5年ごとに資格更新する必要がありますが、更新要件として毎年1回、理論更新研修を受けなければなりません。

大阪商工会議所6階会議室が研修会場でした。大阪商工会議所といえば敷地内にあるのが若宮商工稲荷神社。若宮稲荷神社と商工稲荷神社が一緒になったものですが、商工稲荷神社を祀ったのが大阪商工会議所初代会頭の五代友厚で大阪商工会議所前に銅像が建っています。

商売繁盛の霊験あらたかですから、研修前にお参りしてきました。

大阪は今日もゲリラ豪雨

本日も大阪はゲリラ豪雨。朝からバスタオルをベランダに干して出てきたのに!

「庭草に 村雨降りて こほろぎの鳴く声聞けば 秋づきにけり」なんて優美な歌が万葉集に出てきますが、昨今のゲリラ豪雨は村雨(むらさめ 強く降ってすぐ止む雨)という雰囲気じゃありませんなあ。

そうそう、村雨といえば南総里見八犬伝で犬塚信乃が持っていた刀が村雨ですね。徳川家に災いをもたらす妖刀村正からの発想ですかねえ。

村正は桑名の刀工で馬道駅近くに屋敷跡があったとも伝わっています。走井山の麓にあり、戦国時代、走井山には北畠の矢田城がありました。信長の伊勢侵攻で滝川一益に攻められて落城し、長島一向一揆攻略の前線基地となりました。

本町橋の夜討

本町橋
本町橋

真田信繁が真田丸で活躍する大坂冬の陣では堺筋本町でも戦いが行われていました。大阪府よろず支援拠点がある大阪産業創造館のすぐ横に本町橋があります。この本町橋の南に陣を置いていたのが蜂須賀軍です。蜂須賀小六が秀吉の天下取りを助け、その功績で子孫は徳島をおさめることになりました。徳川方として出陣していたのが蜂須賀至鎮です。

本町橋の南を守っていたのが蜂須賀家老だった中村重勝。尾張・中村が本貫ですので秀吉や加藤清正と同じですね。ここに夜討をかけたのが塙団右衛門直之で、寝入っていた蜂須賀郡の兵士はビックリ。中村重勝も討ち取られています。塙団右衛門は広報戦略が得意だったようで、「夜討ちの大将・塙団右衛門直之」の木札をたくさん作り、討ち入り時にばらまかせました。SNSのない時代でしたのでクチコミ効果を狙ったのでしょう。塙団右衛門は本町橋の上に床几を置いて、そこで指揮を取っていたそうです。

さて戦死してしまった中村重勝ですが、初代中村勘三郎が息子という説があり、18代中村勘三郎さんが徳島の中村重勝の墓を墓参りしたそうです。本町橋の南というと一華、ぢどり亭あたりが戦いの舞台だったのかなあ。

この男がジブリを支えた。近藤喜文展

ムーン
ムーン

三重県立博物館が開館5周年ということで記念特別展「この男がジブリを支えた。近藤喜文展」を行っています。前から気になっていたのですが、午前中の予定がうまく空いたので、のぞいてきました。

アニメータ近藤喜文の原画やイメージボード、スケッチ等が多数展示されていて、ルパン三世、未来少年コナン、赤毛のアン、名探偵ホームズなど懐かしいですねえ。会場では日米合作映画「リトル・ニモ」のパイロットフィルムが上映されていました。

スタジオジブリ時代になると火垂るの墓、おもひでぽろぽろ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫などが展示され、監督をした「耳をすませば」は特に充実しています。会場の最後には「耳にすませば」に出てくる猫「ムーン」と一緒に写真が撮れる撮影コーナーがあり、SNS対策もしていました。それよりも帰りに見つけたのが博物館入口の階段のところにあったのがムーンのシルエット。細かい仕事をしていますなあ。

大阪などで同様の展示会を行えば連日、長蛇の列でしょうが、さすがに平日の三重県立美術館なんで、ゆったり見られます。9月16日までで、平日月曜は休館です。

梅田阪急ビアガーデン

梅田阪急ビアガーデン
梅田阪急ビアガーデン

知り合いからビアガーデンに行きませんかというお誘いが 

”一番暑い夏の金曜夜にビアガーデンに行こう”となんでも6月早々に12名で予約していのを忘れていたということで、そこらへんに声をかけているようです。ビヤガーデンなんて久しぶりなんで、OKと返事。 

場所は阪急百貨店13階にある”うめだ阪急ビアガーデン”でした。けっこう人気があるそうで19時には予約客がずらっと列を作っています。結局、7名が参加したんですが5名は初めての方ばかり。ライター、校正者、公認会計士など多彩なメンバーでした。 

隣がオフィスビルになっていて、煌々と電気がついて残業している横で飲むビールは格別ですねえ。

丸ノ内商店街

丸ノ内商店街
丸ノ内商店街

津の丸ノ内商店街(津城の城域にあったので丸ノ内です)は国道23号線に沿って南北になっているので、暑い夏の朝は東側の日陰を歩きます。これでだいぶ温度が違いますね。

神田神保町の古書店はほとんどが北向きになっていて、これは日で本が焼けるのを防ぐためです。インバウンドで賑わう奈良の東向商店街は東側がすぐ興福寺の境内になっていて西側にしか店ができなかったので東向という名前となりました。ところが興福寺の力が弱くなり東側にも店が作られるようになって、ふつうの商店街となって名前だけが残っています。

赤太郎の天気予報

伊勢新聞
伊勢新聞

東海地域では「伊勢の名物~赤福餅はえぇじゃないか」というCMソングがよくテレビで流れ、赤太郎という名前の漫画の侍が登場します。赤福のキャラクターになっています。

三重には伊勢新聞という地域紙があり、地域の細かな話まで掲載されています。創業は明治11年。同一題字では日本最古の日刊新聞なんだそうです。

この伊勢新聞の題字下に長年赤福が提供する「まんが天気予報」というコーナーがあります。県内を北・中部、南部、伊賀の3地域に分けて、それぞれに赤福のCMキャラクターである「赤太郎」のイラストを挿入した天気が掲載されています。時たま伊勢新聞を読んでいるんですが、天気予報が赤太郎になっていることに始めて気がつきました(笑)。

飛鳥時代の亀形石造物が見つかった四天王寺

四天王寺
四天王寺

天王寺で夜のお仕事でしたので、四天王寺へ寄ってきました。 

聖徳太子が物部氏との戦に勝ったお礼に建立したお寺です。四天王寺の亀井堂で経木流しという供養をするのですが亀形石の背中がプールのようになっていて、ここに経木を浮かべて供養をします。 

昨年、この亀形石が飛鳥にある斉明天皇時代の亀形石造物と同じ時期にできたことが判明しました。飛鳥では酒船石遺跡で発掘されましたが、四天王寺では飛鳥時代から現役で使っていたことになります。夕方で亀井堂は閉まっていましたが、亀形石造物は外から見られました。